ウチの裏山に棲みついた娘が、どうやら人じゃないらしい

郷田地図

第1話 ウチの裏山に何かが棲んでいる。


「うん…問題ないよな」


 縁側に下げた風鈴から、心地よい音が響いてくる。

 汗をびっしょりとかいたグラスから麦茶を一口飲むと、画面に映る文章を流し見て、最終確認をしてから送信ボタンをクリックした。


「うくぅーっ…終わったぁー!」


 日に焼けてすっかりと黒くなった二の腕を伸ばし、思い切り伸びをする。

 畳の上に倒れ込むように大の字になり、解放感に身を任せた。

 

「あとは面倒な直しが飛んでこなきゃ最高だなぁ」


 身体をひとしきり伸ばしたら台所へと立ち上がる。

 冷蔵庫を開けると中でキンキンに冷やされたビールが誘惑してくるが、まだ吞むわけにはいかない。


 取り出したのは、畑で採って冷やしておいたトマトだ。

 台所の蛇口をひねると、都会よりずっと冷たい水が勢いよく流れ出す。それで軽くトマトを洗いその場でかぶりつく。


「うんまぁー」


 口の中にみずみずしい酸味と甘味がじゅわりと弾ける。


「やっぱウチの畑で作ったトマトは味が強いな…」


 おそらく苦手な人なら顔をしかめるような、青臭さと味の濃さがある。しかしこれが俺のよく知る大好きなトマトだった。

 ガシガシとをかじりながら歩きだし、縁側のふちに立つ。


 むせかえるような夏の草花の匂いに包まれ、美しい緑の山肌が連なるように目の前に広がっている。

 日暮れ前の暑い日差しを浴びながら俺はまたぐーんと伸びをした。今日も良い天気だ。



 東京での息をすることもできないような、空の見えない生活に限界を感じ、この古びた家に一人引っ越してきて2年が経つ。


「お前がここに住むっちゅうんなら、家も山もくれてやる」


 半世紀以上ここに住み、裏山の手入れもしていた爺ちゃんにそう言われた俺は、ここで過ごした夏の日々を思い出し決断するより先に、「住みたい」という声が心からこぼれていた。


 都会暮らしで鈍った貧弱な体には、畑仕事も近くの町まで車で一時間もかかる不便さも大変ではあったが、元より山や川が好きな人間だ。苦痛ではなかった。

 

 恐ろしく元気で、顔が怖くて、本当はとても優しい爺ちゃんも、足を悪くしてからここで住むのが難しくなり、隣の県に住む父の家に行くこととなった。それでも長く暮らしたこの場所を誰かに託したかったのかもしれない。


 築60年を超えるこの木造家屋は造りがしっかりしているのかまだまだ現役だ。


 家を囲むようにL字型に三つの畑があり、俺はそこの手入れをしつつネットを介して収入源を確保する半自給自足のような生活をしている。


「仕事終わりの晩酌は何にしよっかなぁー♪」


 冷蔵庫には昼間採って作り置いた、胡瓜と茄子の漬物が入っている。


「あとは豆腐が一丁残ってて、オクラ茹でて刻んでのせるか」


 豆腐以外は全て家の畑から取れたものだ。夏の野菜というのは成長が早く、また取った先からどんどん実を結んでいく。


 ここに来てからというもの、普通に生活してるだけで7キロも痩せた。野菜サマサマである。


「あ、ワサビもほしいな」


 そう言って俺は着替えると裏山へと向かった。

 十分も歩き進めれば鬱蒼とした山道となり、その湿った土手っぱりには鮮やかな緑色の丸い葉をつけた草が生えている。


 自生している野生の山葵わさびだ。栽培されているものに比べて根はあまり大きくなく、葉や茎のほうがどちらかというと主役だが充分においしい。

 つんとしたキレのいい爽やかな香りが好きだ。


 群生しているものを、いくつかむんずと掴んで引っこ抜いていく。


「こんなもんで良いか」


 片手にごそっと緑を携え、元来た道へ帰ろうとすると後ろからカサッと落ち葉を踏み抜く音がする…。


 鹿か狸か。そう思って振り向いた俺の視線の先に立っていたのは、この土地では見たこともない女性だった。


「あんた…一体ここで何をしてるんだい?」


 警戒しながら彼女の身なりを確かめる。不意に山の中で出会って怖いのはどちらかというと野生動物よりも人間だ。

 猟期でもないのに勝手に山に入って狩りをする連中や、何かやましいモノを捨てに来る連中。無断で入ってくる輩にまともな奴はそういない。


 銃は見たところ持ってはいない。少しホッとするが警戒は解かない。身長は俺よりやや小さい程度だろうか。歳の頃はせいぜい二十歳かそこら、もしかしたらもっと若いかもしれない。


「……ッ」


 くるりと反転すると、彼女は軽い身のこなしで重力などないかのように山道を駆けてゆく。


「あっ、ちょっと!!」


 とっさに追いかけようとするが、彼女は藪をすり抜け、飛び越し、倒木の上を迷いなく走り抜けていく。


「はぁっ…はぁ…っ。嘘だろ…一体なんなんだ…」


 去っていった彼女の姿を思い返す。透けるような白髪…いや銀髪なのか? そしてやや明るめの褐色の肌。


 顏の造りは恐ろしく整っており、黄色味がかった大きな瞳、若草色の薄手のケープのようなものをはためかせ、山を駆ける様はまるでファンタジー映画に出てくる人物のようだった。


 昔、爺ちゃんに聞かされたことがある与太話を思いだした。


 「…この山ぁな、がある場所なんよ。じゃからの、神隠しにあったもんが流れつくんことがあるんよ。」


 「たまにな、人じゃのう者も流れてくる。そうわしの爺様が言うちよった。

 もし流れてくるもんがおったら、やさしくしてやらないかんよ。国を離れてさみしぅ思うからの…」


 子供の時分に聞いたときはワクワクと想像を掻き立てられるものであった。だが、それを信じられるかどうかは別の話である。――あるのだが。


「あの耳はまるで……」


 彼女の、風になびく美しい銀髪から突き出た〈長い耳〉それはまさしくおとぎ話に出てくる伝説上の種族と見まごうばかりのものだった。


 かぶりを振って家へと足を向け、道すがら放ってしまった山葵を拾いあげる。


「疲れで夢を見たと思うか、どうしたもんか…」


 自分の山に見知らぬ異国の人間が居た。恐ろしく身軽で銀髪で褐色の耳が尖った……


「誰に話しても、変なキノコでも食ったんだろうって言われそうだなぁ…」


 家へと戻ると上司から仕事の直しが飛んできており、バタバタとそれの対応をする。

 気付けばすっかり夜になっていて、その日は考えるのを保留して俺は寝床へと潜った。



 ♢



「ふあぁっ~」


 カーテンから差し込む朝日が、天井に白く輝く細い道を作っている。俺は目をこすりながら布団を畳み古びた時計をみる。短針はまだ六時を差す前だ。


 夏場の畑作業は早いにこしたことはない。だらだらと寝ていては、夏の日差しに汗を滝のようにダラダラと流しながらする羽目になる。


 もっさりとした作業着に着替え、日よけの帽子をかぶり、収穫と水やりをしようと玄関を出ると、なにやら足元に違和感を感じた。

 

 そこには口を枝木で貫かれた立派なイワナが、二匹ぴちぴちと縁石の上で跳ねていた。


 ここでは、玄関に野菜や米を置かれていることは珍しくない。だが〆てもいない川魚を裸で置かれたのは初めてだった。こんな事をする人間など、この集落には一人もいない。


「夢…じゃなかったらしい」魚を拾い上げ台所へ持っていく。


「しかし…あんだけ猛然と逃げてったのに、なんで捕った魚をくれるんだ…?」


 岩魚の美しい肌を見つめながら、俺は首をかしげるほかなかった。







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