第10話 元カノ
——謎の小悪魔系新入社員・鈴宮光里が現れたその翌日の午前。
その光里の教育係を任せられたのは、まさかの綾乃だった。
「事務って言っても、お茶汲みだったり掃除だったりって雑用頼まれるのもしょっちゅうだから、そのつもりでね」
「はい、わかりました」
光里を引き連れて給湯室での仕事を一通り説明し終わった頃……不意に、仕事とはまったく関係もない質問をぶつけられた。
「あの……藤崎さんって今付き合ってる男の人とかいらっしゃるんですか?」
「えっ」
「あ……っ、失礼しました! いきなり変なことを聞いちゃって……。藤崎さんって営業部の中でも一番お綺麗な方ですから、すごく素敵な彼がいそうだなぁなんて勝手に想像しちゃったんですよね」
同性の、それもこんなにも可愛い子からお世辞でもそんなことを言われてしまうと、さすがの綾乃でも少し気分が良くなってしまう。
そして、ついつい社内イチのモテ男である葵との関係を漏らしてしまいそうになるが、すんでのところで思い
「あ……今は特に付き合ってる人いないんだ、私! (危ない危ない、内緒にしてろって葵から散々言われてるのに)」
やむを得ないその場凌ぎの回答を聞いた光里は、しばらくしてからニコリと微笑みかけてみせるのだった。
「……そうなんですか? てっきり私、社内の誰かとお付き合いされてるのかとばかり思ってましたけど……違うんですね!」
ギクリ、と嫌な汗が吹き出しそうになる。
「そ、そういう鈴宮さんこそどうなの? すごくモテそうだし、彼氏の一人や二人くらいは序の口でしょーっ?」
ごまかしついでに過剰におだててしまった。
しかし、当の光里から返ってきたのは、綾乃が思っていた以上に意味深なものだったのだ。
「彼氏はいないんですけど、ずっとずっと好きな人なら……います。たった一人だけ……」
なぜか、自分の愛する男の姿が頭の中に浮かんだ。
「(……あれ? なんで私、鈴宮さんの好きな人が葵のことだと思ったんだろう)」
昨日、光里が入社の挨拶をしていた時の、あの瞬間。
偶然とはいえ、知り合いである葵との再会を目を輝かせて喜んでいた光里の表情をまた思い出す。
「(そもそも、この子と葵の関係って何?)」
一旦膨らんでしまった疑念は、葵本人の元へその矛先を向けることを1ミリも躊躇わせることはなかった。
——そして、その日の午後。
葵の仕事が立て込んでいたのもあり、その葵からまだ何も事情を聞かされていなかった綾乃は、周りに誰もいないことを確認してから静かに廊下を歩く葵の背後に近づいた。
そして一気に距離を詰めると後ろからその首根っこを掴み、「グエッ」とうめき声を上げた葵を力任せに備品室へと引き摺り込んでやった。
「なっ……綾乃っ?! 何してんだよっ……!」
扉を閉め、カチャンと内鍵を閉めてから仁王立ちして不敵に笑う綾乃を目の前にして、葵はだいたいのことを察するのだ。
「わかってるわよねぇ? ちゃんと説明してくれなきゃ、ここから出してなんかやらないからっ!」
「……光里ちゃんのことだろ?」
そう答えながら目を泳がせる。
「わ、わかってるんなら早く教えてよっ! あの子……あんたのなんなの?」
ひたすら質問攻めされた葵は、しばらく考えたのちに気まずそうに言葉に困り始めた。
「……心配しなくても、ただの元カノだよ」
そして明らかになった事実。
「も、元カノ……?!」
「うん、ここに就職する前……俺、美大生だったんだけど……その頃に知り合って、1年ぐらい付き合ってたんだ。その元カノがまさかうちに入社してくるとは予想もしてなかったけど」
綾乃が知らなかった葵の過去が語られ、当然それはもっと詳しく知りたいという欲に駆られることになる。
「そうだったんだ……。で、でも、それじゃあなんで別れたの?」
「……えぇ?」
「別れたからにはちゃんと理由だってあるはずでしょ?」
より一層質問攻めにする綾乃だが、それに反して葵は面倒くさそうに目を逸らすのだった。
「そんなのどうだっていいじゃん、もう過去のことなんだし。光里ちゃんとは昔別れて、俺が今付き合ってるのはお前なんだからさ……それでじゅうぶんだろ?」
それはもちろん理解できるが、やはり綾乃にとっては目の前のパンドラの箱を開かずにはいられないのだ。
そして、何よりも……
『彼氏はいないんですけど、ずっとずっと好きな人なら……います。たった一人だけ……』
大切な思い出を噛み締めるようにそう言った光里。
もしもその「好きな人」が、元カレである葵のことだとしたら——。
そう勘ぐれば勘ぐるほどハッキリとさせたい衝動に駆られた綾乃は、また後先考えずにそのまま口に出してしまうのだ。
「だって気になるんだもん! 私、葵が美大生だった頃のこととか恋愛遍歴なんて全然知らないし……ねぇ、どっちから告白して付き合って、どっちからどんな理由で別れ——」
しかし、知りたいことの先は、葵の唇でその口を塞がれることで
「ん……っ……こらっ、まだ話はっ——!」
「ダメ。それ以上の詮索は禁止」
そう
そして、それは魔法にかかってしまったように綾乃の頭の中を白紙へと導いていくのだ。
「……バカ、ずるい」
「むやみやたらに嫉妬心煽ってなんの意味があるんだよ」
「だって……っ」
……まったくその通りだ。
お互いの元カノや元カレはもちろん、過去の恋愛遍歴を知ったところでなんの得があるというのだろうか。
パンドラの箱は、秘密のパンドラの箱のままでいいのだ。
そんなことぐらい、とっくにわかっていたはずなのに、綾乃の中にはまだ拭い去れない何かがあった。
「(だって、鈴宮さんとも……あの子ともこんなふうにキスしたんでしょ? それ以上のことだって、きっと……)」
お腹の底を下から突き上げてくるような、負の感情。
その正体を自覚するより先に、鼻で小さく笑った葵に抱きすくめられてしまった。
「でもさ……正直、嫉妬して欲しいっていう気持ちもあるんだよなぁ」
「えっ、なんで?」
「だってそれだけお前が俺のこと、好きで好きで仕方ないってことだろ?」
そう言って、笑みを浮かべながら期待するような目で少し上の方からしばらく見つめられる。
何もかも見透かされていそうなその瞳から逃れるようにして視線をはずした後は、すぐに返せる正論だけを頭の中で探した。
「ばっ……バカ! 嫉妬なんてするわけないでしょっ! ただでさえあんたってモテすぎちゃうのに、いちいち嫉妬なんてしてられないもんっ!」
——やっぱり、自分の気持ちに素直に従うことが難しくてたまらない。
ついこないだまでは、嫉妬する葵のことを諭していた側だったはずなのに……。
そしてそんな綾乃の本心を知ってか知らずか、葵はまたもや火に油を注いでしまうのだ。
そう、乙女の複雑な想いなど想像もできずに……。
「……とかなんとか言って、ほんとは嫉妬の炎メラメラ燃やしてんじゃなーい? なんたって、職場にまさかの元カノ登場だもんなぁー」
「だ、だからっ……そんなんじゃないってば!!」
「俺のこと嫉妬深いとか言ってバカにしてたくせに、人のことなんて言えないじゃーん?」
「こ、このっ……! もういいっ! 私仕事に戻るから!!」
膨れっ面で部屋を出て行く綾乃のことを、まだからかいながら後を追う葵。
「悪かったって! ちょっとふざけただけじゃん!」
「もう知らないっ! (人の気も知らないで……バカ!!)」
そんな二人のことを、遠目からじっと見つめて猫のように眼を光らせた女の影。
綾乃の心の中のモヤモヤが、確実なものへと変わっていくのも時間の問題……なのかもしれない——。
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