第19話 山の頂 ③
きつく結ってまとめた髪をよく茂った葉がなぜる。呼吸を整えてしゃがみ込むように身を低くする。いつもと違い眉間に力が詰まってしまう。
周りからひびく鈍い音に顔を歪ませながら。私は枝木をしならせ木から木へと飛び移っていく。
――「いいかいブノ、まずは木の上を移動して奴を見つけてくれ。そして出来れば、視認出来るギリギリの距離を保ちながら、俺のいる方に誘い込んでほしい」
今朝言われた事を思い返す。
「絶対に一人ではやり合うなよ!」とけんじぃは何度も私に約束させた。
あんなに厳しい顔をしているけんじぃは初めてで、昔父に狩りを教えてもらった時のことを思い出した。
その時の私は自分の力を強く見過ぎており怪我をした。それを父にとても強く叱られたのだ。
『常に相手が上だと思ってやりなさい』普段あまりしゃべらない父が、とても怖い顔をして静かに言った言葉は、狩りをするときに必ず思い返す言葉となった。
今日の相手は戒めなど必要ないほど恐ろしい。心を緩ませれば簡単に命を対価に持っていかれる。
腰元に括りつけた、けんじぃから渡された黒い筒に触れる。
まず何よりも大事なのは先にこちらが見つけ出す事だ。昨日のように不意に遭遇してしまっては逃げることに必死で誘い出すことなど出来ないだろう。
『フッ…!』
両手で掴んだ枝をしならせ、少しひらけた場所の手前の木へと飛び移る。
勢いを殺すように、木の幹を足で踏みつけると、その反動で斜め上へと飛び上がり、頭上の枝を掴んだ。
『……‼』
たどり着いた所は、けんじぃに借りた道具で組んだ私の寝床だ。
先日組み立てたばかりのそれら全ては、バラバラに切り裂かれ、壊されていた。
胸の中が沸き立つ湯を通されたように熱い……。
耳先がわずかに起きて、付け根がピリピリする。
首筋を熱い血がめぐるのを感じて、少し深めに息をはく。血を熱くしてしまっては身体は鈍くなる。
この狩りは絶対に失敗するわけにはいかない。
私は……狩る者だ……!
心を研ぐ。得られる痕跡を見逃さぬように……。
荒らされた寝床の奥に、汚い獣道があった。
…ディオセモネンテは山の王だ。王は逃げないし、隠れない。必要が無いからだ。
王は狩りをするのは自分だと知っているからだ。
粗々しい獣道の少し先、長い首を背中に巻いてうずめるようにして、堂々と寝そべっているディオセモネンテがいた。
寝ている…⁉
今なら思い切りナタで首を……。
その瞬間、ぱちりと宝石のような青い瞳が開かれた。
『殺気に食いつかれた……!』
周りの草木を吹き飛ばすように王は立ち上がる。
私はすぐさま目の前の木の幹を蹴りあげ後方へと跳んだ。
後ろからバキバキと激しい音を立ててディオセモネンテはこちらへと恐ろしい速さで向かってくるのが分かる。
けれど一つ一つ跳べる方向を確認しながら私は移動してきた。
『この距離があれば、追いつかれない!』
太ももをぐんと膨らませ、強く枝から飛び出す。
ここからならけんじぃの場所までは、数十本程度の木を跳び繋げば辿り着ける。パシリパシリと次々に枝をつかんでは跳ね、飛び、前へと進む。
『……8!……9!』
「ギュキャァァァァアアアアアッ‼」
『う…っ』
突然ディオセモネンテが耳が切りつけるような叫び声をあげる。
目の前がぐるりと回転して歪む。『あっ…』掴むはずだった枝を取りこぼし、私は細枝にバサバサと絡まり地面に落ちた。
父の教えをまた思い返す。
――『ディオセモネンテは私達を狩る時に〈声〉を使う」
そう…彼らは長い歴史の中で私達の狩り方を知っているのだ……!
『栓をしてなかったら…気を失ってたかもしれない…っ』
湿った布を詰めた耳を確かめる。
血が出ているのではないかと思うほど耳が痛い。
昨日は木の上に逃げて、この声にひたすら怯えながら耳を塞いでいる事しかできなかった。
あの時けんじぃが来てくれなければ、私は疲れ果てたあと木から落ちて殺されていただろう…。
だが、今日は違う。
布を巻いた腿をばしりと叩き、再び木へと飛び上がる。
視線を後ろへと飛ばすとディオセモネンテは急な山道を飛ぶように進んでくる。かなり距離を詰められてしまった。
『っ…!』
枝を蹴る足がゆれる。飛び移るのが遅くなってしまっている。王は勝ちを確信したらしい。細かく馬鹿にするように声を出して、こちらを脅すように楽しんでいる。
『はっ…はっ…はっ…!』
ついには追い付かれてしまいディオセモネンテは飛び跳ねる私の真下を走り始めた。
『はっ…はっ…くっ…』
そこで私は枝にがしりと掴まり思い切り止まる。
ディオセモネンテは、即座に近くの木を折り倒す勢いで蹴りつけ、器用に身体を反転させた。
ざくりざくりと土を踏み抜き、相変わらずこちらをからかうように細かく声をだして近づいてくる。
『ディオセモネンテ……』
『ギャ…ッ、キキャッ…』
『お前は…王だから、相手を上だと思うことなんてないんだね』
私は腰に括った黒い筒を引き抜くと、ソレをディオセモネンテへ突き出し、その〈引き金〉を引く。
筒からは凄い勢いで煙が噴き出し、ディオセモネンテの首先を包んだ。
『ギャカァァァアアアッ』
さっきまでとは違う、苦痛に歪んだ叫び声を巨体を揺らして絞り出している。
――「これはこっちの一番強い獣、熊を撃退するときに使う道具なんだ。とても強力で目が焼けるような煙を吹き出す。使うときは必ず風上で使わないといけないよ?」
ブンブンと首を振りディオセモネンテがその場で踊るように暴れ出す。
「…すごい、威力」
けんじぃから渡された武器の力に驚きつつも、私は再び枝を跳び移りながら、巨体から十分に距離をとる。
ディオセモネンテはその大きな瞳から大粒の涙をボロボロと流しながら怒り狂い、また私を追いかけ走り出す。
『あれじゃ力を示したことにはならないの…?』大分まともに動くようになった足で移動しながら、眉間にシワをよせる。
ディオセモネンテは、自慢のその目の力をだいぶ失っているようで、がんがんと木に身体をぶつけ土を空へと跳ね飛ばし、無理やりにぐんぐんと距離を詰めてこようとしていた。
ほとんど耳の力だけで私を追ってきているようだ。
余裕が失われたのか、またあの叫び声をあげながら追ってくる。
『く……っ』ぐわりとまた視界が歪みかけるが最初の一撃目よりも随分と威力は弱まっている。
『これなら私は飛べるぞ! ディオセモネンテ!!』
私は奥歯をかみしめて枝へと手を伸ばす。
『25……26……!』巨大なモノが辺りを蹴散らす音を背後から聞きながら、足に力を入れる。
「ブノおおおお‼」
『けんじぃ!』
視界の先、木々が開けたその先にけんじぃの小さな姿が見えた。
♢
鼓膜をつんざくような不快な叫び声をあげて巨大な生き物がこちらへと突撃してくる。
その瞳に映っているのは前を飛び跳ねる銀髪の少女だ。
俺はブレーキペダルを踏んだ足を緩め、車をゆったりと発進させていく。徐々にスピードを上げて下り坂の一本道を走り出す。この山で唯一、整備がされている山道だ。
「婆ちゃん、騒がしくしてごめんな‼」
後方の高台に建つ墓石に謝りながら、ついには隣を並走し始めたブノへと叫ぶ。
「跳べぇぇぇ‼ ブノぉぉぉ‼」俺の声を合図にブノは高く飛び上がり、リレーのバトンを受け渡しのように軽トラの荷台へと飛び込んでくる。
「ズシャン‼」と大きく車体が揺れ、よれた車体の鼻先を正すようにエンジンをわずかに吹かす。後方からは相変わらず不快な声をあげながら、猛然とこちらを追っていくるディオセモネンテがいた。
「ようしっ…大丈夫か⁉ ブノ‼」
『問題ない‼』
興奮しているのか、ブノは言葉を変えることも忘れている。俺は声の張りから彼女は無事と判断すると、どんどんとスピードを上げていく。
「しっかり掴まってろよ‼」
ある程度整備をされているとはいえ、コンクリートの道などではない、そんな坂道を思い切り駆け降りるのは、背筋が凍るようだった。
そんなスピードに奴は平然と付いてきている。一本道であればこんなスピードが出せるのかと、バックミラーに映る青い瞳に恐怖を覚える。
60…70…、車の速度メーターは肝を冷やす勢いで針を進めていく。
『こっちだ! さぁ、捕まえてみろ!』
『ギキャカァァァァ‼』
ブノが煽るように奴に声を飛ばしている。
「これっ…スピード、流石に限界だ…っ! 頼む、上手くいってくれ!」
『ギャァァァァァ‼』
奴が飛ぶように更にスピードに乗る。
その瞬間、ディオセモネンテの青い瞳が宙を舞った。
「けんじぃ! やった‼」
「!」
俺は唸りをあげる車のスピードをどうにか少しずつ落としていき、随分と進んだところでようやくと停めることに成功した。
ざりざりと軽トラをバックさせ、ディオセモネンテのいる場所へと戻る。
そこには長い首の中腹から上を、すっぱりと切り落とされた巨体がうずくまっていた…。
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