喫茶猫のひげ

綿雲

猫のひげ謹製・海色クリームソーダ

ちりん、と涼し気な鈴の音が耳に届いて、思わずカップを拭く手を止めた。

テーブルの上で微睡んでいた三毛がぴくりと耳を震わせ、大きなあくびをした。どきどきしながらさりげなくエントランスに目を向ける。

控えめに開いた扉の隙間から、夕暮れの陽射しとともに、いつものお客さんがひょこっと顔を出すのが見えた。同時に店のあちこちから、うなん、とかぷるる、とかお出迎えの挨拶が聞こえてくる。


俺はカウンターの裏で小さくガッツポーズをしてから、あくまでなんでもない風を装って、手の中の陶器と布巾を弄び続ける。さりげなく乱れた黒髪を撫で付けて整えるのも忘れない。

もふもふのポニーテールを揺らす彼女は、店に入るなりスカートの裾に絡みついてくるシャムを細い腕で軽々と抱き上げた。そしていつものようにそのままこちらへ歩み寄って、こんばんは、とカウンターの中の俺にとびきりの笑顔を向けてくる。


俺は目を逸らしながらも、いらっしゃい、と無愛想にひとことだけ呟いた。それでも微笑みを絶やさない彼女に、俺はいつになったら素直に笑顔を返せるのだろうか。彼女の腕の中、誇らしげに喉を鳴らしやがるシャムが恨めしい。


「クリームソーダください!」「…かしこまりました」


爽やかに注文を告げる彼女は、近頃また増量して重たいはずのシャムを抱えたまま、ぎくしゃくとグラスを用意する俺をにこにこしながら見つめてくる。


彼女は大学の授業終わり、この店にやって来ては、カウンター席に座ってクリームソーダを注文して、猫を構いつつ俺の手元を覗き込む。

ここまで毎度お決まりのパターンだが、俺がその視線に気づいていないと思っているのか、本当にやりにくいったらない。まだ危うい手つきを見られてばつが悪いやら、すぐ近くに座ってもらえて嬉しいやら、こちらは内心いろいろと忙しいのだ。


けれどもそうやって油断した隙になら、勇気を出して、目を合わせられるかもと期待して。恐る恐る、視線の先を見返そうと顔を上げた。


だがしかし、カウンターの向こうはそれどころではなかった。あああ、ちょっと待て!油断も隙もない、白黒模様の手が、ノートやらペンケースやらが入ったカバンをひっくり返している。


「こら、ブチ!」「え?わあ!ブチちゃん!許して!」


彼女は慌てていたずら猫に手を伸ばすも、常習犯で慣れっ子のブチはひょいと身をかわして逃げてしまう。

悪い子だなあ、と散らばった荷物を拾い集めながらも彼女はでれでれと嬉しそうで、俺は軽く呆れてため息をついた。


「…カウンターじゃなくて、猫を見ててくれよ、頼むから」

「え!あは、つい、気になっちゃって、クリームソーダが」

「心配しなくても、ちゃんと作れるから」

「そ、そういう意味じゃ!」

「おいブチ、爪!爪!」「ああ!勘弁してください!」


椅子の下からこそこそと狙いを定め、いざ真白き帆布に爪を立てんとしていたブチは、カバンから引き離されると彼女の膝の上に拘留される。何事も無かったかのように悠々と毛繕いを始める下手人を少し妬ましく思いながらも、気を取り直して作りかけのクリームソーダに取り掛かった。


丸っこいグラスに真っ青なシロップを2杯汲んで、瓶のサイダーをゆっくり注ぎ込む。こぽこぽ、しゅわしゅわと爽やかな音が耳に心地よい。マスターの自家製バニラアイスクリームをスクープで丸くくり抜き、そうっとグラスに浮かべる。ドレンチェリーの代わりに肉球型のクッキーを添えて、『喫茶猫のひげ』謹製・クリームソーダの完成だ。


お待ちどおさま、と声をかけて、席に回り込んだ。俺がまだ少しぎこちない手つきでグラスをテーブルに置くところを見て、彼女は心底嬉しそうにありがとう、と笑う。


「…ごゆっくり」「はい!」


喫茶店猫のひげは、いわゆる猫カフェである。

もとはマスターが夫婦で経営する普通の喫茶店だったのだが、夫妻曰く、いつの間にか猫たちが集まってこんな大所帯の猫だまりになったのだとかなんとか。自分から野良猫だの捨て猫だのを保護して引き入れているくせによく言う。


商店街から少し外れた道の路地裏に、ひっそりと佇んでいる小さな店。客なんてほとんど来ないのに、どうやって経営が成り立っているのだろうか、と不思議に思うほどだ。


俺はそんな鄙びた喫茶店の、店員見習いの身である。マスター達は何の用事があるのやら知らないが頻繁に外出しているので、店にいないこともしばしばだ。

店の主としてはどうかと思うが、おかげで彼女が俺を構ってくれるので、そんなことは瑣末な問題である。


「ね、店員さんって、やっぱり猫好きだからここで働いてるの?」

「別に。猫なんか好きじゃない」

「ええ?皆から懐かれてるみたいなのに」

「あいつらは俺をナメてるだけだ。メシ係だから」

「あはは、じゃあコーヒーが好きだからとか?」

「コーヒーは飲めない」

「ええ?じゃあなんで?」

「…内緒」「気になっちゃうなあ」


理由なんて言えるわけなかった。あなたと話をしてみたくてこうしているなんて。ほっぺたが熱くなるのを手の甲で擦って誤魔化した。


膝で丸くなったブチを撫で撫でクッキーを齧る彼女の耳元で、キラリと光るものが揺れた。気になってつい目で追いかけていると、気づいた彼女は少し目を見開いて、手のひらで口元を覆い隠す。見当違いな挙動と焦ったような表情に、俺は首を傾げた。


「どうした?」

「く、口についてたかしらと思って」

「ああ、いや、違くて…耳飾り」

「あ、ああ、そっちね!」


可愛いでしょ、と揺れるイヤリングを短い爪の先で弄びながら、横顔をこちらに向けてくれる。銀色の小さなそれは、よく見ると魚の形をしていた。


「おさかな」

「あは!うん、おさかな!友達とね、水族館に行った時、思い出にって買ったの」


水族館。どでかい水槽の中を泳ぎ回るどでかい金魚が想起されて、それは違うか、と頭を振った。耳飾りを弄ぶ彼女の優しくて暖かな声音で、きっと彼女にとって大切なものなんだろうと感じる。


俺の反応に何を思ったか、おさかな好き?と内緒話でもするように小声で訊かれた。すらりと伸びる指先は細長いスプーンで青いサイダーをくるくるかき回している。


「俺は肉派だ」

「肉派だったかあ、海鳥なんかはいたけど、ちょっとどうかなあ」

「…他には何ならいる?水族館には」

「そりゃあもう、イルカもいるしペンギンもいるし、クラゲもすごく綺麗だったよ!」


彼女は俺の下手くそな質問にも、嫌な顔ひとつせずに丁寧に答えてくれる。いちいち携帯端末に保存してある写真を引っ張り出しては、これはおっきいカニ、これは深海魚の化石で、なんてはしゃいで、小さな子供のようで可愛らしいと思う。


「それとね、驚くなかれ、猫がいました」

「猫が!?」

「サバトラの猫ちゃんでね、名物館長なんだって!受付に座ってお客さんをお出迎えしてくれるの」


ふうん、と相槌をうちながら、水族館にいる猫のことを想像してみた。名物館長と言うからには、皆から愛されてたいそう可愛がられているんだろう。名前はあるんだろうか。

彼女に名前を呼ばれ、返事を返す猫、という図が脳裏を過ぎって、心底羨ましく思った。


彼女がここに通うようになって、どのくらい経つだろう。今日こそは名前を聞いてもいいだろうか。


「それでね、その…もし、よかったらなんだけど」

「、な、なんだ?」


邪な想像を勘づかれた気がして、俺は慌てて彼女のほうを向いた。彼女は咥えていたストローから口を離すと、ちょっと躊躇ってから、独りごちるように言った。


「…店員さんにも、見てほしいな、と思って…その子、すごく可愛いの」

「水族館の猫?」

「う、うん。それにほかの生き物も」

「そ、そうか」

「ええと、だからね、その…一緒に行かない?今度、お店のシフトがないときにでも…」


心臓がばくんと跳ねた。これは、もしかしなくても、デートのお誘いというやつだろうか?真っ赤な顔をした彼女の見たことの無い表情に、胸の中が熱くてくすぐったいなにかでいっぱいになる。

騒ぐ鼓動を抑えて、もちろん、一緒に行きたい、と言いかけた刹那。はっとして身体が硬直する。押し黙った俺を心配するように彼女の双眸が覗き込んだ。


「…」

「て、店員さん?どうかした?」

「…無理だ」


眉を顰めてぼそりと呟いた俺に、彼女は目を見開いて、すぐに羞恥と悲しみに染まった顔色を隠すように俯いた。あ、と怯えた仔猫のように震えた声が零れ落ちて、俺の胸を刺す。何かを察したのか、店中の猫たちが揃ってこちらを見つめていた。


「…そ、そう…そっか、ごめんね、急に迷惑だよね…困らせちゃったよね」

「い、や、ちがうんだ、そうじゃなくて」

「その、わたし…ごめんなさい!」


勢い立ち上がって、膝に乗っていたブチはするりと体を滑らせて逃げていった。彼女は一瞬驚いたようにブチの姿を追いかけて、けれどもすぐに悲しげに目を伏せた。

何か言おうとして、何を言うべきかわからず、まごついている俺に彼女は振り向きもしなかった。財布から千円札を一枚抜き取ってカウンターに置く。


俺が黙って下を向いているうちに、ひとり俺の足元に擦り寄ってくる奴がいた。真っ黒な肢体は俺のスリッパを履いた足を踏ん付けて、足音も立てずにカウンターへと飛び上がる。


「すみません、その…ごちそうさまでした」

「あ、おい!待ってくれ、その…」


踵を返した彼女のポニーテールがふわりと広がって、透ける髪越しにきらめく銀色が揺れた。

情けないことに俺はそんな後ろ姿にさえ見蕩れてしまって、視界の端で蠢いたその影に、気づくのが遅れた。


「っあ、待てっ!」

「え?」


彼女がびくりと立ち止まった時には、もう遅かった。クロは目にも止まらぬスピードで彼女の肩に飛び移り、キラキラ輝く小さな魚に齧り付いてひったくると、そのまま脱兎のごとくフロアを駆け抜けた。まずい、と思うが早いか俺はカウンターを出て走り出す。


「きゃあ!?」

「おいっ、クロ!やめろバカ!」


今なら捕まえられる、と手を伸ばし、長いしっぽの先を掴もうとした矢先、不意に鈴の音が響き渡った。折り悪く帰って来たマスター達がマホガニー製の扉を開く。その僅かな隙間を素早く潜り抜けて、クロは夜の帳が下りる町へと走り去って行く。


「まあ、どうしたの」「おや、いつもの。いらっしゃいませ」

「え、あ、こんばんは…」


尋常ではない店の様子に気づいて、なお呑気そのものな彼らを追い越し、俺は扉を開け放って黒い影を追いかけた。背後で彼女が何か叫ぶ声が聞こえた気がしたが、今は構っていられない。


気がつくと宵闇が町中を藍色に染めていた。泥棒黒猫は耳飾りを咥えたまま、灯りもろくにない路地裏をぐんぐん進む。塀の縁を、屋根の上を、パイプの隙間を、身軽なクロは失速することも無く、水中を泳ぐ魚のように駆けて行った。


俺は追いつくのもやっとで、ぜいぜいと息を切らしながらどうにかクロの後を追いかける。やがていっとう見晴らしのいいトタン屋根の上で立ち止まると、クロは耳飾りをそっと足元に置いた。小さな魚は月明かりと水色の波板を反射して輝き、そのままさざ波の間を泳ぎ出しそうだった。


「お前、いったい…何やってんだよ、」


クロは片目を細めると、それはこちらのセリフだと言わんばかりにしっぽで屋根をカンカンと叩く。俺は大きく溜め息をついて、クロの正面に座り込んだ。


「俺だって…わかってるよ。早く覚悟を決めなきゃ、彼女は…もう来てくれなくなっちまうかもしれない。けどやっぱり…勇気が出なくって、」


意気地無し、と牙を剥いて唸ってみせるクロにびくっとして、俺は思わず後ずさった。早く耳飾りを取り返したいのに、全くもって隙がない。

俺はすっかりしょぼくれて、情けない声を出す。クロは余裕綽々で毛づくろいなんか始めて、俺の事も銀色の魚のことも見もしなかった。はあ、と溜め息をついて、俺は大人しくその場に座り込む。


「なあ、返してくれよ。それは彼女の大切なものなんだ」


クロは横目で俺を見据える。俺を試すような目付きに、俺はむきになって爪の先を握りしめる。


「だって、彼女が悲しんだら嫌なんだよ…わかるだろ」


気持ちとは裏腹に威勢は削がれ、後ろめたい気持ちが怒った猫のしっぽみたいにむくむくと膨れ上がってくる。


聞こえのいいことを言ってはいるが、俺は彼女を騙しているのだ。はやく白状してしまいたいと思いながらも、幻滅されるのが怖くてずっと嘘をつき続けて。そして今日、そのせいで、弱虫な俺のせいで、完全に彼女を傷つけてしまった。


クロはそんな馬鹿な俺に呆れて、きっかけを与えてくれているのだ。そんなことはわかっている。


「わかってるってば、そんなの…けど、…彼女は俺を…受け入れてくれるかな。気持ち悪いって思われるかも」


フン、と鼻息で笑われた気がして、なんだよお、と恨みがましくクロを見上げた。俺はもうすっかり降参のポーズだ。


「そりゃあ…だって、怖いよ。お前にはわかんないだろうけど」


クロは眼下でぐずぐず甘ったれる俺の鼻っ面を、しなやかな肉球でべちんと引っぱたいた。いてぇ。


姉貴分のいつもより効く猫パンチを受けて、思いのほかクロが真剣だということをようやっと実感する。起き上がってしゃんと背筋を伸ばして、小さな耳飾りをじっと見つめた。まぶたの裏に彼女の笑顔が浮かんでくる。


「そうだよな、…俺も、頑張ってみるよ」


子供にするみたいに鼻先でぐいぐい背中を押されて、銀の魚と一緒に、俺は彼女の元へと駆け出した。月はとっくにてっぺんまで昇り切っていた。



猫、猫、猫。一体どこに隠れていたのかと思うくらい、数え切れないほどの猫が、クロちゃんと店員さん、そして彼らを追いかける私のことを取囲むように、群れをなして夜の町を走っていた。


彼は毛玉の大群に怯むこともなく、シャッターの降りた商店街をどんどん進んでいく。慣れないサンダルじゃ上手く走れない。離れていく彼の背中を眺めることしかできなかった。

こんなことなら新しい靴なんて履いて来るんじゃなかった、なんて思いながら、アーケード街を抜ける。曲がり角を曲がったところで、彼の背中は細い路地に躊躇いもなく飛び込んでいった。


見失ってしまう、と慌てて壁と壁の間に顔を突っ込んで、ぎょっとした。こんな狭いところに入っていったの!猫2匹が肩を寄せあってどうにか通れるようなところなのに、あの人が通れるなんてとても思えなかった。

彼とクロちゃん、それにあんなにたくさんの猫たちがいたのに、暗い路地にはもう数匹の猫たちが取り残されているだけで。私はわけも分からずその場にぺたんと座り込んでしまった。


彼はいったいどうしたんだろう。喫茶店に通って、顔を覚えてくれた。挨拶をしてくれるようになった。お喋りに付き合ってくれるようになった。少しは仲良くなれたかと思っていた。


けれど今日、きっぱりとふられてしまった。他愛ないお喋りをしてそれだけで幸せだったのに、きっと欲をかいたからばちが当たったんだ。彼の台詞と辛そうな表情を思い出して、喉のあたりがぎゅっと苦しくなる。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。


それなのに、いま彼が走っているのは何故だろう?

片耳に残ったイヤリングを外して、そっと手のひらに落とす。銀色の魚は何も言わない。ぬるい雫が零れて鱗を濡らした。


「お嬢さん、大丈夫ですか」「わ!」

「おっと。御髪が乱れてしまいますよ」

「すすすみません!」


振り返った勢い、ロマンスグレーの老紳士の顔面をポニーテールで引っぱたく寸前だった。慌ててぎゅっと毛先を掴んで、ついでに涙で濡れた顔を隠す。

ずび、と鼻をすすっても、塩辛い水は理由もよく分からないまま頬を流れ続ける。


「まあまあ、大変だわ、ほら靴を脱いで」

「え?あ…」


サンダルの留め具に苛まれて擦りむいた踵からは、いつの間にか血が滲んでいた。クラシカルなボブヘアのご婦人は、シルクのハンカチを取り出すと、優しく傷にあてがってくれる。上品に微笑む彼女からは、お日様を浴びたような暖かい匂いがした。


「ま、マスターと、オーナーさん…」

「まあ、オーナーさんですって。なんだか女社長みたいで素敵ね」

「ふふ、実質店長は貴女なんですから、あながち間違いでもないでしょうに」

「あ、あの…」


私は地べたに座り込んだまま2人を見上げる。マスターの奥さん、つまりオーナーさんは、ビロードのスカートが汚れることを気にする様子もなく、私の隣におしりをつけて座った。マスターもその横にしゃがみ込む。

彼らはいつの間にか戻って来た猫たちに囲まれ、にこにこと、ただそこに佇んでいる。私はなんだか奇妙な気分になって、それでようやく涙が止まった。


「あなた、あの子のことはどう思う?」

「え?あの子って」

「我々の店の店員見習い。あの子はとてもいい子ですよ」

「え!?その、は、はい…ええと、」


唐突な台詞にどきりとして、何も言えなくなってしまった。

やっぱり彼のことを考えると胸が熱くなる。ついさっきふられたばっかりだっていうのに。


でも、見たことの無い俊敏さで走っていった彼が、私の大切なものを取り返そうとしていてくれたなら。私のために何かしようとしてくれた、それだけで胸がいっぱいになる。引っ込んだ涙がまた出てきそうになって、ごしごし目を擦った。


「私も…いい人だと思います。ぶっきらぼうだけど、優しくて…」

「そうね、ちょっと臆病で、とっても優しい子。それに真っ白な毛並みも素敵だし」

「へ?」

「歯並びもいいし、ヒゲもぴんと立って。丈夫で立派な子です、病気だってしたことがない」

「爪もちゃんとお手入れしてて、毛づくろいも上手、清潔さも申し分ないと思うわ。お風呂はあんまり得意じゃないけれど、ちゃんと大人しくしていられるし」

「あ、あの、店員さんの話ですよね」

「ええ、もちろんよ」


だって、それじゃあまるで、猫のことを話してるみたいな。

私は頭上に?マークをいっぱい浮かべながら、2人の談笑を聞いていた。私の知っている彼、店員さんは、黒髪に切れ長の目、色白だけど背が高くてがっしりした体躯の、そして何より、もちろん、人間の男性の姿をしていた。


この人たちは私をからかっているのかな、と疑心暗鬼になりかかったところで、背後の壁から低い猫の声が聞こえてくる。

はっとして振り返ると、白い耳だけが壁から生えるようにしてこちらに覗いていた。すっかり寝てしまっている片耳は、こちらの様子を伺うようにひくひくと震える。


「隠れてないで出てらっしゃい、シロ」

「シロ?」


オーナーさんに呼ばれた途端、ぴくっと耳を立てて、「彼」はおずおずと姿を現す。ゆっくりとこちらに近づいてくるその大きな猫に、私は目を奪われていた。


真っ白でふかふかな長めの毛足。すらりと長くて柔らかそうなしっぽ。綺麗なブルーの瞳は海のように深い色で、見ていると吸い込まれそうだった。

彼はぼうっとしている私の前に腰を下ろすと、口に咥えていたものをそっと地面に置いた。


「あ、私の、イヤリング…」


彼は怒られた子供のように耳を寝かせて、項垂れたままじっとしていた。彼の自慢であろう毛並みは、よく見るとあちこち走り回ったせいか泥や埃に塗れて汚れてしまっていた。

きっと一生懸命追いかけて、いたずらっ子のクロちゃんから取り返してくれたんだろう。私は気がつくとその真っ白な頭を撫でていた。


「ありがとう、店員さん」

「!」

「私のために、頑張って、くれたんだね」


彼は驚いたように私の目をじっと見つめると、ぷいと目を逸らして、ん、と鳴いた。その仕草があんまり店員さんにそっくりだったから、私はおかしくって笑ってしまった。そっくり、というより、きっとやっぱり、本人なんだ。


「店員さん。ほんとは猫ちゃんだったなんて、なんで教えてくれなかったの?こんな素敵なこともっと早く知りたかった」

「あらあら良かったわね、シロったら。うじうじ悩んでたのはやっぱり時間の無駄だったわけ」


彼はくすくす微笑んでいるマスター夫妻に向かって、むう、と鳴いた後、ハンカチを巻かれた私の足に気付くと不安そうに私の顔を覗き込んだ。大丈夫だよ、と笑いかけて、ふわふわの背中を擽るように撫でる。


「店員さん…シロちゃん?足速いんだね。全然追いつけなかったよ」

「町のみなさんもエキサイトしてしまって野次猫に駆けつけていましたからね。さぞお邪魔だったことでしょう」

「町のみなさんって、この子たち?まさかみんな…え?も、もしかして、マスターさん達も…?」

「ふふ。内緒ですよ」


悪戯っぽく人差し指を立てて口髭にあてがったマスターさんに、私はなんだか脱力してしまって、あはは、と声を出して笑った。彼はなおも落ち着きなくうろうろと私の足の前を行ったり来たりしている。猫の姿だと喋れないのかな。


「ね、シロちゃん…その姿とっても可愛いんだけど、いったん店員さんのほうにならない?店員さんにもお礼がしたいな」


彼は何だか困ったように、あおん、と一声鳴いて、マスターさんに助けを求めるように艶やかな革靴を前足で叩く。その様子もほんとに可愛らしくって、つい頬が緩んでしまう。カバンごと喫茶店に投げ捨てて、もとい置いて来なければ写真をたくさん撮ったのに。


「彼はね、今は人間にはなれないんです」

「え…?」

「この子はまだ見習いだから。お店の中でしかヒトの姿を保っていられないのよ」

「そ、そうなんだ…ごめんね、私のために…お店に戻ろうか、」


雪のように白い毛皮の彼を両腕で持ち上げて、しっかりと抱き上げる。見た目に反してがっしりとした抱き心地に、体つきも店員さんと同じなんだな、と感動を覚える。彼は目を丸くして固まってしまって、まるで借りてきた猫のように大人しく腕の中に収まっていた。まるでも何も猫だけれど。


「でもね、彼を今すぐヒトの姿にしてあげられる、魔法がひとつあるんですよ」

「魔法?それってなんですか?」

「あなたが彼に名前をあげるのよ」

「名前?でも今シロちゃんって」

「それは仮の名前。ただの識別番号みたいなもの、けどあなたが彼にあげる名前は違う」

「名前を与えるということは、彼と貴女が縁を結ぶということです。それを貴女と彼が、お互いに良しとするならば」

「この子に名前をあげて頂戴。そうして彼にあなたの名前を教えてあげて、それから…」


私は迷う間もなく、彼の青い瞳をじっと見つめた。真っ青な瞳に私が映り込んでいる。彼もまた、その青で私を真っ直ぐに見つめていた。

周りの音が全て消えて、今この世界に、彼と私だけしかいないような、暖かくて、きらきらとした感覚に包まれる。胸の内側でぱちぱちと泡が弾けて、ソーダ水の海で揺蕩っているような気分だった。


言いたいことはたくさんあって、でも何を言ったらいいのかわからなくって。それでも考える前に、口が動いていた。


「わたしの名前は、れん。水元恋!」


「あなたの名前は…そうだな、目が海みたいに真っ青で、すっごく綺麗だから…あお!青でどう?」


「ねぇ、あお。わたし、あなたが猫だって人だって、どっちでも大好きだよ。だからね、うちの子にならない?」


「じゃなくて、いやそうなんだけど…ちょっと違うか、ええと、とりあえず…まずはさ、改めて」


私と水族館に行こうよ、とぽかんとしている彼に尋ねてみる。鼻と鼻の先をちょんと合わせて、ちょっぴり恥ずかしくなって笑うと、彼はごつんと私の眉間に頭突きをかましてきた。おまけにぷにぷにの肉球が私の目を塞いで、意地悪なようなご褒美なような。


あお、ともう一度名前を呼んでみると、私の目を覆っていた大きな手のひらがそろりと下ろされる。

私の腕の中には、いつの間にかいつものカマーベストを着た彼がどこか申し訳なさそうに佇んでいた。

そのオールバックに撫で付けた髪の毛だけが、いつもの黒髪とは違って、雪のように真っ白だった。


「…ほんとに?」「なあに」

「ほんとに、俺でいいのか」

「あなたみたいに素敵な猫も人も見たことないよ」

「…れん」「うん!」

「俺も…、れんと、水族館に行きたい」


仔猫の泣くようなか細い声を絞り出した彼は、真っ赤になって少しだけ涙ぐんでいるように見えた。


思い余って彼の胸に抱きつくと、彼はびくりと固まって、それでもそうっと私の背中に腕を回してくれた。ありがとう、と言いながらぐりぐり彼の胸におでこを擦り付けると、震える手で頭を撫でられる。

これじゃどっちが猫だかわからないな、なんて考えるとなんだかおかしくて、抱きしめる腕にいっそう力を込めてしまう。


慣れない不器用な手つきは、私のためにクリームソーダを作ってくれるあの時の仕草と似ている気がした。



ちりん、と鈴の音が軽やかに響き渡った。開け放たれた扉から、夏の爽やかな風が運ばれてくる。柔らかなポニーテールがそよ風になびいた。


青い空と入道雲を背負って、彼女はとびきりの笑顔を俺に向けてくれる。「いつものやつ」を注文して、カウンターについて猫たちと戯れる。

ただ、ほんの少しだけ、これまでとは違っていた。


「いらっしゃい、れん」「あお!」


今日もお疲れ様、と笑いかけてくれる彼女をまっすぐに見つめて、小さく頷く。こうやって同じ時間を過ごせて、お互いに名前を呼び合える、それだけで喉を鳴らしてしまうくらい、喜びに満ち溢れた心地だった。


れんはじゃれついてくるブチと格闘しながら、今日はいいニュースがあるんだよ、とバッグの中身を漁る。白い帆布の上に青いペンギンのピンバッジが泳いでいるのを見て、脳裏にまだ鮮やかな思い出が過ぎる。俺はお揃いのバッジが輝くベストの胸元に手を伸ばし、思わず頬を緩ませた。


そんな俺の胸中など気づかずに、彼女は不意にいたずらっぽく笑うと、じゃん、と俺の前に一枚の紙を突きつけてきた。面食らいながらもどうにか覚えたての文字列を読み上げる。


「きっさ、ねこのひげ…うちの店?」

「そう!バイト募集中って書いてあるの。わたし応募しようと思って!」

「え?こ、ここで、働くのか?」

「うん!そうできたらいいなって。喫茶店のお仕事って憧れじゃない!それにあおと一緒の時間も増えるし」


れんは何も言わない俺をちらちら見ながら、どうかな、と首を傾げた。家でも店でも一緒に居られるなんて、そんなの嬉しいに決まってる。俺は喜びにしっぽが震えるのがバレてしまわないように、慌てて眩しい視線から目を逸らした。


「…どうだろうな、れんのことだし、バイト中も猫と遊んでばっかりになりそうだ」

「そ、そんなことないって!注文も取るし掃除もするし、コーヒーだって、あおが淹れ方教えてくれるでしょ?」

「…言っただろ、俺、コーヒーは飲むのも、淹れるのもまだ苦手なんだよ」

「ああ、そういえば言ってたね」


もしかしてやっぱり、猫ちゃんだからコーヒー苦手なの?そう興味津々といった具合で聞いてくるれんに、俺は眉間に皺を寄せる。猫の姿だったら、絶対に耳が後頭部にくっついていた。


「…猫だから、なら、マスターもオーナーも喫茶店なんか開かないだろ」

「あ、そっか。じゃあなんで?」

「…苦いから」


れんはきょとんとした顔をして、すぐにころころと愉快そうに笑い声を上げた。成人男性のなりをして苦いものが苦手だなんて、子供みたいなのは自覚しているから、言いたくなかったんだ。恥ずかしくて耳が熱くなる。


「あお、私、美味しいカフェオレ作ってあげられるように頑張るからね!」

「そりゃありがとう…」


まあ、彼女が楽しそうだし、お手製カフェオレの予約も取り付けられそうなので、良しとしよう。やっぱりちょっと恥ずかしいけれど。


これからよろしくね、先輩、なんて、キラキラ光る瞳と、耳元で揺れる銀色の魚が俺を射すくめる。

青いクリームソーダみたいに心踊る、しゅわしゅわ弾けて甘ったるい予感に胸を膨らませた。


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