冬季限定・粉雪ホットココア

特に猫が好きというわけでもなかった。ただ店の雰囲気というか、ひどく弛緩しきった穏やかに流れる空気が気に入って、日々の仕事に疲弊した時は決まってあの店の甘さ控えめなココアを飲みたくなる。


この日もくたびれ切っていて、煮詰まった脳みそと空腹を訴える腹の虫を落ち着かせようと、私は『喫茶猫のひげ』を訪れていた。

曇天は夜が更けても一向に晴れることはなく、ただ頼りない街灯の明かりだけが、チョコレート色の重厚な扉を照らしていた。


ちりん、と柔らかな鈴の音が頭の横で響く。いらっしゃいませ、と軽やかな声にも構わず、いつものソファ席に身を沈めた。たっぷりとした革張りのソファは、凝り固まった身体をごく柔らかに受け止めてくれる。隣で丸まったまま身を捩らせる毛玉をそっと撫でると、三毛のそいつは満足気に目を閉じた。


ふかふかで暖かい。思わずため息が漏れる。店内はほの暗く、静かなジャズが流れていた。人の声はおろか、猫の鳴き声ひとつしない。静かな夜だった。今夜の客は私一人だけらしい。

頭の隅では未だにぐちゃぐちゃと仕事のことを考え続けていたが、体の方はとっくに限界を迎えていた。うとうとと瞼が重たくなる。目を開けていられない。


ふと、なにか暖かいものに頭を撫でられるような感覚があった。優しくて、慈しむようで、どうしようもなく心地良い。まるで睡る猫を撫でるみたいに。撫でているのは私のはずだったのに。


思考が上手くまとまらない。夢を見ているのかも判断が付かなかった。ろくに注文もできないまま、私は深い眠りに落ちていた。



気がつくと、私はふかふかのブランケットをかぶってソファに横たわっていた。ぼうっとする頭でなんとか起き上がろうとすると、胸の上に積まれた漬物石に妨げられる。

何の責苦だと目を凝らしてよく見れば、大きなグレーの猫がどっしりと鳩尾に鎮座していた。いつの間にか眼鏡すら外して、店先で眠りこけていたようだ。


非難の声を上げる石のような猫を抱き上げてやっと身を起こすと、テーブルの上にはまだ湯気を立てているカップと、クラブハウスサンドイッチ、それに小さな雪玉がいくつか入った脚付きのグラスが置いてあった。温かな赤色のカップは、いつも注文するマシュマロを浮かべたココアで満たされている。呆然としたまま猫を抱えていると、おはようございます、とソファの背後で軽やかな声が聞こえた。


「あ」

「具合、どうですか?ごはん食べられそうですか?」

「え…その、すみません、私」


ふわふわ跳ねた前髪の下でココアのように甘い笑顔を浮かべる店員は、立ち上がろうとする私を、いいですから、とソファに押し留める。足元がふらついて、肩を軽く押された途端にソファに逆戻りしてしまった。


「お姉さん、ひどい顔だったから。よく眠れましたか?」

「…おかげさまで」

「よかった!お腹すいたでしょう、食べて食べて!」


眼鏡をかけて店の奥にある柱時計を振り返ると、時刻は午前4時を回るところだった。そんなに眠ってしまっていたのか。無論営業時間はとっくに過ぎていた。居眠り中の客を起こさずには閉めるものも閉められなかっただろうに、店員の彼女はまるで何でもないようににこにこ笑っている。

ずっと寝ているところを見られていたのかと思うとどうも気まずくて、誤魔化すように眼鏡の縁をぐいと上げ直した。


「…申し訳ない、居座ってしまった上に、こんな」

「そんな、気にしないで!あたしのまかないのついでみたいなものだから、」


彼女はそう言うとまた笑う。テーブルに並ぶそれらはどう考えてもメニューに載っている歴とした商品だった。寝過ごした上さらに時間を取らせるのは、しかし厚意を無駄にするのも、などと葛藤していたのも束の間。眺めているうちに素直な腹の虫が抗議の声を上げた。


「…ありがたく頂きます」

「ふふふ、うん、ごゆっくりどうぞ」


大きめのカップを手に取り、とろりとして濃いココアにそっと口をつける。ほどよい甘さが染み渡り、ふわりと豊かな香りが鼻に抜けた。上品な雰囲気があるのに、どこか懐かしくてほっとする味だった。


おなかが温まると無性に食欲が沸いてきて、サンドイッチに手を伸ばす。こうやってしっかりした食事を摂るのも久々な気がした。かりっとしたトーストに挟まれたベーコンと卵、それにたっぷりの野菜をしみじみと頬張る。


気付くと彼女はテーブルの向かいにスツールを持ち出し、ちょこんと腰掛けていた。倒れるように眠っていた客のことがよほど気がかりなのか、揃いの赤いカップを手に、そわそわとこちらの様子を伺っている。


「…おいしいです」

「え!ほんと?ふふ、うれしいな」


彼女は林檎色に染まった頬にほろりとほどけるような笑みを浮かべ、手のひらに抱えたカップのふちを指でなぞる。子猫が初めて見た玩具に触れるような、初々しい仕草をぼんやりと眺めていると、彼女ははにかみながらカップで口元を隠す。

なにかこちらも気恥ずかしさを感じて、ふたたびココアを口に含んだ。ふと、こぢんまりとグラスに盛られた小ぶりの雪玉達の存在を思い出して、そろりとひとつ摘んでみる。


「これは」

「あ、それ、クッキーです!ココア味、好きかしらと思って」


いつもココアでしょう、と、そう言われてみれば、なぜ私がいつもココアを頼むのを知っていたのだろうか。店員の顔を皆覚えているかと言われると怪しいが、よく見るスタッフは初老の男性で、少なくとも彼女がカウンターに立っているのを見たことはないように思う。


不思議に思いながらもクッキーを齧ると、きょうは雪だし、と彼女が楽しそうに続けた。


「雪?」

「あ、そっか、寝てる間に降り出したから…ほら、」


指差された先を振り返れば、窓の外にはしんしんと淡雪が降り注いでいた。すでに薄らと窓枠に積もっており、それなりの時間降っていたらしいことがわかる。雪のあまり降らない地域だ、これでは交通機関も止まってしまうだろう。彼女はこの後どうするのだろうか。


「すみません、本当に、遅くまでお邪魔してしまって」

「ええ?そんな、大丈夫ですよ、それよりお姉さんは?おうち帰れそう?」

「私はすぐ近くなんで…」

「なら、もう少しゆっくりしていきませんか?あたしもここに住み込みのようなもんだから大丈夫。今出たら寒いだろうし、すっごく」


ね、と甘い微笑みを向けられると、無理に帰る気も解けてなくなってしまった。温かな誘惑に負けてソファに座り直すと、彼女は嬉しそうに、ココアのおかわりを、とカウンターに消えていった。降りしきる粉砂糖のような雪を思いながら、体温で溶けてしまいそうなクッキーをひと粒口の中に放り込んだ。


これが、初めて彼女と言葉を交わした日だった。



「ああ、またそんなに隈を作って!」


挨拶もそこそこにいつものソファに重たい腰を下ろした私に、彼女はせわしなく駆け寄ってくる。一緒に数匹の猫たちもわらわらとやって来て、私の膝や肩口に飛び乗った。


「ぐえ」「あああ、こら!お姉さんお疲れなんだから」


だめよ、と毛玉たちを回収する片手間、小脇に抱えていたブランケットを差し出してくれる。私は有難くそれを受け取ると、膝に抱えた猫ごと毛布にくるまった。

眠気はもう既に限界が近い。彼女はうとうと船を漕ぎ始めている私に笑いかけて、柔らかな声音で囁く。


「おやすみなさい。またあとで起こすからね」


そんなことを言って、一度だって起こしたことなんかないくせに。そう文句を言おうとしたはずが、寝ぼけた唇からは僅かな唸り声のような音が漏れるだけだった。

閉じた瞼にそっと眼鏡が外される感触があって、私は意識を手放した。


あの雪の日以来、私はたびたびこの店を訪れてはこうして睡眠を取らせてもらっている。もちろんしっかり支払って食事もしているが、店に来るなりこうして眠りこけて、起きてから、ということが殆どだった。

時間も場所も取らせているのは重々承知であり、申し訳なく思いながらも、どうせ夜中はお客さんなんて来ないから、と言う彼女とマスターの厚意に甘えてしまっていた。通い始めてかれこれ一年が経とうとしている。


小一時間ほどしてようやく目を覚ますと、彼女は私のすぐ横に座り込んでいた。どうもまた寝顔を覗き込んでいたらしい。もう慣れたことだが、いつもながらそのバターを蕩かしたような甘ったるい眼差しにはどきりとさせられる。


「お姉さん、来る度に今にも倒れそうな顔してるんだもん。少しだけでも休んでいって欲しくて…」


深いアンバーの瞳にじっと見詰められると、どうにもくすぐったいような気分になって、すぐに目を逸らしてしまう。けれどその体温が側にあることに言いようのない安堵を覚え、暖かな身体にもう少しだけ身を寄せた。彼女は私の肩にその柔らかな頬を乗せると、猫がするみたいにぐいぐい押し付けてくる。


「…いいんですか、唯一の店員が、堂々とサボタージュして」

「だめ?せっかく2人っきりなのに」

「猫がいるでしょう、たくさん」「ふふふ」


なにが可笑しいのか、彼女はそうして頭をこちらに預けたままくすくす微笑んだ。ブランケットの内側からもそりと縞猫が顔を出して、彼女の白い手のひらに撫でられる。


「…心配なの。お願い、ちょっとだけ」


それだけ呟くと、彼女は長いまつ毛に縁取られた瞼を伏せた。毛布の中から去っていった猫の隙間を埋めるように、どちらからともなく手を取って指を絡ませる。

その華奢な指先が、眠る私を労わるように優しく髪を撫でるのを知っていた。私よりよほど高い体温も、柔らかな笑顔も、拗ねた表情も、悲しげな仕草も、甘えるような声色も。


深夜、こうして寄り添ってココアを飲むことが、いつの間にか何物にも変え難いひとときになっていた。


それだというのに、私たちは今なお、互いの名前を知らない。


彼女が尋ねてこないので、私も尋ねた事がない。そう言ってしまえばそれだけの話で。しかしどこか、尋ねればこの居心地のいい関係がまるで変わってしまうという確信めいたものが心の奥底にあった。


億劫にさえなっていたのかも知れない。彼女はいつだって私を甘やかして、私はそれに気づいていながら甘んじていた。この微温いホットミルクのような関係にいつまでも浸っていたいという私のわがままに過ぎなかった。


「…お仕事、大変?最近はどう?」

「…なんです、変なこと聞いて」


なにも、別段変なことではなかった。ただ、彼女が私に仕事のことを聞いてきたのは、存外これが初めてだったように思う。

彼女は普段と変わらぬ様子で私の手のひらを指先でくすぐっていた。しかしその視線は私とかち合うことはなく、何事か思案するようにカーペットを彷徨わせている。


「うん…あのね、その…うまく言えないけど」

「はい」

「…少し、お休みしたほうが、いいんじゃないかな、って」


お仕事、と躊躇いがちに呟いて、前髪の下からそろりと私の目を覗き見る。常々休憩しろとかゆっくり寝ろとか言われてきたが、こうはっきりと仕事を休めと言われると、思いがけず動揺した。


「ここでこうして休ませてもらって、それで充分ですよ」

「そんなわけない。普段お家でちゃんと眠れてないから、あんな酷い顔してここへ来るんでしょう」


正直なところ、彼女の指摘は的を射ていた。近頃は仕事が忙しかろうがそうで無かろうがうまく眠れなくなって、睡眠導入剤を使ってどうにか浅い眠りを摂る始末だった。

だのにここに来ると忽ちの内に瞼が重くなって、短い時間だがぐっすりと眠れるのだ。彼女はそんな私の状態に勘づいていたらしい。


「ねえ…このままじゃほんとに身体を壊しちゃうよ。ご飯だってしっかり食べてる?」

「母親みたいなことを。それなりにしていますよ」

「はぐらかさないで、真面目に訊いてるの」


いつもは穏やかな彼女が、いつになく真剣な表情をしていた。先程までとは打って変わってまっすぐに私を見据える眼差しに、なにか清冽なものに竦められている気になる。


「ここ何週間か、すごく具合が悪そうだし」

「あんたは心配性だからそんなふうに見えるんですよ」

「身体だって氷みたいに冷たいよ。冷たいまんまで、ふっと火が消えるみたいに寝ちゃって…」

「大げさな。外が寒いんだから当たり前でしょう」

「…そうやって青白い顔して、あなたが白雪姫みたいに眠ってるのを見てるしかないあたしの気持ちがわかる?」


聞いたこともない、悲痛な声だった。私の手を取ったままじっと俯いて、彼女はそのまま黙り込んだ。


彼女は待ってくれていた。私がなにか言葉を返すのを。

それなのに、私は彼女と同じように押し黙った。それこそが彼女に対する愚鈍な甘えであるとわかっていながら。


彼女は沈黙に痺れを切らし、握った手の甲に爪を立てる。薄い皮膚に食い込んだ爪は驚くほど鋭かった。


「眠れなくって、冷たくなって、そんなになってまで、仕事ばっかりして…、そんなのっ、なんの意味があるって言うの!」


心臓を氷に貫かれたように感じた。

彼女にだけは、それを言って欲しくはなかった。


「…あんたに、何がわかるんですか」


繋がれた手を強引に振りほどく。がり、と引っ掻かる感触がして、痛みに一瞬顔を顰める。彼女ははっとして白い両手を引っ込めた。爪の先に赤いものがちらつく。


「ごめ、ごめんなさい」

「…私がどうしようが、あんたには関係ないでしょう」


もともとは好きで始めた仕事だった。私がやらなくちゃ、他の誰がやると言うのだろう。そんな安っぽい使命感に突き動かされて、いいように扱き使われていることは、薄々わかっていた。それを受け入れた上で、望んで働いている、つもりだった。


それがどうだろう、体調を崩し、ろくに眠れもせず、仕事だって最近はくだらないミスが続いている。

挙句の果てには赤の他人に気を遣わせて、甘えて、説教までさせて。


私の代わりなんていくらだっている、という純然たる事実に、気付かないふりをしていた。疲れ切って、それでもしがみついて、もう必要ないと突き落とされることが恐ろしくて。


つくづく自分が情けない。暗い感情が雪崩のように襲ってくる。奥底に押仕舞い込んでいた脆い部分に触れられて、それに理不尽に腹を立てている自分が、何より一番いやだった。


「…帰ります」

「…うん」


席に紙幣と項垂れる彼女だけを置き去りにして、重たい扉を背中越しに閉ざした。木枯らしの中に響く蝶番の軋む音が完全に止むまで、彼女を振り返ることはできなかった。


扉の向こう側で、にゃあ、と小さな泣き声が聞こえた。



しんしんと、粉砂糖のような雪が降り積もっている。

真夜中に傘もささず、白くなりながら来店した客を、店は仄かで暖かな灯りをともして迎え入れた。


「おや…いらっしゃいませ、」


お好きな席にどうぞ、と微笑むマスターに軽く会釈をして、ゆっくりと、いつもの席を目指して歩みを進めた。髪や肩からはらはら零れ落ちる雪に、数匹の猫が物珍しさに近寄ってはしきりに鼻先を近付けている。

久々に触れたソファは相変わらずの広量さで、冷気に浮ついた腰を受け止めてくれる。雪にまみれた上着を脱いで背もたれに掛けていると、マスターに暖かいお絞りと、見慣れたブランケットを差し出された。


「あ…」

「ゆっくりお休みになっていってください」

「いえ…今日は」


いつものように、眠るために来たわけではなかった。毛布を辞退しようとしたのを知ってか知らずか、外は冷えたでしょう、なんてのんびりと話し出す。

暖炉に熏る火のように和やかなマスターは、何を思ってか、ソファの端に座る1匹の猫に手元のブランケットをふわりと広げて被せた。


「さあ、お客様に毛布を。あなたのお仕事ですよ」


ぴょこんと厚手のブランケットから顔を出したのは、ふわふわの赤毛をした小柄な猫だった。赤毛は困ったようにマスターを見つめていたが、マスターは長い毛足をひと撫ですると、すたすたとカウンターへ戻っていってしまった。


マスターの意図がよく分からず、私はただ呆けてその猫を眺めていた。赤毛は少しの間その場に座り込んでいたが、やがて肩から落ちた毛布を口に咥えると、ずるずると引きずりながらこちらに向かって歩いて来る。


それだけでもかなり驚いたが、赤毛は私の膝をきちんと毛布で包み込み、仕上げと言わんばかりに軽く前足で踏み均してから、私の傍らに寄り添って座り込んだ。大きめの耳がふるふると揺れながらもずっとこちらを向いていて、私の様子を伺っているようでもある。

そっと柔らかな毛皮に触れると、己の手の甲に刻まれた引っ掻き傷が目に入った。


あの後間も無くして、私は仕事中に倒れた。気付いた時には真っ白な天井が私を見下ろしていて、医者の言うところには過労と栄養失調だということだった。

余計なことを考えたくなくて、食事も睡眠もまともに摂らずに仕事をし続けた結果だ。自分があまりにも愚かしくて笑う気にもなれなかった。職場からは退院後暫く休暇を取るように宣告され、現在に至る。


もう治りかけの傷を爪の先でなぞる。彼女の痕跡が完全に消えてしまう前に、もう一度会いたい。赤毛は瘡蓋に鼻をくっつけると、ざらざらの舌で一度だけそこを舐めた。


「お待たせ致しました」

「あ…どうも、」


どうにもならない後悔を反芻しながらほとんど無意識のうちに赤毛の尻尾を弄んでいると、勝手知ったるマスターがいつものココアを出してくれる。白いマシュマロが浮かぶココアに、いっそう甘い彼女の笑顔が浮かんでは消えた。

カップに口もつけずにぼうっとしていた私を訝しんでか、どうかなさいましたか、と控えめに声をかけられる。


「…その、今日は、彼女は」

「ああ、あの子はその…店員を辞めてしまいまして」


一瞬、言葉の意味がわからなかった。辞めた?彼女が?


「ひと月ほど前に突然。理由は深くは聞けませんでしたが…」


マスターの声が意味を理解する前に耳をすり抜けていく。彼女はもうここにはいない。そのことだけが確かな実感を伴い、じわじわと胸に霜が張っていくようだった。


どうしよう、なんで急に?探そうにも連絡先も、名前だって知らないのに。

理由なんてわかりきっているくせに、自分勝手な不安ばかりが轟々音を立てて頭の中を吹雪いていく。


彼女はきっともう、私の前に現れるつもりはないのだ。


私の心中など預かり知らぬ赤毛の猫は、穏やかに目を閉じたまま、このまま私の代わりに眠ってしまいそうだった。


「彼女、心配してましたよ」

「…え?」

「しばらくいらっしゃらなかったものですから」

「…私を?」

「それはもちろん。あの子はいつだって、あなたのことばかりでしたよ」


膝もとでにゃあと鳴く声に混ざって、心配なの、と困ったような囁きが聞こえた気がした。


私も単純で滑稽な人間で、溶け出した雪みたいにぼろぼろと熱い水が頬を滑り落ちるのに、少しの間気づくことさえできなかった。決壊してしまった流れは堰き止めることもできないまま、膝の上から私を見上げる赤毛の額に降り注ぐ。


あのひとはずっと、私を思ってくれていたのに。わかっていたのに甘えてばかりで、辛く当たってしまったことがどうしようもなく悔しかった。


あのひとは私を叱ってくれた時、どんな思いだったのだろう。優しすぎる彼女には、はっきりと自分の意思を伝えることだって容易ではなかったはずだ。それでも話してくれたのはきっと、私が耳を傾けるはずだと、信頼してくれたからだったのに。


私はろくに聞き入れもせず、彼女から逃げた。


「…会いたい、」


涙と一緒に本心が零れ落ちた。こんな時まで自分のことばかりだ、私は。彼女に会いたい。今度こそ彼女に向き合って、ごめんなさいと、ありがとうと言えたら。


顔を覆った手の甲に、ごつん、とふわふわしたものがぶつかった。相反する感触に思わず目を開けた刹那、あたたかな体温に包み込まれる。


「ごめん、ごめんね、おねえさん」

「…は、」


ぎゅうっと胸に引き寄せて、頭を抱えられるみたいに抱き締められていることに、全く理解が及ばなかった。息ができなくて苦しいくらいで、けれどこんなに安心する温度を、私はほかに知らなかった。


無意識に背中に腕を回していた。やっと力が緩んで、涙でぐしゃぐしゃになった懐かしい顔が見える。ふわふわした赤毛が頬に触れて、ココアみたいに甘い香りがした。


「…店員さん…」

「ご、ごめんねえ、泣かないでえ、おねえさん」

「あ、あんたのほうが、泣いてるじゃないですか…」


だってえ、と私の膝の上に乗っかったまま、身も世もなく泣きじゃくる。いつもの優しい彼女がそこにいた。

さっきまでそこにいたはずの赤毛の猫はどこにもいなくなっていて、そのことが不思議とすんなり受け入れられた。鼻を真っ赤にして泣いて、私の手を離さない赤毛の彼女が、つまりはそういうことなのだろう。


「…最初から、いたんなら、早く言え…」

「だってええ、も、もう嫌われたと思った、」

「そんなわけ、バカですかあんた…」

「倒れるほど仕事してるようなバカに言われたくない!」

「だいたい、あんた、なんなんですか、もう…」

「なによお!こっちのセリフだよ!ずっとお店にも来てくれないし!」

「いや、少々その、入院していて」

「ににに入院!?うそやだ大丈夫なの、もしかしてほんとに病気に、」

「も、もう平気ですから…」「平気じゃないよ!バカー!」


あんなに悩みやら不安やらが色々あったのに、見たこともないような情けない顔で泣き喚いている彼女を見ていたら、なんだか何もかもがどうでもよくなってきた。力が抜けてしまって、握られた両手をそのままに、ソファの背もたれに倒れ込む。

何をどう解釈したのか、彼女は私の胸に飛び乗ってぐりぐりと濡れた頬を押し付けてくる。こんなに子供っぽいひとだったろうか。いや、そもそも猫だったのか。猫だった時より随分重たくて、肺に詰まった空気が抜けそうになる。


「ぐえ」

「ううう、ごめんね、あたし…このままじゃおねえさんがほんとに死んじゃうかもと思って…どうしてもいやだったの…」

「大げさな、寝不足くらいで…」

「実際入院してたんじゃない!」「…」

「猫にとっては死活問題ですからね。一日中寝ているような生き物ですから」


マスターはいつのまにか綺麗な三毛猫を抱きかかえてこちらを眺めていた。恥ずかしくなって胸にしがみついた泣き虫ごと起き上がる。

抱えられていた三毛猫はマスターの肩から背中へするりと飛び降りていった。しっぽが短いな、などととりとめのないことを考えていると、不意にマスターの背後からボブカットの婦人が顔を出す。驚きに固まる私を放置して、オーナー、と膝の上の彼女が嬉しそうな声を上げる。


「オーナー?」

「うん、マスターのおくさん。まだ会ったことないっけ?」

「何度かお会いしたわよね。猫の時には」

「猫の時じゃわかりませんよね。驚かせて申し訳ありません」


どこかマスターと似たようなのんびり加減で、婦人は近くの席に腰を下ろした。暖かそうな毛皮のコートを脱ぎながらカプチーノを注文する様子は、さっきまで言葉通り毛皮に身を包んだ一匹の猫だったとは思えない。オーナーは優雅そのものといった風情でたおやかに微笑んだ。


当然のように目の前で巻き起こるファンタジー。もしかしたら眼鏡を変えるか頭の病院に行った方がいいのかも知れなかった。働き詰めで精神もやられたのだろうか。しかし目の前の彼女は紛れもなく本物で、そっと林檎色の頬に触れてみると、暖かくてまだ湿っていた。

彼女ははにかむように目を細め、私の手のひらに鼻先を寄せる。


「手…傷になっちゃったね。ほんとにごめんなさい」

「え?ああ…いえ、気にしないでください」

「気にするよ!大事なあなたの肌なんだから」


そう言いながら、傷跡にそっと唇を当てた。そのまま目を丸くする私の頬にさえ赤い唇を幾度も押し当てて、このひとはやっぱり甘やかしたがりだ。絆されてされるがままになっていると、徐に、焦がした砂糖のような瞳が私を捕えた。


「…どうかしました」

「…もう怒ってないの?」

「、それは…私の台詞です、あんな勝手を言って」

「ううん、私がわがまま言ったから…」


ごめんねとまた謝意を口にする彼女は、まだ少し心許なげに、私の目を覗き込む。その目に見つめられるのはほんとうに久しぶりな気がした。じっと見ているとこちらまでじわりと焦がされるような、燻る熱を持った瞳だった。


「…ほんとに、元気になってよかった。…またわがまま言っちゃうんだけど、聞いてくれる?」

「…どうして欲しいんですか、私に」

「その…ずっと、そこにいてほしいの」


要領を得ない彼女のお願いに、私は首を傾げた。彼女はまだ涙の残った笑顔で私を見上げる。濡れた睫毛が淡く輝いた。


「いてほしい、とは」

「あなたがいてくれれば、それだけでいいの」


言いながら、笑顔の頬に温かいものがほろほろ溢れ落ちる。肩を震わせて、優しすぎる彼女はそれでも懸命に、言葉を探していた。


「ずっと元気でいて、もう無理したりしないで。あなたの代わりなんて、どこにもいないんだから…」


熱いものがせり上がってきて、視界がじわりと滲んだ。しゃくりあげながら私の手を握り締める彼女の肩にもたれかかって、彼女の髪を濡らしてしまう。

気付いた彼女は私の頭をいつもの優しい手つきで撫でてくれて、私はみっともなく洟をすすり上げて泣いた。


そうやって2人してぐずぐず泣いて、ようやく落ち着いたあとで彼女は、なまえ、とぽつりと取り落としたように呟いた。

そしてこちらが聞き返す間もなく、忽ち待雪草の花のように下を向いてしまう。訳もわからぬ私は、しかし漸く自己紹介をする機会が訪れたかと合点して素直に自分の名前を名乗ることにした。


「私は…白河六華、と言います」

「…りつか、ちゃん?」

「…あんたの好きに呼べばいいですが」


二十も後半に差し掛かってからちゃん付けで呼ばれると言うのは、些か小っ恥ずかしい。だが、彼女が名前を呼んでくれるならなんだってよかった。ずっともどかしかったわずかな距離が、ついに氷解するのではないかという予感があった。

りつかちゃん、りつかちゃん、と何度も私を呼ぶ彼女の声は限りなく嬉しそうで、いよいよ照れた私は態と無愛想に彼女を遮る。


「それで?あんたは」「え?」

「人に名乗らせておいて、そりゃあないでしょう。教えてくれないんですか」

「あ、えっとね、その…ないの」

「ない?」


怪訝な顔の私にそわそわちらちらと期待したような表情を見せる彼女は、そういえばたしか、猫のはずだった。もしや夏目漱石なのか。私に名前をつけろと言うのだろうか。

それはつまり。


私はすうっと短く息を吸って、少しずつ、ゆっくりと吐き出した。相変わらず膝の上でこちらを窺っている彼女を見上げ、その赤くてふわふわの髪に指を通す。


「…ごめんなさい」「え?」

「…ずっと言いたかったんです。あんたは私を…心配してくれていただけなのに」

「ううん…ううん。そんなのいいの」

「…私はこの通りの、愚かしい人間ですから。きっとこの後も同じような失態をやらかすと思います」

「うん…?うん?」

「それに仕事についても少し、色々考え直す予定で…まだ少し落ち着かないと思います」

「ちょ、ちょっとは休もうって」

「わかってます。けど引っ越しもしないといけませんし…」

「え!?ひ、引っ越すの、どこへ」

「まあ近場で、そうですね、もう少し広くて、少なくともペット可の物件に」


彼女はぽかんとした表情で、私のにやけた顔を見つめていた。

みるみるうちに頬や狭い額から湯気が出るくらい体温を上げたようで、この名前はほんとうに彼女にふさわしいのか、少し悩むところだ。


「それ」を口にするとき、どこかふわふわと暖かく、ちらちら光が瞬くような特別感があって、胸に心地よい熱を帯びるのを感じた。まるで初雪にはしゃぐ子供みたいに。


「…雪緒、でいかがです」「…ゆき、お?」

「初めて話したのは雪の日だったでしょう。天気の雪に、いとぐちの緒で、雪緒」

「…りつかちゃん…」「…気に入りませんか」


彼女はぶんぶん頭を振って、わあとかにゃあとか言いながら私の首もとに縋り付いてきた。笑いながらその身体をきつく抱き返して、うなじに唇をくっつける。


彼女の柔らかな髪に、優しい声に、甘さを湛えた瞳に、こんなにも焦がれていた。

その体温を感じられることが、どれほどの幸せかずっと気付いていなかった。凍てついていた身体が内側から溶けていくような心地だった。


「雪緒さん」「は、はい!」

「…私と一緒にいてくれますか」


彼女は真っ赤になった顔を花が咲くみたいに綻ばせて、幸せそうに頷いた。これから先、どれだけこうやって彼女の新しい姿を知っていけるだろう。

降り積もる粉雪のように少しずつ、共に過ごす時間を重ねていけたなら。



「いらっしゃいませ!」

「こんにちは、ああーあったかい!」

「こんにちは」


分厚い板チョコのような扉を開けると、ぽかぽかした空気が冷たくなった頬にじんわりと染み込んだ。

吐く息も白い12月の日曜日、いくらふかふかのマフラーや手袋をしたって、2人で身を寄せ合って手を繋いでいたって、寒いものは寒いのだ。あたしたちはほっと一息ついて防寒着を脱ぐと、いつものソファ席に並んで腰を下ろした。


新しく入ったバイトの子もすっかり慣れて、ごゆっくりどうぞ、と爽やかな笑顔でメニューを渡してくれる。くっついて一緒にメニューを眺めるけど、注文はもう決まっていた。雪みたいな白髪の店員さんを捕まえて、ココアを二人分注文する。


「そう言えば、あんた…」「たまにはゆきちゃんって呼んでよお、りっちゃん」

「雪緒さん。少し聞きたいことがあるんですが」

「なあに、」

「あんた、戸籍とか住民票とか、諸々の書類なんかはあるんですか」

「え?うーん、たぶん一応作れるよ、マスターたちに頼めば…」


六華ちゃんはちょっと引いた顔でカウンターの向こうを盗み見た。確かにマスター、一体何者なんだろう。一個人というか一個猫というか、の戸籍を何とかできるって、ひょっとしてすごく偉い人なのかな。マスターとオーナーは私たちを見ると、同時にぱちんとウインクを飛ばした。


「でもなんで急に?こんど引っ越すとこ、ペットの分の書類も必要なの?」

「…あんたがいつまでペット枠として居座るつもりか知りませんが…将来的には必要でしょう」

「うん?」

「そろそろ家族にもきちんと紹介したいですし」

「え?」


その意味に気づかなくって何拍か置いた後、あたしは再び大いに顔を赤らめた。あなたはいつもちょっとわかりにくい。照れてしまって小声でそう言うのが精一杯だった。

六華ちゃんは涼しい顔で何のことやら、と笑って、あたしの腰を抱き寄せた。格好つけちゃってるけど、耳たぶが真っ赤になってるの、見逃してないんだからね。


「お待たせしました!」

「ありがとう!」「どうも」


こと、と可愛い音を立ててテーブルに置かれた真っ赤なペアのマグカップ。いつものココアがおめかしして、ホイップのおしろいにハートのマークが浮かんでいた。


「あ、かわいい!」

「冬季限定、粉雪ホットココアです!熱いのでお気をつけてくださいね」


ふたつのカップと共に、小さなグラスがテーブルに置かれる。注文にないメニューに店員の女の子を見上げると、マスターからサービスです、とにこやかに言われる。グラスには小さな雪玉がきれいに積み上げられていた。


「わ、これ、懐かしいな」

「あんた好きですよね、このクッキー」

「りっちゃんも好きでしょ?」「そうですね」


ココアパウダーで描かれたハートを崩してしまうのがもったいなくて眺めていたけれど、六華ちゃんは熱いのも構わずさっさと口をつけてしまう。せっかちさんめ。

あたしは小さなクッキーを一粒つまんで、口に入れた。溶け出した甘さが懐かしい記憶を呼び起こす。


初めてあなたの眼鏡をはずした顔を見た日。初めてこの姿でおしゃべりした日。一緒に飲んだココアの味をずっと忘れないだろう。

今は隣で目を開けた、あたしの白雪姫。


「あ」「あ?」

「見て」


六華ちゃんのすっかり暖かくなった手を引いて窓辺に寄る。ラベンダー色のクリームみたいな雲のかかった空に、今年初めての雪が舞っていた。

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