第12話 手を合わせる


「私の、名前、は、ブノです」

「うんうん」

「おにぎりは、とても美味しい、食べ物、です」

「いいよ。うまく言えてる」


 雲一つない空はじりじりと地面を焼いて、遠くの山々を熱気で歪ませている。

 台風は去ったものの大雨の後の山はまだ危ういと、俺はブノを引き留め、もう一晩泊める事とした。地面はぬかるんで、鉄砲水も危ないので魚を捕ることなど出来ないだろう。


 遊ぶ物がさしてあるわけでもなく、時間を持て余していたブノに、「何かしたい事はあるか?」と聞いたところ彼女は、言葉を憶えたいと申し出たのであった。


「今日、は、とても、良い天気、です」

「そうだな」

「けんじぃ、は、料理…に、うまいです」

「料理、が。だな」

「うぅ…難しい!」


 ブノは耳が良いのか、時折不思議な呪文が生まれるものの、何度か繰り返すとすぐにきれいな発音を出来るようになった。

 しかし接続詞は一朝一夕とはいかず、彼女は悔しそうにあぐらをかきながらパタパタと畳を手で叩く。……一方。


『こんねちむぅ。木の上の、賢治じゃん?』

『全部変。けんじぃは舌が捻じれて腐ってるの?』

「おい今ちょっと悪口言っただろブノ!」

「言ってない」


 他言語弱者を舐めるなよ! 超難しい‼

 ブノの言葉は人生で発音したこともないような音があらゆる箇所に散りばめられており、単語一つにしてもまともに話すのは困難だった。


 クスクスと笑い始めるブノに、「小娘ぇ‼ これまでの復讐をしておるなぁ‼」と顔を紅潮させていると、ガラリと玄関を開く音がする。


「賢治くーん! おるかーい?」


 ふたりして飛び上がって口をつむぎ、ブノに隣の部屋へと行くように無言で指示をだす。

 俺はバタバタと玄関へと顔をだすと、近所のカズ婆が、みっちりと何かが入った袋をどすりと床に置くところだった。


「どうしたんよ、そんな大荷物もって」

「いんやぁ、おととい助けてもらったからよぉ」


 台風対策を手伝ってくれたお礼だと、カズ婆さんは特大のスイカと他にも色々持って来てくれたのだった。


「重かったでしょうよぉ、こんなん」

「なぁにまだ腰は曲がってねぇよぉ」


 わははと豪快に笑うとカズ婆は畑はどうだったか、家は大丈夫かとあれこれ心配をしてくれる。

 ただし、ここからがカズ婆は長い。普段ならばそこまで気にはしないが、ブノが居ることを思うとなにかソワソワと落ち着かない。


「賢治くんは、いい人おらんの?」

「あーいやぁ~ははは。なかなか難しいですねぇ」

「なんでぇ。可愛い顔しとんのにぃ。あんまり結婚すんのおせぇと、子育て大変なるよぉ?」


 女性の可愛いという台詞は、いくつになってもアテにはならない。ここの婆様方からすれば、自分の半分にも満たない歳というだけで可愛い判定なのだ。


 どうにかこうにか耳の痛い話を受け流し、また困った事があったら言ってねと送り出す。手土産と一緒に手傷もカズ婆から貰いシュンとして居間へと戻る。


「ブノぉ、もう大丈夫だぞぉ」


 襖の向こうへと、張りの無い声を出す。

 するりと襖を引いて出てきたブノは、不思議そうに俺の顔を見ていた。


「なんだいその顔は」

「けんじぃ、なんで結婚、しない?」


 ブノータスお前もか。


「けんじぃ、は、家ある。山、持ってる。何故?」

「なんでだろうねぇ~い‼ そういう問題じゃないからじゃないかなぁ~~⁉」


 いい年の大人に、「何で結婚しないの?」なんて聞いたら今の世の中セクハラなんですことよブノさん⁉

 おっさんが一人ぷんすかしていると、ブノは尚も納得いかないのか言葉を続ける。


「私達の、一族、けんじぃ同じ、物ある。必ず、結婚する。」


 曰く、俺はやさしいし、健康でご飯を作るのも上手い。優良物件だとブノはつらつらと語る。そろそろ死体蹴りやめてもらえませんかね? 


「じゃあブノ君は俺と結婚できるんですかっつぅ話ですよぉ!」

「ぬ⁉」


 都心で働いていたとき、時おり問い詰められるこの問題を終わらすためにやっていた戦法だ。大概の場合は悲しい事にこれで決着がつく。世の中は残酷だ。


 ……ブノがうつむいている。

 尖った耳先がわずかに赤い。あの…ブノさん?

 あまりの初々しい反応に、なんだか罪悪感が沸いてくる。


「ヨシ‼ 昼飯にしよう‼」


 膝をパンと叩いて強引に話を終わらせると、俺は台所に向かっていくのだった。



 ♢




 翌日も良く晴れ、川の水量はまだ幾分多いものの、大分と落ち着いている。辺りを見回せば、夏山はその美しい姿をすっかりと取り戻していた。

 ブノは洗剤で洗った自らの服の匂いが気に入ったようで、フンフンと若草色の上着をはためかせて前を歩いている。


 今日はブノの新しい拠点作りと、二日間出来なかった、くくり罠を確認するのが目的だ。

 先日話し合って短期間で拠点を移動することになっているので、今日の俺は色々と新しい道具を抱えての入山となった。


 最初の日に、どれくらいの高さからブノが降りてきたのかを逆算してみたので、その高度でめぼしい場所を探す。


 今日持ってきたのは、俺が使っていた寝袋やテントだ。ブノへと設営の仕方を説明しながら、ふたりで野営拠点を建てていく。


「けんじぃ。本当、に、なんでも、持ってる!」


 現代の道具の精巧さにブノは関心しきりで、一つ一つに気持ちのいいくらいの笑顔を見せてくれる。

 ポップアップテントがボカンと開いたときなど、俺はちょっとした猫型ロボットになった気分だった。


 三十分とかからず設営を完了すると、俺達は二手に分かれて罠の確認に向かった。

 一つ、二つと罠を確認していくが、獲物は見つからない。


「駄目かぁ…」


 実の所、今日の成否に関してはそれなりに期待していた。

 雨の翌日というのは獲物がよくかかるからである。


「あの大雨で、はっ…俺らの匂いが流れ落ちてくれただろうから…って思ったんだけどな…っ」


 傾斜の強い場所を息を乱しながら登っていく。雨は匂いを流してくれたかもしれないが、寄せ餌である米糠も流してしまったようだった。


 三つ目の仕掛け場所が視認できる場所へと辿り着くと、遠い位置から目を凝らす。「いる…‼」


 遠くからでもはっきりと分かる。猪がずんぐりとしたその巨体を揺らし鼻をしきりにぶるると鳴らしている。

 辺りは興奮した猪の鼻や足で掘り起こされ、罠をくくりつけている木を中心に、まるで土俵をこさえるように円形の窪地が出来上がっていた。


 相手は既にこちらに気づいているようで、姿勢を低くして俺を威嚇するように睨んでいる。


 沸き上がる興奮と、緊張感が心臓の鼓動を速くする。

 ゆっくりと刺激しないようにその場を離れ、ブノの拠点へと戻る。かさばる道具は全てそこに置いてあるからだ。


 息を切らし戻った野営場所には、膝をかかえてテントに納まるブノがいた。どうやら一足先に確認を終えて戻ってきたらしい。


「そっちは駄目だったか」


 ブノはこくりと落ち込んだ表情で頷く。彼女もこういう日は好機であると分かっていたのだろう。


「落ち込むことなんて無いぞ。こっちにはかかってた」

「けんじぃ! 本当⁉」


 ブノはテントの入り口にひっかかりそうな勢いで立ち上がり、表情を一変させる。なんとも笑顔が眩しい。


「うん、でもかなり大変そうだ。一緒に来てくれ」

「…うん!」


 一瞬で狩人としての引き締まった顔になると、必要な道具を互いに持ち出立する。ここからが大仕事だ。


 再び興奮する猪の元へと辿り着く。

 いつ罠にかかったのかも分からないが相手は、「いつでもやってやろうじゃないか」という殺気に満ちた佇まいをしている。


「匂いがしない…大人のメスだな」


 猟期を過ぎたオスは発情期を迎え、猛烈な匂いを周りに放つ。例え難い匂いであるのだが、無理くり言うのならば、香水と糞を溶かし水で煮詰めたような感じというかなんというか…。


 雌であることに感謝しつつも、目の前に陣取る猪の威圧感に俺は二の足を踏む。ここまで大きい個体を相手にするのは初めてだった。


 もしくくり罠が抜けてこちらに突っ込んできたのならば、牙の小さいメスとは言えどタダでは済まない。

 下手を打てば臓腑をその場に垂れ流すハメになる。


 まずはその最大の武器である鼻と牙を、長い棒の先に縄を着けられた鼻くくりという物で無力化していく。


 興奮し、こまかく足元を踏みしめる猪と向き合いながら、じりじりとその鼻先に小さな輪を持っていく。


「ふっ‼」


 息を吐き、ぐんと鼻先を捕える。

「ブォォォォッ‼」と猪はそれをすぐさま外そうともがくが、引き締まった縄がそれを許さない。


 取り付けられたその縄は既に近くの木に固定させているので、鼻と前足、その二点で猪の自由が奪われる形となっている。


 ここまでくれば、大分と危険は少なくなる。

 俺は長く頑強な枝木をブノから受け取り、息荒く暴れ続ける猪へと対面する。


「ふっ…ふっ……」

「ブォォッ‼ ブォッ!」

「シッ‼」


 鋭く息を吐いて枝木を振りかぶり猪の眉間へと痛打する。

「コーーン」と甲高い骨に伝わる音がして、猪は膝から落ちるようにへたり込んだ。


「けんじぃ…注意!」

「分かってる!」


 ここで気を緩めて近づき、大怪我をするという話はそこら中に転がっている。

 俺はブノからナイフを括りつけたもう一本の太い枝を受け取り、猪の前足の付け根を凝視する。


「……ふっ‼」


 猪の体に力いっぱい刃を突き入れる。

 びくりと猪の体が震え、やがて震える掌に伝わる感触が収まっていく。一瞬の静寂が辺りを包み、俺は刺し入れた刃をゆっくりと引き抜く。


 浅く乱れた呼吸と、耳の骨まで揺らすような心臓の音を聴きながら、俺は両手を合わせ頭を垂れた。


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