第25話 鈴の音


 両端を切り、茹でた枝豆を葉ワサビを醤油漬けにしたものと合える。他には胡瓜とミョウガのぬか漬け、冷凍していた猪肉は青唐辛子とピーマンで炒めて青椒肉絲チンジャオロースーのようにした。


「相変わらずマメねぇあんたは」

「簡単なのしか作ってないだろうよ」

「またそういう事言って…アンタんとこ来ると、お父さんがアレは美味しかったアレが食べたいってうるさくなるのよ」

「いやそんな事言われても…」


 居間で扇風機のまえに陣取りながら、母は転がる石のようにカラカラと喋る。電話でもなんでも、母と会話していると基本的に八割方あっちが言葉を放っている。ほっといたら壁相手でも井戸端会議を始めそうな人だ。


「お前まぁた上手くなったねぇ。いい漬かりしとるよ」

「本当? やったね」


 座布団を三枚重ねにして座る爺ちゃんは、去年会った時より少し丸くなっていた。車椅子に乗る機会が増えたらどうにも肥えてしまって敵わんという事らしい。


「少し食うもの考えんと、歩くのがもっと大変になってしまうよ?」

「わかってるけどよ? 今の世の中ぁ旨いもんが多すぎるんよ」

「あー、それは全くもって同感」


 ばつの悪そうに、爺ちゃんは眉間を軽くしぼませる。


「…親父はどこいったのさ、また煙草?」

「タバコなんてとっくに止めさせたわよ、どうせ運転で疲れてどっかで寝転がってるんでしょ?」

「えぇ、やめられたの? 嘘だぁ!」


 俺が間の抜けた声を出すと母は得意気に、「究極の選択をさせたのよ」と不穏な笑みを浮かべた。俺はそれに苦笑いを返しながら襖を開いて親父を呼ぶ。


「おうパソコン借りとるぞ」

「飯、出来たよ」

「相変わらずマメだのぉ~」


 ニヤニヤとした表情で少し茶化すように立ち上がる。

 親父はいつもどこかふざけた印象があって掴みどころがない。

 俺が母と口論していても、何かを悩んでいても、真剣な表情など一度も見た事がなかった。


「賢治、お前また本書き始めたんか?」

「…勝手に覗くなよったく」

「へへへ、本になったらくれよなぁ」

「ろくに読まんだろ、あげたって」

「俺は読むのが遅いだけよぉ」


 ポケットに手を突っ込んでゆらゆらと肩を揺らしながら居間へと歩いていく。まったく始終ほろ酔いみたいな親父だ。


「飯食ったら婆ちゃんとこ行くんだろう?」

「おう」


 ここら辺の地域では、お盆といえば八月の行事だ。

 東京にいた頃同僚が七月に盆だなんだと言っていることにはしばらく違和感があった。



 ♢



 婆ちゃんの墓まわりの草をざんざんと抜き、墓石の表面についた苔を拭き取っていく。こないだ掃除をしたばかりなのに、もうワサワサと生えてきている。


「うひぃ、暑いのぉ」

「ほれさっさと動け親父」

「そうよ、またあんたお腹出てきたんだから」

「うはははっ」


 きらきらと輝くようになった墓石は、普段よりにぎやかな声に婆ちゃんが喜んでいるような気がして気分が良かった。

 夏に婆ちゃんが飲むのが好きだったサイダーを墓前に置き、皆で手を合わせた。しっとりと汗をかく緑の瓶をみんなで「トンッ」と開け飲み干す。


「くぅ~」

「久しぶりに飲んだが美味いのう」

「そうだね」


 爺ちゃんの車椅子を持ちながら、ゆるゆると坂道を皆で下っていく。これで帰って酒盛りをひとしきりするのがウチのいつものお盆だった。


 ズゥズゥと酒にやられた親父の寝息が畳に転がっている。

 爺ちゃんは一足早く布団へと納まっていた。


「けんじぃ」

「ん?」


 隣の部屋から呼ぶ声がして襖を開く。


「あんた私の服なんかいじった?」

「あっ…い、いやっ穴空いたりせんように洗って一回干したよ?」

「あーそう、マメねぇ…アンタそんなんだから相手が見つからないんじゃないの?」

「はぁ? なんだよそれ」

「料理だ家事だって一人でなんでもやる男っていうのは、隙間がないから相手が寄ってこない事もあるのよ」

「えぇ…」

「アンタってどっか最後の一線は相手に越させない所あるからね」


 そんな理屈聞いたこともない。

 出来ないよりは出来る方がいいだろうに。


「隙は好きを生む…ってね」

「うわぁ…」


 どやっと笑う母親の顔ほど癇に障るものもない。


「……それで、大丈夫なの?」

「何が」

「いやここへ来る前の電話でも元気なかったし、私達が来た時も萎んだ朝顔みたいだったわよアンタ」

「しぼんだ朝顔て…」


 自分の顔を確かめるように撫ぜる。

 そんなひどい顔をしているとは思わなかった。


「大丈夫だよ。ここんところ忙しかっただけ」

「あっそう…。じゃあ今度お見合いでもしてみない?」

「いいって!」


 着替えを終えた母はカラカラと笑って布団を敷き始める。

 しょっちゅう喧嘩をしている癖に、母も父もよく似ているなと思う。

 ひとしきり賑やかな声を振りまきながら、二晩泊まって爺ちゃん達は帰っていった。



 ♢



「あっ…またやった」


 炊飯窯へと流し入れた米を軽量器にすりきりニ杯戻していく。

 俺一人でこの量を食べきることなど出来ない。


 扇風機の音だけが響く台所で米を研ぐ。

 一時は夏中に無くなるのではないかと思っていた米袋の中身は、一気に減る量が落ち着き、一人の時に食っていた量というのは、こんなに少ないものだったかと思った。


 誰もいない居間で飯を食う。

 いつも通りの風景だ。


「きっと今ごろ元気に家族と飯を食べてるよな…」


 独り言が板張りの天井に跳ねる。

 喉に押し込むように食事を済ませた。


 山の匂いがまた少し変わった気がする。

 活気にあふれた青さは落ち着いて、気が早いことに次の季節の芽吹きを待つような、そんな雰囲気がそこかしこから漂ってきている。


 去年の今頃であれば秋の実りを思い、わくわくと腹を空かすように辺りを見ていただろう。けれど今、身体の中にある空白は何を食ったら埋まるのか見当もつかなかった。


 黙々と山道を踏みしめる。

 渓流岸に立ち、岩を打ち付ける水音に耳を澄ませた。

 気持ちの良い水音に身を任せる。

 そこに割り入ってくる声はない。


 目を開くと山のそこかしこに浮かび上がる姿がある。

 だがその姿は陽光に溶けていってしまい、眩しい緑が視界を埋めていく。この山に爺ちゃん以外との思い出が棲みつく日がくるなんて、俺は思ってもいなかった。全てを白く飲みこんでしまいそうな太陽の光に目を細めた。


 坂道を登りきると小さな広場に辿り着く。

 広場の中央には、風で動かないような大きめの石がいくつも集められ置かれている。裂け目の目印として俺が置いたものだ。


 またぞろ厄介な生き物や、流れ者が現れるかもしれない。

 幸い小山程の狂暴な鳥などは現れなかったが、夏の間は山へと登る頻度を下げるつもりはなかった。顔なじみが恐竜に襲われる姿など見たくもない。


「っとと……よっし」


 広場を囲む太い木の幹に、黄色い布を縛りつけていく。

 石だけでは台風が来た時などに流されてしまうかもしれない。


 広場の中央に立ち、ぐるりと周りを見回していく。

 蝉の声もだいぶ落ち着き、遠くにまた新顔の渡り鳥の声が聞こえる。その鳥達もまたすぐに別の地に飛び立っていくのだろう。

 暑い風と共に季節が過ぎ去っていく。


「リィーーン…リィーーン…リィーーン……」


 取り出した鈴を三度響かせる。

 澄んだ音色は青空へと染みわたっていく。音は空へと溶けていき、また山の声だけが戻ってくる。響く軽快な足音も、風変りな呪文のような日本語も返ってこない。顔を上げて大きく息を吸いこんだ。


「……楽しかったよなぁ…ブノ」


 胸に下げた首飾りが、落ちる日を反射させてきらりと光った。




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