【幕間】残念令嬢の父、困惑する

「……旦那様。旦那様」


 馬車の窓ガラスを遠慮がちに叩く音に、コルネリウスは目を開けた。

 十日ぶりの我が家である。

 懐中時計を取り出せば、時刻は午前0時を過ぎていた。

 屋敷は暗く寝静まり、玄関脇の門灯と、眠たげな従僕が捧げ持つランプだけが、ぼんやりとあたりを照らしている。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 こんな時間でも、一分の隙もなく執事服に身を包んだピアースが、流れるようにコートを受け取った。


「この後はすぐおやすみに?」

「いや。執務室に珈琲コーヒーと軽食を頼む」

「かしこまりました」


 このところ、外務大臣であるコルネリウスの仕事は多忙を極めていた。

 隣国マーセデスで王の首がすげ代わり、ここしばらく平和だった両国の関係が、にわかに緊張の度合いを高めているのだ。


 コルネリウスの友人であり、親ケレス派の筆頭でもあったマーセデスの前大使は更迭され、代わって送り込まれてきたのは、反ケレス派の中でも急先鋒のゴルギという男だった。

 ケレスとしては、隣国とは引き続き良好な関係を保っていきたいが、マーセデスの出方次第ではどうなるかわからない。


 室内用のガウンに着替え、執務室に入ってほどなく、ピアースが夜食ののったワゴンを押して現れた。


「留守中、何か変わったことは?」

「はい。実はパトリシアお嬢様が……」

「勘弁してくれ!」


 みなまで聞かず、コルネリウスは頭を抱えて叫んだ。


「あれがまた何かやらかしたのか?」

 

 末娘のパトリシアは、長年にわたって彼の悩みの種だった。

 パトリシアが生まれた年、コルネリウスは外交官として、当時内乱の真っ只中にあったマーセデスに送られた。いつ大使館が襲われるかもわからない戦地に乳飲み子を伴うわけにもいかず、泣く泣く乳母に預けて任国に赴いたものの、まさか十年もの間、あちらに足止めされるとは、誰が予想できただろう。

 やっとのことで帰国が叶い、十年ぶりに対面した我が子は、我慢を知らず、努力を厭い、際限なく菓子をむさぼる豚鬼オークのような少女になりはてていた。

 せめて人並みに育っていれば、由緒あるリドリー家の令嬢として、王太子妃とまではいかずとも、公・侯爵クラスの家には嫁がせてやれたものを――。


「すまん。今覚悟を決めるから、少しだけ待ってくれ」


 コルネリウスは、デスクの抽斗からブランデー入りのスキットルをつかみ出し、乱暴にあおって息をついた。


「よし、いいぞ。報告を聞こう」

「パトリシアお嬢様が、秤を購入されました」

「……は?」


 予想の斜め上どころか、想定外の内容に、コルネリウスはしばしフリーズする。


「秤?」

「はい。300ポンドまで量れる台秤でございます。値段は二万シルでしたので、帳簿には什器として計上いたしました」

「待て待て。一体どうしてそんなものを」

「目方を量るためでございます。――お嬢様ご自身の」

「はあっ!?」


 コルネリウスは、急激な頭痛を堪えるようにこめかみを揉んだ。

 聞き違いだろうか。

 だが、ピアースが見せた帳簿には、執事の几帳面な筆跡で「台秤 §20,000」と間違いなく記載されている。

 では、我が娘はついに気がふれたのか。

 

(そうだな。そちらのほうがありそうだ)


 やはり、あの子は修道院にやるしかないだろう。

 自分たちが最初から育ててやらなかったばっかりに、可哀想なことをした。

 陰鬱なもの思いに耽るコルネリアスをよそに、執事はたんたんと報告を続ける。

 

「ちなみにですが、お嬢様の先月の目方――『体重』というそうですが、ご体重は202ポンド7オンスでございました」

「に、202ポンド!? 我が娘の目方は豚並みか!」


 今度は別方向からの衝撃に、コルネリウスは悲痛な声を上げる。


「いえ、さすがにそこまでは。一般的に、精肉場に出荷される子豚の目方はおよそ240ポンド(約110kg)、親豚はその倍以上ございますから」

「そういう話をしたいのではない!」

「はい。それに、どのみち202ポンドは先月の数値でございます。今朝のお嬢様のご体重は……」

「言うな。どれだけ増えたかなど聞きたくもない」

「ご体重は」


 執事は辛抱強く繰り返した。


「180ポンド12オンス(約82kg)でございました」

「……減ったのか」


 意外だった。

 だが、180ポンドという目方がどれほどのものか、体重測定という概念のない世界に住むコルネリウスには今いちわからない。

 彼の心を読んだかのように、数字に強い執事がすらすらと続けた。


「比較の対象といたしまして、私めの体重が185ポンド(約84kg)、アトキンス夫人が132ポンド(約60kg)、侍女のメリサは110ポンド(約50kg)でございました」

「量ったのか。おまえたちも」


 コルネリウスは呆れたが、執事の謹厳な口許には、滅多に見られない柔らかな微笑が浮かんでいた。

 

「なかなか楽しゅうございましたよ」

「……ふむ」


 娘の考えていることは依然として謎だが、さしあたり害は無さそうだ。

 ――と、コルネリウスは判断した。


「わかった。遅くまでご苦労だったな。今夜はもう休んでいいぞ」


 労い、退出を促せば、ピアースは一礼して静かに下がったが、ドアの前でふと足を止めた。


「ところで、明日のご朝食は、お嬢様とご一緒にとられては?」


 コルネリウスは驚いて顔を上げる。

 同じ屋敷に住んでいながら、父娘はもう何年も別々に生活していたからだ。

 

「一体何が言いたい、ケニー?」


 驚きのあまり、つい昔の言葉遣いが出てしまった。


「言葉通りの意味さ、コル。たまには自分の家族にも目を向けろ。案外、いいことがあるかもしれないぞ。……では、おやすみなさいませ、旦那様」


 再び完璧な執事に戻った幼馴染は、そう言うと、影のように部屋を出ていった。

 王国きっての切れ者と言われる外務大臣ではなく、途方に暮れた一人の父親を後に残して。

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