第2話 羽釜でおにぎり


 煌々こうこうと炭から放たれる赤い光が釜土を照らしている。煤で所々黒くなったその釜土の上には、羽釜が据えられ食欲をそそる熱気を振りまいていた。


「そろそろ良さそうだな」


 耳を羽釜に近づけると、わずかにパチパチとはじけるような音がする。木蓋を持ち上げ、中を確認すると白く美しい粒が沸き立つように整列し炊き立ての湯気を立ち昇らせている。


「いいね」


 炭を取り出し、釜の中の米をかき混ぜ更に蒸らす。その間に、採ってきたばかりのシソとミョウガを刻み、味噌へと混ぜ込む。


「あっちっあちっあっつぅぅ!!」


 わたわたと体を揺らしながら米を手に持ち味噌を入れて握っていく。仕上げに炒りゴマを振りかければ特製味噌おにぎりの完成である。


「さて、気に入ってもらえるかな…」


 俺の大好物ではあるが、彼女の口に合うかは分からない。一応サラの塩おにぎりも二つ程つくり、箱に詰めていく。


「ほいじゃいっちょ、いってみっか」


 「遠足ですか?」といった出で立ちで俺は玄関を出ると、裏山へと入っていく。



 ♢



 一昨日会った不思議な彼女とどうにか会ってみようと思ったのはいくつか理由がある。

 山という野の地においても、人の世には色々とルールというものがあるのだ。


 先日の岩魚に関しても、私有地であろうと組合が管理していて魚の放流などが行われている河川の場合、遊漁券と呼ばれるものを購入しなければ、釣りをすることは出来ない。

 ウチの山を流れる川は過疎地域すぎてそれの対象とはなっていないが、鳥獣に関してはもっと複雑だ。


 私有地であろうと狩猟免許がなければ、畑の作物をいくら荒らされようが、それらの獣を狩ることは法律で禁止されている。数を減らしている野生動物などはもってのほかである。


 まぁ要は生態系が壊れないように豊かな山を守りましょうねっていう話なのだが、彼女がこの山を根城に野営しているとするなら、そういったものを見境なく狩ってしまうのではないか、という心配があった。


「銃は持っていなかったから、そうそうそんな事も出来るとは思えないんだが…」


 しかし一昨日に目撃した露骨に人離れした身体能力を考えると、やってしまいかねないと頭に画が浮かぶ。


「んーというかそもそも彼女に人間の法が適用されるのか……?」


 まだ信じきったワケでもないが、俺には彼女が普通の人間とはとてもじゃないが思えなかった。


 木漏れ日が地面にまだら模様をきざみ、ひんやりとした澄んだ空気が山に満ちている。


 湿り気を帯びた柔らかい地面からは豊かな土の匂いが漂い、日の光に照らされたヤブカンゾウがオレンジ色の綺麗な花を咲かしていた。


「つぼみがまだ残ってるな」


 今日の目的は山菜ではない。山道を歩いているとついつい楽しくなって視線があちこちへと散ってしまう。


 岩肌を打つザザザという水音が聴こえてくる。


「ふぃー、気持ちいいな」 


 透き通った美しい川が岩の上を気持ちのいい音を立てて流れていく。いつみても綺麗だ。川から吹く涼やかな風を浴びながら渓流沿いを歩いていく。


 水筒から麦茶を補給しつつ、川周辺を注視する。


「魚を捕っているならここら辺が一番とりやすい場所だと思ったんだけどな…」


 そんな事を思っていると透き通った川の中に大きな影を見つけた。


「!」


 ざばんっと水しぶきをあげて、影が水面からとび出してくる。

 結われた白銀の髪と、艶のある褐色の肌に水滴を走らせながら浮き出たそれは、川岸へと水をかき分けその姿を現す。


 川中から現れた彼女は、昨日とは違い下着であろう白い布を、上下に着ているだけで、美しく長い肢体を眩しい太陽の下にさらしていた。

 昨日は上着で隠れていた大きな胸は、濡れて張り付いた布によって強調されており、まるで海外映像の海辺の美女を見ているような気分になる。


「うぉっと…っ」


 一人暮らしで若い異性の肌を目の前にすることなど、とんとなかった俺は、美しい体に目を剥いてしまうが、慌ててその視線をそらした。


「……こりゃ目に毒だな」


 心を乱されてしまっては、当初の目的を見失ってしまう。頭を振って思い切って声を出す。


「なぁ君! こないだは魚をくれてありがとう!」


 あさっての方向を向きながら、声を張り上げる。はてさて、まずは言葉が通じるかどうかなんだが…。


 ざりっという音がして彼女が身じろぐのが分かる。


「君を、罰したり、捕まえたりしたいわけじゃないんだ! 少し話が、出来ないかな!」


 声が返ってこない…。流れる水音に、俺の声が吸いこまれていくだけだった。


「駄目か…」


 また逃げられてしまっただろうか…。あさっての方へと向けていた視線をわずかに渓流へと向け彼女の姿を探すが、そこには大きな水跡が岩場に残されているだけだった。


「ありゃあ…。おにぎり、余らせちゃうな…」


 魚を捕れるとしても、山だけで手に入れられる食料には限界がある。お腹はさぞ減っているだろうと、調子にのって十個ものおにぎりをこさえてきてしまったのは、失敗だったかもしれない。


 嘆息して帰路につこうとしたとき、背後で水が滴る音がして息をのむ。


 「ポタ…ポタ…」という音が後方から響く。わずかな呼吸音が聴こえ彼女が手を伸ばせば届くような距離に立っていることが分かった。


「べ…弁当を…持ってきたんだ。お腹が空いているだろうと思って…」


 驚かせないようにゆっくりと静かに語りかける。相変わらず返答はないが、昨日のように逃げ去る感じでもない。俺の言葉は通じているのだろうか…。


 じりっと時間をかけて、流れる汗を首元に感じながら振り返る。しっかりと手を伸ばせば触れられるような距離で、彼女がその大きな瞳で俺の動きをつぶさに観察している事が分かる。


 水に濡れた美しい銀髪は肌に貼りつき、長く尖った耳がその全容をあらわにしていた。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。


 あらためてこの距離で見るソレは、血が通い確かに彼女の身体の一部であることがハッキリと分かった。

 同時に、体を揺らし目の前で呼吸する彼女が、その瞳の野性的な輝きが、骨格が、俺とは違う存在なのだと本能のようなものが直感させた。


 技術がとてつもなく進化した今の世で、精巧につくられたアンドロイドを見た時に、瞬時にそれが人ではないと分かる。それに似たような感覚だった。


「俺の…言葉は分かるかな…?」


 伏し目がちに彼女に語りかける。俺は彼女を目の前にして、今さら少し怖気づいていた。

 通じなかったのなら、どうにか弁当だけは彼女に渡してみよう。そんな事を考えていると、とても澄んだ静かな響きが耳に届いた。


「少し……分かる……」


 小さく縮んでいた心が沸きたち、顔をふっと上げてしまう。

 俺の急な動きに驚き、彼女の身体がこわばってしまったのに気づいてまた慌てて視線を落とした。


「わた し……飛んだ……帰 れない」


 やはり別の場所から、なんらかの形でここに来てしまったということなんだろうか…。


「帰る…方法……分か らない。ここ、安全、恵み、ある。いさ せて…欲しい」


 色々と聞きたいことはたくさんある。…けれど彼女の懸命な声の響きに俺は、とにかく少しでも安心させてやりたい、そう思った。


「お腹…減ってないか? 」


 そう言うと俺は背負っていた小さな鞄を、ゆっくりと下ろし開いていく。


 彼女の手には細木を削って作りだした、銛のようなモノが握られていた。

 突かれたならタダでは済まないだろう。極力驚かせないように弁当を取り出し、蓋をあける。


「俺の国で、よく食べるものだ。おにぎりと、呼ばれている」


 弁当箱にぎっしりと詰め込まれた白米の握り飯を見せる、彼女は興味深そうに顔を近づけ鼻先を動かしはじめた。


「俺の大好物なんだ。よかったら、食べてみないか?」


 そういって俺は、その中の一つを取り出し口に頬張る。うん、美味い。面倒だけれど羽釜で炊いてよかった。


 ばくばくと美味しそうに頬張る俺をみて彼女の細い首がごくりと動くのが分かった。

 いいぞ、やっぱりお腹は空いてるみたいだ。弁当を彼女にそっと差出し、食べるよう促す。


 彼女はためらいながらおにぎりの一つを掴み上げ、見よう見まねで口の中にゆっくりと運んでいく。


「ん……ん…っ!!」


 黄色味がかったブラウンの綺麗な瞳が驚いたように見開かれ、一口また一口とおにぎりを頬張っていく。


「ん…うん…ん!? ふんんっんん!!」


 あ、味噌に当たったな。

 次々と表情が変わって、超然としていた彼女の存在が少し身近なものに感じられる。


 味噌の塩味が食欲を加速させたのか、一口がどんどんと大きくなり、あっという間に一つ食べきってしまう。

 山の中で塩分を得るというのは大変なことで、この暑さの中彼女がどれだけ枯渇していたかが窺い知れた。


 まだ食べ足りないだろうに、次の一つを手に取ることを躊躇している彼女に向こうで座って食べようと、木陰に突き出た平らな岩を指さし歩きはじめる。


「…よかった、付いてきてくれてる。ふふふ、米の力は偉大だな」


 ありがとうハダ爺。心の中で集落一番のお米を作る爺様に感謝を述べる。


 岩場へと座り込むと、あらためて彼女におにぎりを勧める。

 再び彼女がおずおずとおにぎりを頬張る合間に、麦茶も取り出し、一度俺が口をつけてから渡す。おにぎり麦茶、おにぎり麦茶の無敵攻勢だ。


 夢中で頬張り始めた彼女を満足気な顔で見つめていると、気付けば弁当の中に詰めたおにぎりは半分なくなっていた。


 彼女は自分が勢い止まらずそれだけ食べてしまったことに少し呆然としており、その様がおかしくて俺はひとしきり笑ってしまう。

彼女は恥ずかしそうに俯き尖った耳を少し赤くしていた。


「大きい 感謝…。オニギィ とても、とても、美味 かった」


「そりゃ良かった」


 まだ硬さは残るが、彼女の表情がいくぶんほころんでいるのが見てとれ、俺も嬉しくなる。

 持っていた銛は岩の上に立てかけられ、警戒はずいぶんと緩まったようだ。


「俺の名前は、島居しまい 賢治けんじ。君の名前を教えてくれないか?」


「私…名前、ブノ…北の山のブノ…」


「ブゥネ? いやブゥノかな…」


「ブ ノ」


 口を尖らせて聞きなれない発音を丁寧にする。音を拾うのがなかなかに難しい。彼女は正確に呼んで欲しいのか、なかなか合格を出してくれなかった。


「えーとじゃあ、ブノ。お腹も溜まったようだし…その…服を、着てくれないか?」


 ブノは依然として簡素な布を上下に巻いているだけで、眼前には水着よりも心もとない彼女の素肌がさらされている。


 なんとも目の置き場に困る状況がずっと続いていて、冷静に話を続けるには少し刺激が強すぎた。


「…おぉ。ごめん…なさぃ。失礼…した」


 彼女は今気づいたかのように自分の恰好を見下ろすと、ペタペタと素足で岩場を駆けていく。しなるように動くその四肢はヒョウとかチーターとかそういう動物の機動美を思わせた。





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