第18話 山の頂 ②


 膝に置いた手が揺れている。

 湯につかり心を整えたつもりであったが、落ち着いてきた今の方が、むしろ震えはぶり返してきていた。


 脱衣所で脱いだ俺の上着は、背中がばっくりと裂けており、肌着一枚のところでアイツの猛襲を逃れた事実を物語っていた。


「ブノ、本当に足は大丈夫か?」

「問題、ない」


 消毒をし、年季の入った救急箱から出した包帯を、ブノは足に巻いている。無理を言っている様子はなく、血は止まっているようだった。


「山の頂…だったか、アイツはブノ達の山に棲んでいるヤツって事で間違いないんだな?」

「……うん」


 いつになくブノの瞳は威圧感のある尖った光を宿している。

 ディオセモネンテ〈山の頂〉と呼ばれるその存在はその名の通り、ブノ達の住む山々での生態系の絶対的頂点だったらしい。


 それは彼女の種族も例外ではなく、たとえ勇猛な狩人であったとしても、一人では決して向かい合わない必死の相手とのことだった。


「……ブノ達はアイツとどうやって共存していたんだ?」


 人里という守られた世界で生きている自分にとって、自らの生活圏にあのような存在がいることは、信じられないことだった。


 こちらにも熊という王はいる。しかし熊というのは本来臆病な生き物だ。むやみに刺激したり、領域をこちらが侵さなければ襲ってくることなど稀だ。


 今日この目に焼き付いたアイツは明確なとしての自負をその身に纏っていた。

 俺は人生で初めて〈狩られる側の恐怖〉というものを感じさせられた……。


「ディオセモネンテ、自分、一番強い、知ってる。弱い者…殺す。強い者…殺さない。」

「……強さを示せれば襲ってこなくなる…そういうことか?」


 ブノは俺を見てゆっくりとうなづいた。

 俺は変わらず落ち着かない膝をたしなめるように立ち上がり、飲み物を二人分そそいでブノへとすすめる。この渇きは暑さからのものだけではない。


「けど……」

「ん…?」


 ブノの表情がわずかに曇り、手傷を負わされた足に触れる。


「ディオセモネンテ、私、の…血、飲んだ。もう、忘れない」


 ブノは裏山の方角へと顔を向けると、「必ず私、狩り、来る」静かにそう言いきった。


「…あいつは、この家もすぐに見つけられたりするのか?」

「ディオセモネンテ、目、凄く良い、でも鼻、とても悪い」


 視認さえ出来ない状況であれば逃げれはするのか…。

 俺は麦茶をあおり、なにか手だてはないかと何を見るでもなく辺りに視線を巡らせる。


 真っ先に警察に助けを求めるという案が浮かぶ。


 だがそんなことをすれば、たとえ奴を退治出来たとしても、野次馬が詰めかけ、数か月ウチの山は衆人環視の目が絶えない状況になってしまうだろう。


 そうなれば、ブノを元の世界に還すという試みなどまともに出来なくなってしまう。

 それどころかブノの存在を見つけられ、いつ開放されるかもわからない軟禁状態に追い込む可能性すらある…。


「けんじぃ、私…闘う!」

「ちょっ…、何言ってんだ! さっき言ってただろう! 一人じゃどうにもならない相手だって!」


 一人決心をしたような目をしているブノに、俺は椅子を押しのけ抗議する。山道で血の跡を見つけた時の、あのような思いは二度とごめんだった。


「…私、逃げた。だから、けんじぃ襲われた」

「なっ…」

「ディオセモネンテ、山居る、けんじぃ、危ない」


 射貫くような真っすぐな瞳でブノは俺を見つめる。

 肚が座った目だ。家についてからのブノがやけに静かに、それでいて真剣な目をしている理由が分かった。


 止めようにも何かいい手があるという訳でもなく、銃を使えない俺がアイツを相手に役に立てる画は一つとして浮かばなかった。


「タン…タン…」と机を叩き、何か口に出そうとするが、脳裏にこびりつくアイツの、妙に澄んだ青い瞳が、「俺も行く」という言葉を押し込めさせる。


 俺は超人でもないし、腕利きの狩人などでもない。

 けれど彼女をこのまま行かせるなど、出来るワケがない。


 ふと部屋の隅に、爺ちゃんとやたらと若い俺の写真が目に止まる。

 海を背に写る爺ちゃんは最高にご機嫌な笑顔だ。


「ブノ…、アイツはお前を見つけたら際限なく追いかけてくるのか?」

「…絶対」


 そうだ。特別な事など出来なくていいのだ。


「……なぁ、その山の頂とやらを、っちまっても、ブノは何か困ったことにならないんだよな?」

「……⁉ 私達、ディオセモネンテ…対等」

「よし、分かった」


 何が分かったのかもわからないブノを差し置いて、俺は決心した。


「奴を狩ろう」


 そう言い放った俺に、ブノは覚悟を決めていた瞳がぐいんと開き、からかった時に見せる驚いた猫のような顔になったのだった。



 ♢



「……けんじぃ」


 あれこれと使う道具を家中から物色し始めた俺を、ブノが少し心配そうな顔で見つめている。


「大丈夫さ、俺だって死にたくなんかない」


 正直、成功する自信なんてなかった。考えうる方法を用意して、ブノも俺も死なずに、どうにかなる確率を上げていくしかない。


 けれどそんな話をすればブノは今にでもひとり山へ駆けていってしまいそうな気がした。


「まったく…現実相手にこんなことを必死に考えることになるなんてな」

「…?」


 苦笑する俺にブノが首をかしげる。

 押入れから取り出したものをズタ袋に入れ、「昔の話だよ」そう言って部屋を後にする。


「けんじぃ、昔、狩人だった?」

「あはは、違うよ。昔…お話を作っていたんだ」

「おはなし…?」


 今でもそれらで描いた情景が映像として思い浮かぶ。

 うっそうとした森の中で、自らの何倍もの大きさを持つ巨象を相手に立ち向かう少年や、赤い海の上で犬と共に何日も漂流する男。


「けんじぃ、詩、歌う?」

「そうか、ブノの世界では物語の語り部は詩人になるのか」


 物語というものは、書物や演劇というモノが発展する前はまさしく〈物語り〉語る者によって広められてきた。

 民話や民謡、そういったものがそれぞれの地域に生きる人や文化と混じり合い、物語へと昇華されていったのだ。


「まぁ、それじゃあ全然食っていけなくてね。やめたんだ」

「詩、ごはん、難しい」

「はははっ。そう、難しい」


 至極純粋な生き方をしているブノの、さっぱりとした言い方に俺は爽快さすら感じて笑ってしまう。


「……ごはん」

「…誘発してしまったか」


 独り言のようにつぶやきお腹をおさえるブノに、笑いをいっそう大きくすると、暮れ始めた日を見つめ、「晩飯にするか!」と声を張った。


 夜の山でアイツとやり合うことなど土台無理な話だ。

 今晩は打ち合わせをしながら英気を養う事としよう。


 ようやく治まった膝の震えに、明日は出てくれるなよと念じながら、俺は台所へと向かった。



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