第17話 山の頂 ①


「くっ…ブノのやつ、俺のラーメン半分位食って行きやがった…!!」


 ブノの圧倒的な吸引力によって、俺の丼は無惨にも枯れ果ててしまった。

 まぁ、まだ材料は残っているから作ればいい訳なんだが…。


「いや、昨日もいっぱい肉食ったし、ちょっと最近はしゃぎ過ぎか?」


 ブノのわんぱくな食欲にあてられているのかもしれない。それほど彼女は旨そうに食べる。

 自分が作った料理を、あれほど喜んで食べてくれて、イヤな気分になる奴などいない。


「なんだろうな…やっぱり楽しいもんだな…」


 俺はラーメンのおかわりではなく、祭儀で使うための肉の加工をすることにし、冷蔵庫からドサドサと塊肉を取り出す。


 爺ちゃんがここを離れて一年、誰かと一緒に食卓を囲むことなど、めったに無かった。

 屈託の無いブノの笑顔は、好奇心から始まった自分の働きの、根元を変えてきている。


 「ブノを、悲しませたくないな…」彼女を元居た世界へ、家族の元へ帰してあげたい。俺は本気でそう思うようになっていた。


「あ、そうだ。ブノに熊の注意するの忘れてた‼」


 ブノに飯を振る舞うことに没頭しすぎて、そのことがスポンと抜けていた。


「車で一時間も離れた場所の話だから大丈夫だとは思うけど…」


 俺は取り出したばかりの猪肉をまたぞろしまい直すと、ブノの後を追って家を出ることにした。


 山道を辿り、ブノの拠点へと向かう。その途中、妙な痕跡が目についた。


「なんだ……これ?」


 藪を蹴散らして獣道が出来ている。葉や枝が散らばるその様は、猪や鹿などが作ったようには見えず、より大きなモノが突き抜けて行ったような雰囲気だった。


「嘘だろ…?」


 ジワジワと頭上から響く蝉の声が一瞬うすまり、視界が狭くなっていく。

 …まさか本当に熊がこの山に流れてきたのか?


 俺は薙ぎ倒された藪へと駆け寄り、その痕跡を確認する。そこにはブノのものと思われる革靴の跡と重なるように、大きな獣の足跡が残されていた。「なんだ……これ」


「これは……熊じゃないぞ……」


 熊の前足の跡というのは、人の手の平や足の形に似ている。ずんぐりとした五本指の先に爪が生えているからだ。


 しかし、目の前の足跡は三本の太い筋が扇状に刻まれ、その先端とかかとの付け根に、深くえぐり抜かれた穴が空いている。


「こんなのまるで…」


 恐竜じゃないか。その言葉が浅い呼吸にのみ込まれていく。

 足跡を囲むようにある落ち葉の一片に、が飛び散っていた…。


「ブノおおっ!! いるかぁーっ!?」


 ざわざわと心が波立つのを押さえつけ、声を張り上げる。胸が痺れたようになりながら駆け出し、彼女の名を何度も叫ぶ。


 俺は、ブノを還すことを考えるばかりで、当たり前の可能性をハナから除外してしまっている事に気づいた。


 という可能性だ。


 目視できる限りに彼女の足跡を追ってはみたが、それも途中から忽然と消えてしまっている。彼女を追うように続いていた四つ股の足跡も岩場へと逸れており、そこから先の痕跡は追えそうも無かった。


「落ち着け…落ち着け…!」


 血液の量はほんの少しだった。あの血がたとえブノのものだったとしても、致命傷を受けたとは考えづらい。


 そのあとに続く痕跡でも、謎の生物が彼女を捕えたようには見えなかった。


 いくつかの可能性を考える。

 まずはブノが何とか逃げ切り、拠点で傷の治療をしている状況。

 次に何らかの避難できる場所に移動出来たが、現在もつけ狙われていて身動きが出来ない状況…。


 二つ目の状況に考えが至った瞬間、俺は青ざめた。

 もしブノが木や岩の上に待避し、そこで事をやり過ごそうとしていたのなら…?

 その周辺をその謎の生物がつけ狙うように今も徘徊していたら…?


「けんじぃっ‼ 川、飛ぶ‼」

「‼」


 渓流を挟んだ向かいの林からブノの声が響いた。

 その声の方へと顔をふった瞬間、渓流沿いの大きな岩の影から長く太い首がぬっと突き出てきた。


 拳ほどもあるであろう大きな瞳は深い青色をしており、頭蓋と一体化したような黒く巨大なクチバシが太陽の光を鈍く反射させている。


 目が合った瞬間、相手にしてはいけない存在だと背筋を走る悪寒が教えてくれる。


「けんじぃ‼ 走る‼」


 二度目の悲痛なブノの叫びに、俺はようやく身をよじって渓流へと力いっぱい走りだした。


「ザクンッザクンッ」と後方より砂利を蹴り潰すような音が聞こえ、それがみるみると大きくなってくる。

 振り向くことさえ出来ない。その瞬間自分の頭があのクチバシに貫かれる画が、俺の脳裏には既に浮かんでいた。


 踏み込みずらい砂利道に足をとられそうになりながら、喉からせり上がってくる恐怖を飲みこみ、ようやく近づいてきた川へと飛び込む体制をとる。「ザクッザクッッ」数歩前よりもより強く、より激しい音が後方から響く。


 深い位置に飛び込まなければ確実に背中を掴まれる。


「うっ…あっうあぁぁぁぁっ‼」


 大き目の石を踏み台に、俺は渓流へと飛び込んだ。

 全身が冷たい水に一瞬で包まれる中、気泡乱れる水中から水面を見やる。

 そこには翼と思しきものを広げ、目の前の水面を滑空していく屋根のごとき影があった。


 俺は川の流れに逆らわず、後頭部へと手を当て膝を丸めて流されていく。この速さであれば、三分ほどで足の着く浅瀬へと辿り着いてしまうだろう。そこまででアイツが諦めてくれればいいのだが…。


「うぇっほっ…えっほっ…はぁ…はっ…」


 途中どうにもならず息継ぎをしたとき、水を随分と飲んでしまった。ずぶ濡れの犬のように浅瀬から這い出し、辺りを見回すとアイツの姿は見当たらなかった。


「けんじぃ!」


 山道から銀髪を跳ねさせブノが飛び出してくる。その足には布が巻かれ、赤い染みを作っていた。


「大丈夫か⁉」

「ダイジョウブ⁉」


 ブノはアイツが俺に気をとられている間に渓流沿いを大回りし、浅瀬へと駆けつけてくれたらしい。


「傷、浅い。動く」

「よかった…今は、とにかく…山を出よう…」

「……わかった」


 ブノは気遣うように俺の背中へ手を当て、一緒に山道を下っていく。その姿の情けなさに、安堵ともため息ともつかぬ息をはきながらブノへと質問する。


「あいつは…、一体なんなんだ?」

『……ディオセモネンテ』


「山…の、頂」ブノはどこか遠く、別の場所を見つめるようにそう呟いた。



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