どちらでも良い症候群

@ashika9999

まえがき

彼女に「お手生チョコレートと有名店のチョコレートどちらが良い?」と聞かれた。


そうだ。来週はバレンタインだ。


私は、オウムのように決まって「どちらでも良いよ。」と、答える。


そう、これがぼくの病「どちらでも良い症候群」である。


人に合わせ空気の読める人であるが、自分で何も決めることのできない病である。


たとえば、両親に「お前の偏差値だったら、あそこの高校もしくは、あそこの高校だな。どっちがいいんだ?」と聞かれても「どっちでも良いよ」と僕は答える。


自分のことにも関わらず、全くと言っていいほど関心がないのだ。


つまり、どちらでも良い症候群は重度の優柔不断ということになる。


あなたも気をつけてほしい。こんな人をみかけたら一見当たり障りのない優しい人でも中身のないこんにゃく人間であるのだ。


そして、自分自身を大切にせず、人間関係も健康、仕事、金銭までも大切にしない。


この発病は、自分だけでなく実は多くの人を傷つけてしまう結果になるのだ。


どちらでも良い症候群が招く破滅をご紹介する。


もし、あなたもどちらでも良いのであれば、この文をぜひどちらでもよく読み進めたまへ。


そしたら、どちらでも良い症候群の恐ろしさに気がつくであろう。


1.どちらで良い症候群:人間関係


わたしの小さい頃は、しっかりと自分の好きな友達と遊んでいた。


大切にしたい人間関係を知っていたのだ。


「〇〇ちゃんの家にゲームしに遊びに行こう。」と、みんなで集合して楽しんでいた。


小学生では、異性など気にせずみんな折々であった。


しかし、高校生になっていからというもの自分で人間関係を選ぶことがなくなってしまった。


どちらでも良いを選択していくうちに、誰とも付き合わなくても良いという結果を招いた。


当然、大学のクラスでも一人ぼっち。


しかし、一人ぼっちでも団体でいても、どちらでも良いのである。


不思議なもので、一人ぼっちでご飯を食べて周りがとやかくいうこともなかった。


なぜなら、とやかく言うこともどちらでも良いからだ。


とやかく言っても面白くないのと、周りは何も言わない。


押しもせず引きもしなければ、周りの人は気にとめないのである。


いじめる人といじめられる人は、ある意味で釣り合いが取れているのである。


もちろん、感情は少なからずあった。寂しい思いを少なからず感じていた。


例えば、プリントを渡されて答え合わせをするときに隣の人に誰もいないときである。


丸付けをお互いすることもできない。


紙切れなので、そんなことはどちらでも良いのだが、単位はほしいので自分で丸付けをする結末である。


先生に「後ろから、プリントを集めていください」と言われ、後ろからペラペラ音がし入れてしまえば誰も分からない。


どちらでも良いことは、最強の効率性があるとすら感じていた。


「どちらでも良い」ので、研究室にもこだわりがなかった。


簡単そうで定員があまっているところに入ることにした。


そもそもこのどちらでも良い症候群はいつからはじまったのだろう。記憶をたどると小学生の椅子取りゲームのようだ。


フォークダンスで有名なオクラホムミクサーの音が蘇る。


「シラソファソラソ(特別じゃない)・シドレミレシレソラ(英雄じゃない)・ラシシシラソラ(みんなのうえには)・・・」で音が切れる。


ガタガタガタとみんながいっせに椅子に座る。


僕は、椅子取りの争い事が僕はきらいだった。争いごとに対してしっかりとどちらでも良くないと思っていたのだ。


少し変わっていたので、争いごとをする理由が分からなかったのだ。


そのため、僕だけ椅子に座らないことが多々あった。男友達は「〇〇の負け。お前椅子取りゲーム弱いな」と、言ってくる。


男だったら分かるだろうが、ジャングル自分のてっぺんがあったら行ってみたく高い景色を視たくなるだろう。マウントを取りたがるのが男だ。


しかし、そんなことよりもみんなと笑顔で過ごしているのが好きであった。


そんな僕を見かねて先生が声をかける「椅子取りゲームわね。音が消えたら椅子に座るんだよ。〇〇君は、どうして椅子に座らないの?」と先生のイライラが伝わってきた。


小学生の僕は答えを持ち合わせていないので下向きで俯きだんまりしていた。


このどちらでも良い症候群が始まったのはこのときからだろう。


先生は仕方がないので「椅子取りゲームに残った人には、黒板に漢字の書き取りをしてもらいます。」と言ってゲームを再スタートした。


ぼくは、どちらでも良いと内心思ったが、みんなの前で漢字の書き取りをする恥ずかしから、みんながアクセク私の椅子と必死になる椅子取りゲームをした。このときに「なんで、争って椅子を奪い合うんだろう?」という感情もあった。当時、言葉にできなかった言葉がぼくのどちらでも良い症候群のはじまりだったのだ。


このときから、友達と遊ぶことも少なからず、どちらでも良いように思った。自然と家で過ごすようになった。


いま、大人たちには言いたい「子供は些細な感情に敏感で一生心に残る。大切なものは記憶に残るからだ。先生も傷を忘れているだけで親や先生などから受けてきたはずだ。だから、親も先生も子供のこころを思い出して触れてあげて、そしたら子供は分かってくれるから。だって、子供は大人を許すだけのこころをもっているからね」いまこうして勇気をもって綴っておこう。


だって、いまは子供のこころに戻っているからだ。


耳を傾けてくれる人は、きっと大人でも子供のこころを持ち合わせている人だ。


反対に、「ばかばかしい」と思う人は、子供のこころを忘れたどちらでも良い症候群のように重度の劣等感の症候群にかかっている可能性が高い。


けど、大丈夫。症候群はどんな形にしろいつかまた回帰するから。子供のこころをもったみんなは、優しく見守ってあげよう。そうすれば、症候群の正体が理解が深まるからね。




2.どちらでも良い症候群:健康


どちらでも良い症候群は、著しく体に負担がかかる。自分を押し殺すことになるのだ。


先程の大学生の続きをしよう。どちらでも良いと目的を失い何をしていいかわからないくなる。


当然、生きる目的すらわからなくなるので、やる気や気力がでてこない。


体は素直なので、それに合わせて肺炎になった。


病院に行くことすらできず、どちらでも良いのだが熱が40度以上5日続く結果、親が流石に見かねて医者につれて行った。


レントゲンを取り医者は「驚かないで聞いてね。肺が真っ白だ。肺炎だね。だめだよ。」と言われて私は慌てない。なぜなら、自分の体のことすらどちらでも良いからだ。


医者はきっと「この子は、何を考えているんだ?こんなに放置して」と内心思っていただろう。


しかし、そんな声が聞こえてもどちらでも良い。


言わるままに薬が渡され「入院する?自宅療法にする?」と医者は言った。


僕は「どちらでも良いです」と言うと横で聞いている母が「自宅療法で様子をみます」と言った。


いまなら分かるが、入院費や手続きを考えるととりあえず自宅療法で悪化したら入院と考えるだろう。


どちらでもよい私にとっては、そのとおりにした。


肺炎ともなると苦しいように思うかもしれないが、どちらでも良いを極めた私は実は気持ちが良かった。ふわふわして意識が朦朧とし死の狭間にいるのだ。


自分を自分で上から見ている。


ここでも、生きるのも死ぬのもどちらでも良いことに思えてしまった。我に返ったときに息がゼーゼーして浅い呼吸になる。


絞った雑巾のような呼吸しかできず、苦しみがやってくる。


いま思うとどちらでも良いの結果を選んだらそうなっていた。


周りから見た、重度のどちらでも良い症候群だ。


社会不適合すれすれに思うかもしれないが、正常者として扱われている。




3.どちらでも良い症候群:仕事


正常者である私は、当然のように社会人になった。職業は、建築業である。


職人さん「ダクト、この寸法で中央に据え付けるけどいい?」と聞かれる。


建築業で働く僕は「どちらでも良いですよ。好きなほうで」と答える。


すると後日、上司に「おまえ据付の位置おかしいだろう」と激怒される。


中央でも片寄りでもそんなのどちらでも良いだろうと思ったが、どうもまずかったらしい。


上司はさらに顔を赤くして続けて言う「しっかり考えた?5W1Hをしっかりしろ」と当たり前体操を言ってくる。


「すみません。安直でした。」と答えるが、内心はどちらでも良いのだ。


もちろん、そんな心構えで仕事をしていては、覚えるのも遅い。


資格?仕事?出世?子供?人生プラン?そんなこともどちらでもよくない?すべてを投げ出すのである。


仕事の代わりなる人などどこにでもいるだろう。その態度は、薄っすらと社内に伝わり多くの人で噂が噂を呼ぶ。とんでもない社員が入ったらしいぞ。と言わんばかりだ。


しかし、どちらでも良いのだ。ここでもそんな人達を押したり引いたりしない。


そこはどちらでも良い症候群良いところでもある。


もう一つ良い点がある。不思議なもので、どちらでも良いので人に言われたら素直に聞く。


「あれやっといて」と言われたらある程度答えようとする。なので、スポーツにおいても全力でどちらでも良いを極め4番に成っていた。「あれやりなさい、これやりなさい」とコツコツ素直に言うことを聞いた結果いつの間にか実力がついているのだ。野球は社会人になってからもコミュニケーションのツールに成った。


なぜなら、社内の野球部があったからだ。そこで、若くて動けるのでピッチャにも4番にもなってどちらでも良い症候群と運動神経で社内のちまたで有名になってしまったのだ。


どちらでも良い症候群であるが、うまくいくことも知っていたのである。だから、正常者として扱われていたのかもしれない。


しかし、会社員と雇われているのもどちらでも良いと思ってしまった。


一度疑ってしまったら、行くのもどちらでも良くなってしまった。


上司に電話をし会社をやめることを伝え、考え直すことはないか話し合った。


無理に引き止めることもなく、受け入れてくれた。


どちらでも良い僕の人生は、どうなっていくのだろう。




4.どちらでも良い症候群:金銭


さぁ、会社を辞めてしまえば当然金銭はなくなって行く一方だ。


しかし、金銭が無くなるのも当然どちらでも良いと思うのである。


うまくいくという思考とどちらでも良いの意識が混ざり合う。すると、どうなるか自分で作り出そうとするけど、どちらでも良い物を作り出す。


その結果できたのが、中途半端な物たちである。


会社員の1年前から、会社をやめて上手くいくと変な自身と覚悟がありブログを書くことにした。いま読み返しても、とても読むことのできないどちらでも良い文章だ。


自分の当時の心が読み取れて面白い。


しかし、それでは残念ながら、人に読んでもらえない。


どちらでも良いは、死んでもらわないといけないことに気が付いた。


なので、ここに書き記し神を殺すことを決意した。


どちらでも良いに助けられたこともあった。エゴは、一時的な浮き輪変わりになっていたのだ。しかし、浮き輪を外して泳ぎたくなり自立する必要がある。


これからさきは、残念ながらその浮き輪を脱ぐ必要がある。


なぜなら、どちらでも良いとは優柔不断で選択ができなくなるからだ。


優柔不断の凄腕の社長や優柔不断の偉人はいるだろうか。


残念ながらいない。


どちらでも良い症候群よ。いままで本当にありがとう。そしてさようなら。


こうして僕は、小さい子供の心に戻るだろう。


原点回帰するだろう。


ガラガラ崩れる音がする。


その崩れは始まりであり、想起である。


また一つ、怠惰の体験を積めた。感情の理解を深めたのだ。


あなたもどちらでも良い症候群にかかっているときは思い出してみよう。


自分の本当にしたいこと、選択したいことはなんだろう。


すると、どっちでも良いことなど何一つない必然に気がつくだろう。

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