第13話 満開牡丹


 ひらけた視界の先に、ザブザブといつもより強く流れる沢が広がっている。


「ちょっとちょっ…ブノっ速いって‼」

「美味しい、食べる。狩る者の、使命!」

「そりゃ…分かるけどもさぁ!」


 俺とブノは二人で、縛り上げた猪を持ち上げ山道を駆け足で進んでいく。


 山中での血抜き、解体作業というのは時間との闘いだ。

 心臓が止まり血流が止まれば、そこから血はどんどんと固まっていってしまう。


 流れる血が身体に大量に残り劣化すると、〈血生臭い肉〉になる。血の味が強く残り、肉全体が粉っぽいレバーのような風味になってしまっては勿体ない。


 ブノの力と健脚は凄まじく、軽く数十キロはある猪を運んでいるとは思えないような速さで山道を進んでいくのだ。


 理想を言うのであれば生け捕りにして、首を通る血管を切り裂き、心臓を動かしたままその力で血液を抜ききってしまう方が、上質な肉を仕立てる上ではいい。


 だが、血を吹き出しながら叫び、徐々に力なく体を沈めていく獣の姿を見るのは正直好きではなかった。

 そう言った俺の言葉を爺ちゃんは、気が小さいとか弱いと貶すことはなく、「お前は山の血が濃いんだなぁ」と楽しそうに笑っていた。


「はぁっ…はぁっ」

「これ、首切って、水漬ける。いい?」

「…はっ…はっ…うん。いいよ」


 一度仕留めてしまえば、その先は猟師免許がない者が仕立てを行っても問題はない。ブノは俺の了承を得るや否や、前足を両手で掴んで、一人でズルズルと沢筋へと猪を引きずっていってしまう。


「……もしかしてブノ一人で持てたのでは…」


 常人離れしたブノの膂力に若干引いていると、ブノは腰元からスラリと美しい刃を抜き出し、猪の首元を切り、頭が胴体よりも下の位置にくるようにして、血が抜けやすくしている。


「流石に慣れてるなぁ」俺はブノの隣へと腰かけるとその手際の良さを褒めた。やはり世界が違うとはいえ、本職というのは違うものだ。


「ふふふ…。やっと、仕事、出来る」

「捌くのも出来そうかい?」

「似た獣、いる。やりたい!」


 いつにも増してブノが生き生きとしている。やはりこれが彼女にとっての日常なのだ。狩人にとって獲物を捌く瞬間というのは、自らの腕を実感する時なのかもしれない…。


「…大きい。良い獣」


 猪の丸々とした腹をやさしく撫でると、ブノの瞳が光りを放ち喉が動く。

 やっぱり美味しいものが食える喜びかもしれない。


 血を抜いている間に二人で拠点へと帰り、こんどは捌くための道具を持って沢へと向かう。

 出来る限り血を抜いたあとは猪の股下から刃を入れて、厚い腹を裂いていく。ブノは皮下の脂をひと撫ですると、ニコリと笑った。


「いい。とても、肥えてる。脂…綺麗、臭くない」

「うん、夏場のモノにしては肥えてる。良いのが捕れたな」


 ブノはまるで何十頭とそれを捌いてきたかのように、澱みなく刃を入れていく。

 血と脂にぬれたナイフを沢ですすぎ、今度は鉈に持ち替え一緒に近くの手頃な石を拾う。大きな刃先を猪の肋骨をつなげる胸骨へと添わせると、石で鉈の背を叩き肋骨を一本一本切り剥がしていく。


 とうとう猪の腹の中は完全にその全容を晒し、そこにはまだ血色鮮やかな心臓・肝臓・脾臓・腸と、ひと繋ぎの生命機関が横たわっている。


 それらをずるりと一網打尽に腹袋から引き抜いていく。


「ふぅ…これ、どうする。けんじぃ?」

「内臓も美味しいものばかりだからね。極力無駄にはしないよ」

「うん!」


 内臓を引き抜いた猪は腹に残る血を洗い流したあと、中に石を詰めて川底へと沈めておく。真夏の野外での処理だ、まだ硬直も始まっていない猪は温もりが残っていて、しっかりと全身を冷やしておかないと、すぐに腐敗が始まってしまう。


 二人で一つ一つ内臓の部位を確認しながら切り分け洗う。

 手のひら程の大きさの心臓には刃を刺した痕が赤々と残っていた。

 俺は心臓の一部を切り取って砂利道から離れる。


「けんじぃ?」


 目に付いた大きな木の根元に小さな穴を掘る。そこに心臓のカケラを埋め上に大きめの石を置いた。


「大事にいただきます」


 全て爺ちゃんがやっていた通りの事をする。ここを継いだ俺だけが勝手をやるわけにはいかない。

 振り向くとブノも目をつむり指先を丸めるように組んで膝を付いていた。感謝や祈りの姿というのは、いつどの世界にあってもどこか似通うのかもしれないなと、静謐さを感じるブノを見て思ったのだった。



 ♢



「美味しそう!」

「だな」


 モモにバラ肉、ヒレに肩ロース、皮を剥ぎそれぞれの部位に切り分けられた肉は、すっかりと食べ物の姿になっていた。


「内臓は足が早いからすぐ食べるとして…ブノはどこが欲しい?」

「選ぶ…いい?」

「もちろん。こんだけ仕事してもらったんだ。食べたい部位を選びなよ」


 ブノは膨らむように笑顔を見せると、敷物の上に並んだ肉達をどれがいいかとワクワクとしながら見つめる。


「…これっ食べたい」

「よーし、じゃあ今日の昼は猪肉祭だ‼」

「うん!」


 すぐに食べるもの以外の肉は密閉できる袋に詰めて網に入れ、沢へ沈めて石で固定しておく。


 俺達は拠点へと戻り、テキパキと食事の準備をしていく。

 マッチを使って焚き火を起こしていくと、ブノは目を丸くしてそれを見ていた。


「けんじぃ…それ、私、も、出来る?」

「あぁ出来るぞ。こいつがあると無いじゃ全然違うよなぁ」


 なんだかブノの手前、反則ワザを使っているような気分になる。

 俺は苦笑いをしながら火の落ちたマッチを焚き火に放り投げると、持ち手のついたまな板を取り出し料理を始める。


 といっても今日やるのは至極原始的、究極野性的、それゆえ快楽に満ちた……焼肉だ‼


 焚き火の周りに空気穴を残しつつ丁寧に石を組んでいき、

 その上に折りたたまれた金網を乗せる。火の調整はブノへ任せ、次は肉の準備を始める。


 たっぷりと分厚く白い脂身を纏った、鮮やかな赤い肉を切りつけ木皿に並べていく。円を描くように盛られたそれは、山中に咲いた赤と白の花のようだ。


 この様が猪肉を牡丹と言う所以と聞いたことがあるが、その真偽は定かじゃない。一説によると獣の肉を食すことが不浄とされる時代に、隠れて食べる時の通名として呼ばれた事が始まりなんて話もある。


「また両方なんじゃねぇの?」みたいな感想が浮かぶが、今はそんなことより、隣でうっとりと肉の華を見つめる野獣を沈めなければ…。


「生は駄目だぞ…⁉ 絶対生で食うなよっ⁉」

「わ…わかった」


 釘差しといてよかった…。まぁ生肉って実際本当美味そうだよな。


 次に心臓ハツ肝臓レバー腎臓マメといった所謂ホルモンと呼ばれるものを切りつけていく。

 先程よりもより深く血の色をした花がもう一つの木皿に咲く。


「よーーーーし、やるか‼」

「うんっ!」


 俺は手袋を取り、金網へと木箸で次々と肉を並べ塩を振る。

 中までしっかりと火を通さなければいけないので、チマチマ焼いていては日が暮れてしまうからだ。


「そーれ祭じゃ祭じゃ!」

「おぉぉぉ!」


「ジュウウッ」と脂が溶けて跳ねる。

 旨そうな肉の匂いが一気に立ちのぼる。


「良い…肉…っ」

「うん。全然臭くない」


 自然の生き物というのは個体差が非常に大きい。怪我を抱えていて餌を充分にとれず痩せてしまっているもの、病気をしていて変な匂いのするもの、逆に王様のようにその地で振る舞い、良い物をたらふく食べて良質な脂を蓄えているもの。


 全く同じ味のモノなど存在しない。それは魚にも、植物にも言える。

 そしてそういっためぐり逢いの中で、当たりを引いた時の感動というのは、店で食べる食事とは決定的に違う充足感がある。


 そういう時俺は、自分の中に流れる本能が満たされるような気分になる。


 焼きあがった猪肉の背肉、最も脂が乗るその部位を口に入れる。脂身の甘い旨味と、赤身の野趣があって濃厚な味が口の中いっぱいに広がる。


 豊かな山で育った猪肉の脂というのは、さっくりとした食感にも関わらず、嚙むほどに甘みを感じさせながら、するりと溶け喉を通っていく。また、それほどの分厚い脂だというのにくどさが全くない。


「くぅぅぅぅ!」


 ただ粗塩を振っただけのこの肉が旨い! 本当に旨い!

 肉というのは人間を獣に戻す力がある気がする。噛みしめるほどに力が身体の内側から沸いて出て、もっともっと…! と食指を進めたくなるのだ。


「イノシシ! 旨い! 肉! 強い‼ 肉‼ 好き‼」


 猛獣がいる。もはや焼けていく肉を見定めるその瞳は、殺気すら漂っていた。


「さて、こっちはちょっと趣向を変えようか」

「ふんっ…んぐっ…けんじぃ何、作る?」


 ギラリと剥き出しの食欲が俺に浴びせかけられる。ちょっと怖いからやめて欲しい。

 捕食者の視線に怯えながら俺は、銀色の小さい器をコトリと網の隅に置く。


「あ、ニンニク!」

「そ、にんにく」


 ニンニクを銀の器に刻み入れ、そこへ鞄から小さな包みを取り出しその中身も入れていく。


 シュアアアッと細かい気泡をあげながら、それは芳醇な香ばしい匂いを放ち、その場の香りの主導権を一気に握る。


「なっ…なっ…なんっ」

「ふふふ……バターさ‼」しかも千円する高いヤツだ‼


 お嬢さん。ガリバタ…いかがっすか。

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