シャム猫のしっぽ・春雷フレーバー
「できた…!今度こそできたよ、ほら!見て!」
熱いオーブンから漂ってくる湯気は、お日様の光を纏って、香ばしいバターの香り。天板に並んだシュー生地は、初めてお手本通りにふんわり膨らんで、なんだか箱座りした猫みたい。
「もー、ねえってば…あちち!」
もこもこのミトンは思いのほか扱いにくくて、天板をテーブルに落っことすみたいしてしまった。お行儀良く座っていたシュー生地たちが一瞬宙に浮く。
浮かれ気分も一転、ひやっと硬直した私に、ニャッ、と一声、叱責が飛んでくる。
「ご、ごめん……嬉しくって、つい……でも見て!いい感じでしょ?」
しばらく無視を決めていた彼女だったけど、わたしの騒々しさには根負けしたか、やっと様子を見に来てくれたみたいだ。
しなやかなボディラインに、すべすべした手触り。手足と耳、しっぽの先、それにお顔だけ真っ黒で、金色の鋭い瞳が黒い毛並みによく映える。うるさそうに毛づくろいを始めた彼女は、いわゆるシャム猫さんだ。
いつ見ても美人だね、とミトンを外した手でほっぺたを撫でようとするけど、ふいっとそっぽを向いて避けられてしまった。ちょっと切ない。
「おや、いい匂い」
「あっ、マスター!おかえりなさい!」
ランチの買い出しに行っていたマスターのお帰りに、シエスタから起き出した猫たちがわらわらと集まってくる。ちょっと壮観だ。
『喫茶・猫のひげ』は、現在お昼休憩中。午後からの営業に入る前に、部外者のくせにキッチンを貸してもらっていたのが、カウンターの中で小躍りしているこのわたし。小春日和の陽気も相まって、より一層にこにこしてしまう。シャムの彼女は呆れた表情をわたしに向けている。
「良かった、成功しましたね。とっても美味しそうに焼けています」
「ありがとうございます!先生が良かったから」
「いえいえ、とんでもない。ご自身の練習の成果ですよ」
昼休憩の間だけ、材料持ち込みで、片付けも全部やるし午後の営業もお手伝いするから、なんて駄々を捏ねて、特別にマスター直々にお菓子作りを教えてもらうことになったのだ。本当にいつも、マスターにはお世話になりっぱなしなのはわかってるけど。
だって何度やったって上手くいかないから!シュー生地を上手に焼くのは難しい、って知ってはいたけど、お菓子作りなんて初めてに等しいわたしは、その難易度を甘く見ていたらしい。
だけど、ひとりでレシピとにらめっこするのと、教えてもらいながら作るのとじゃ、やっぱりぜんぜん違うってわかった。それにお店には、よく手入れされたオーブンもあるし、おまけにかわいい監視の目もあるし。
「あとは冷ました生地にクリームを詰めて、飾り付けをするだけですね」
「は、はい……喜んでくれるかなあ」
そうだった。やっときれいに焼けたことだけに喜んでいられない。それに作って終わりじゃなくて、相手に渡して、それから、卒業するまでに告白する、っていう大切な工程があるんだから。
金色の視線を背中に感じつつ、昨夜うちで仕込んでおいたクリームを冷蔵庫から取り出した。甘すぎるのは苦手って言ってたから、ビターチョコレートの甘さ控えめなクリーム。それから旬の苺も入れてみることにした。
べつに、ぜったいにお菓子が必要ってわけでもないんだ。これはわたしの問題。成功したら告白する、っていう願掛けみたいなもので、だからあえて難しいお菓子に挑戦した。
「きっと大丈夫ですよ。ねえ」
マスターに語りかけられて、ぴくっ、と彼女の三角の耳が跳ねた。しかしこちらを見向きもせず、私の知ったことか、と言わんばかりに、毛づくろいを続けている。
やっぱり緊張する。もしかしたらこういうの、好きじゃないかもしれない。でも、こんな建前でもないと、どうやって切り出したらいいかわからないんだよ。
「……ね、がんばるから、見ててね!」
何食わぬ顔で顔を洗っている彼女に声をかけた。さいわいキッチンの真ん前を今日の定位置にしたみたいだし、応援してもらっている気分だけでも味わっておこう。
丸い口金にそっと手を添えて、半分に切ったシュー生地にクリームを詰めていく。絞り袋の扱いはさんざん練習したからスムーズだ。クリームも何度も作って味を調整したから、いい具合にできているはず。それからチョコレートで表面をコーティング。でこぼこして柔らかい皮をそうっとチョコに浸す。乾き切る前に、たっぷりのチョコスプレーをまぶして、砂糖菓子のトッピングも添えた。
お菓子作りなんてまだ慣れなくて、胸を張れるような腕前じゃないけど、それでもせめて、丁寧に、心を込めて。月並みかもしれないけど、それくらいしか努力できることがない。わたしの気持ちを受け取ってもらう、成功率をほんのちょっとだけでも上げるために。
わたしの申し出を受け入れて、そしてもしも、もしもだけれど、それを喜んでくれたなら。そうしたら、どんなにか幸せだろう。
逆に断られたら?……考えるだけで、つらい。嫌われたくないよ。だけど、それでもわたし……
横道に逸れ始めたわたしの考えを読んだかのようなタイミングで、ガシャーン、と派手な音が鳴り響いた。
「うわ!な、なに、どうしたの!?」
見れば、カウンターに置いていた空のボウルが床に落ちたのだった。机上にはしれっと毛づくろいを続ける彼女。アルミ製の軽いボウルは、白黒のしっぽの射程範囲内だったのだろう。
音に驚いた数匹の猫ちゃんが、向こうへ逃げていってしまう。せっかくマスターにお昼ご飯をもらっていたところだったのに。
「こら!ダメでしょ、みんなびっくりしちゃったよ」
彼女はつんと耳を寝かせたまま、わたしの話なんか聞こえていませんよ、のポーズを取り続けている。今日はなんだか、いつにもましてご機嫌が優れないようだ。
拾ったボウルは彼女が手を出せない位置に置き直して、ラッピングの準備に取り掛かった。
「もう!今日はどうしてご機嫌ななめなの?お腹でもすいた?」
彼女は長いしっぽをカウンターに叩きつけながら、シャーッ、と牙を剥き出してわたしを威嚇してくれる。でもわたしにとっては返事をしてくれたこと自体がご褒美みたいなもので、ついにやにやと口角が弛んでしまう。この反応が余計に怒らせるのはわかってるんだけど。
「えへへ、ごめんってば。機嫌直して、ほら!綺麗でしょ?」
包装フィルムの口を縛るための、金色のリボン。左右に振って見せれば、彼女の瞳も動きを追いかけてきょろきょろ揺れ動く。同じ金色が光を反射してキラキラ輝いた。
最後の仕上げにリボンを結べば、やっと完成。同時に肉球形をしたタイマーが鳴って、昼休憩の終わりを告げた。
「これで……よし!ねえ、どうかな?」
我ながら上出来かも。こうやって包むとより美味しそうな気もするし、それにやっぱりこのデコレーションにして良かった。浮かれ気分で袋を眺めながら、カウンターに佇む白黒の彼女に声をかけた。
「……まあ、悪くないんじゃねえの」
予想外に返ってきた返答に、反射的に振り向いた。
真っ白なウルフカット。毛先だけは真っ黒で、メッシュを入れたみたいだ。それに、白いまつ毛にふち取られた、ぴかぴか光る金色の瞳。
いつ見てもかっこいい。どきどきしてしまって、せっかくラッピングしたお菓子を落っことすところだった。
「びっくりした、いつのまに変身したの?」
「いいだろ別に、あと変身じゃねえって、何度言わせんだよ」
「急に変わられると、心臓に悪いよ」
「慣れろよ、いい加減。どっちもオレなんだよ」
ヒトの姿になったはずなのに、まだ猫耳が見える気がする。きっと思いっきり後ろに寝かせて、触れたら感電でもしそうな不機嫌ムードを見せつけてるんだろうな。
「聞いてっと、ずいぶん苦戦してるみたいだったけど。ま、けっこう頑張ったんじゃねえ、おまえの割には」
「そ、そう?そう思う?へへ、よかったあ」
食べてくれるかな。美味しいって言ってくれるかな。そわそわと落ち着かないわたしを横目に、彼女はお菓子の袋をひとつ手に取った。
長細い形のシュー生地にかかったホワイトチョコレート、桜の形の砂糖菓子と、コーティングの3分の1ほどを覆う黒いチョコスプレーのデコレーション。彼女の毛並みと同じ配色。白黒2色のチョコレートが彼女のしっぽみたいな、かわいいエクレアに仕上がったはずだ。
反応が気になってちらちら見ていると、とつぜん袋を突き返される。もしかして気に入らなかったのかな、彼女は黙ってうつむいたまま、こっちを向いてはくれない。
「ど、どうかした?」
「……ほんとは、これからもずっと、上手くならなきゃいいのにって思ってた」
「え?」
「誰に渡すんだよ、これ。学校の奴か?」
「それは……その」
いちどにいくつかのクエスチョンマークが浮かんで、わたしは彼女の顔をおそるおそる覗き込んだ。いつになく機嫌の悪そうな、というより、なんだか今にも泣き出してしまいそうな。
言い淀んでいると、不意に視線がかち合う。金色の眼が、きらりとわたしを捉えた。
「やだ!恋人なんか作んなよ、ばか!……おまえがここにこなくなったら、オレ……」
白いまつ毛が濡れて輝いているのに気づいた時、心臓がぎゅっと爪を立てて掴まれる心地がした。それってつまり。こんなことがあっていいのかしら。頭が熱くて、まともに返事もできそうにない。どうしよう、あの子が泣いてるのに!
「ご、ごめん……」
「うるせえよ、謝るくらいなら、それぜんぶオレによこせ!みんなひとりで食ってやる!」
「え!ほんと?もらってくれるの?」
「は?」
わたしはおずおずと手の中の袋を差し出して、彼女を見つめ返した。
「えっと…君にあげるつもりだったの、最初から」
まんまるい目をぱちくりさせた彼女。初めて出会った時も、こんなあどけない顔をしていたっけ。
「今日、君と初めて会った記念日でしょ?だから…」
「……!覚えてたのかよ……」
「当たり前だよ。忘れるわけない」
今でもはっきり思い出せる。春の嵐、雷雨の中でずぶ濡れになっていた子猫が、少女に変わったあの日のことを。
だからマスターには、感謝してもしきれない。あの日、雨の公園でふたりして泣きじゃくっていたわたしたちを、この喫茶店に招き入れてくれた。その上帰る場所のなかった彼女を、『猫のひげ』の一員として迎え入れて、今日まで保護者として彼女を見守っていてくれたんだ。
「それで、その、今まで……ちゃんと言えてなかったな、と思って……」
「な、なんだよ、改まって」
「うん、あのね……もし君がよかったらだけど……わたしが卒業したら、うちに来てくれない?」
彼女に初めて会ってから、ほんとうはずっと考えていたことだった。大好きなこの子と、今度は私が、一緒に暮らせたらいいなって。子供のままでは無理だったけれど、今度こそ、私が彼女を守れるようになりたい。
「こそこそしてごめん。自信なくて、成功したら言おうって思ってたの…」
「……おまえ……」
「でも、もし今回ダメって言われても……やっぱりわたし、諦めないからね。また今度は他のお菓子とか作って、何度でも君のこと口説くから!わたしがしつこいの、知ってるでしょう?」
「……当たり前だろ……ずっと、ずっと見てたんだから……」
彼女の頬から雫が落ちて、上げた顔には不器用な笑みが咲いていた。笑ってくれた。赤くなった鼻をごしごし擦って、ふ、と小さく息を吐く。
「……ほんとに?嘘じゃねえ?」
「もちろん!だからさ、卒業したらアパート借りるし、いっしょに住もう?実はもう就職先も決まってるんだよね」
「え!?う、うそ、おめでとう…なんで教えてくれなかったんだよ!!」
「ごめん、びっくりさせたくて…」
ばか、と彼女は体当たりでわたしをどつく。愛おしくてぎゅっと抱きしめようとして、すかさず猫パンチを食らわされた。
「おめでたいですねえ。私も我が子のことのように嬉しいです」
「そうだ、それから、マスターにも!」「はい?」
「わたし、食品輸入店に就職するから。色んな珍しいお茶とかお菓子とか集めて、お店の仕入れに融通きくようにするんで、楽しみにしててくださいね!」
「おや、それはさらに嬉しいお知らせです。楽しみにしていますね」
こんなことだけで恩返しになるとは、とても思えない。それでもこれまで甘えっぱなしだったぶん、少しずつ返していけたらいいな。大切なこの子のためにも、うんと頑張りたい。
「それじゃあ、色々必要なことはあるけど……まずはとにかく名前!なんにしよっか?ずっと君の名前を呼びたかったの」
これは『猫のひげ』のルール。正式に飼い主として契約しない限りは、猫に名前をつけてはいけない。
だからずっと呼びたくても呼べなくって、いくつも呼び方を考えて、候補ばっかり溜まっていった。彼女はどんな名前がいいって言うだろう?
「……春」「えっ?」
春。これからやって来る、彼女と私が出会った季節。それから、もうひとつわたしにとっては、大切な意味のある言葉だ。
「お前と同じ名前がいい。いいだろ、ハル」
そんなふうに言ってくれるなんて、思ってもみなかった。だって彼女は今まで、私の名前なんか興味もないと思ってたのに。
「……初めて、名前、呼んでくれた」
「そ、そうだっけか……それより、どうなんだよ。嫌なのかよ」
「い、イヤなんかじゃないよ!でもうーん、どうなのかな……なんか自分の名前を呼びかけるみたいな気分になるし……」
「では、漢字は同じで、音読みにしたらいいんじゃありませんか」
「おんよみ?別の読み方ってことか?」
「あ、じゃあ、春って書いて……シュン!わあ、それすごくいいかも。ね、シュン、どうかな」
「……うん。気に入った」
シャム猫の彼女、もといシュンは、泣き笑いのわたしをそっちのけにもぐもぐエクレアを食べ始める。照れ隠しのやり方もいつまで経っても変わらない。
わたしもひとくち、シャム猫のしっぽをかじってみた。ほろ苦くて甘酸っぱい。そんなところもシュンに似てるかも。
今年はふたりでお花見にでも行きたいな。春と出会ったあの公園に。
喫茶猫のひげ 綿雲 @wata_0203
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