第9話 日記


「ふぁっ…あぁ~アイテテ…」


 雨雲にさえぎられ薄明りが畳をわずかに照らしている寝床で、俺は伸びをしながら背中の張りに顔をしかめた。


 すっかり習慣化してしまった早起きも、今日に限っては出来る事はあまりない。

 昨晩の、バケツをひっくり返したような大雨は落ち着いたものの、しとしと落ち流れる雨音は続いている。


「大きな地すべりなんかが、起こらんといいんだけど…」


 雨戸を開き、外の様子をうかがう。

 遠くに見えるうねの隙間には、すっかり水が溜まり、育った株元の安否を確かめたくなる。


「うぅ…頑張ってくれよぉ。お前らぁ」


 窓に手を当て、我が子を見るような面持ちでそれらを眺める。

 大事に育てれば育てるほど、愛着が湧くのはどんな生き物でも一緒だ。 


 しかし身体が重い。一気に疲れが出たようで、早めに寝たにも関わらずどこもかしこも動かせば痛みが走る。

 二十歳かそこらの頃であれば、徹夜をしようがなんだろうが半日寝ればなんとかなったものだが…。


「まぁ、やれることは粗方やったしな」


 もうひと眠りしようかと、ひたひた布団に歩いていく。歩を二つ三つ進めた途中で、寝室の違和感に気づく。


「……なにしてんだブノ」


「あぅっ…」


 ふすまがわずかに開かれ、その隙間から黄色く輝く瞳がこちらを覗いていた。


「ちゃんと眠れたかい?」


「…うん」


 顔半分も見えない隙間はそのままにブノは頷く。

 何か恥じ入っているのか、モジモジとしていてどうにも反応が鈍い。


 昨日散々彼女が泣いていたのをあらためて思い出し、「あれのせいか?」と訝しがるような目線で彼女を見つめる。


「起きたんなら濡れた自分の服でも洗いなさいな。タライを出してくるから」


変わらず渋るような感じのブノに、わざとぶっきらぼうに言葉をほおる。


「わ、わかった!」


 彼女の着ていた服は簡素なモノもあるが、刺繍がとても綺麗な品もあり、洗濯機で洗うことはためらわれた。…下着は言わずもがなである。


 ブノは襖をタンと開くと、勢いよく立ち上がって両手を握りしめた。

 うん。後で母の服をまるごと投げて、どれか着れるものを物色してもらおう…。


 疲労困憊ですっかり失念していたが、ブノは相変わらずワカメちゃん状態だった。



 ♢



 台風は予測よりゆっくりと進んでいるようで、雨雲をまき散らしながら、まだまだその勢力を高める腹づもりらしい。


「まぁ。使える時間が出来たと思おう」そう思うほかない。

 予報に嘆息しつつ、俺は目の前の古びたノートの束に向き直る。

 昨日の昼バタバタと走り回っている最中に届いたそれは、数十年の歳月を感じさせるようにくたびれて波打っていた。


「よーし…。頼むぜ爺ちゃん」


 祈るように手を合わせてから、最も古い年のモノを開く。


 ――4月7日、晴れ。

 麻紀さんから電話あり。賢治の入学式の写真を送ったとのこと。賢治は目も良くなり、とても元気だそうだ。

 夏にまたここへ来て、私の漬物が食べたいと言っているとのこと。うまく作ってやりたい。


 ――4月12日、晴れ。

 体調、まずまず。向田さんにアスパラをいただく。

 朝めしに食べた納豆とスカンポを入れたうどんがうまかった。


 ――5月17日、曇り、夕方から雨

 体調、まずまず。ヒザの調子悪し。空の機嫌が良くない日多く株の伸び悪し。

 久井さんが転んで骨を折ったそうだ。私も気をつけねばならない。息子に迷惑はかけたくない。


 ヒトの日記というのは、なんと味わい深いモノなのだろう。

 考え方や大事にしていること、時世など様々なことがわずかな文字の羅列から汲み取れ、それらが一人の人間の輪郭を少しずつ描いていくようだった。


 良く知る人物だからというのもあるのかもしれないが、爺ちゃんの日記は俺にとって読み物として充分に面白いものだった。


「けんじぃ」


「あぁブノ、うまく着れるもんあった……」


 ブノの下半身にヒョウ柄が張り付いている。一体全体どうしてそれなんだブノ君…。

 昨日俺が真っ先に除外したピッタリとしたヒョウ柄のスパッツを履き彼女は、「動く。楽」と言って嬉しそうにその場で跳ねて見せる。

 まぁ…気に入っているのならば何も言うまい。なんだかちょっと似合っているのが逆に嫌だった。


「それ、何、読んでる?」


「俺の爺ちゃんの日記だよ。これにブノより前に山へとが居たって話が、書いてあるかもしれないんだ」


「‼」


 飛びつくようにブノが俺の隣に座る。その瞬間尖った彼女の耳が、俺の耳を撫ぜた。

「うおっ」と俺が言うより先に、ブノが聞いたことのない声で叫んで飛び退いた。


「ごっ…ごめん、なさい‼」


 ブノはずいぶんと動揺しており、ズリズリと畳の目の上を滑るようにして、向かい側へと座り直した。

 下着を見せることには全く抵抗ないのにどういうことなんだブノさんよ…。


 妙な緊張感が居間に漂い、それを気まずく思ったのかブノは日記へと身を乗り出すようにして、視線をそらす。


「…読めるのか?」


少しつまらなそうにブノは口を尖らせ、「…出来ない」とつぶやく。


「はははっ、まぁこれは俺に任せておきなさい。」


 ブノの助けになるような事が書いてあったら話すよと約束して、俺は記された月日を巡っていく。

 五月、六月、七月。種から収穫へ、瞬く間に紙の上で季節が移り変わっていく。


 ブノは手持ち無沙汰なのか、頭をふんふんと振りながら俺の動きを見つめている。

 ほどなくして行を追う指がピタリと止まった。


 ――8月14日、晴れ。

 哲夫達帰省。賢治また一段と大きくなる。漬物と天ぷらをふるまう。

 山に賢治と一緒に入る。夏の山なので流れ者の話を賢治にする。


「あった!」


 ブノがハッとした表情をして俺の顔を見る。「いや、すまん。詳しい話が書いてあるのを見つけたワケじゃない」そういってブノを制する。変に期待させては、失望させてしまうかもしれない。

 

 俺はその日から先の日記を注意深く見ていく。


 …駄目か。俺に話していた内容以上に詳しい話は、その年の日記には書かれていなかった…。

 けれど、「夏の山なので…?」


 どういうことだろう…。

 いや、ブノが来た今はまさに夏だ。爺ちゃんは裏山には〈裂け目〉があると言っていた。

 その裂け目という表現が、別世界への通り道を指し示すのであれば、それが開くのが夏ということなのか……?


 ブノがここへと来た日は…。頭の中で情報が噛み合う感覚が走る。


「ブノ、君がここへ来たのは俺と初めて会った日の何晩前って言ってたっけ?」


「ふんっ? ん…ん……夜、三つ越えた」


 俺は立ちあがり、居間に掛けてあるカレンダーの日付を指差す。

 俺がブノと会ったのは仕事を一つ仕上げた日だから、今月の十日だ。その三日前……、俺は10に合わせていた指をスッと三つ横滑りさせる。


「七月七日……」



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