第8話 カラダの関係




 ——ようやくたどり着いた、夜の社内。


 制作部のオフィスの扉を3回ノックしてから、ゆっくりと中を覗いてみた。


「桐矢……いる……?」


 そーっと中に足を踏み入れると同時に、ギィッとイスの回る音がした。


「……何? 話って。俺まだ仕事残ってるんだけど」


 デスクの上のパソコンを操作しながら、葵は綾乃を振り返ることもなく無機質な返事を返すのみ。


「あ、あの……」


 おずおずと切り出そうとしたその時。

 背後の扉の外から、通り過ぎがてらに室内を覗き込んだ男性社員が急に声をかけてきた。


「……あれ? 桐矢くん、まだいたの? さっき仕事のメドがついたからって帰る準備してたんじゃ……?」


 その結果……


「だぁぁっ!! 実はまだ他の仕事が残ってたの思い出したんだって!!」


 とんでもない秘密をバラされた葵は、またもやボロが出てしまうのだった。


「もしかして……咲子から聞いて、帰らないで私が来るの待っててくれたの?」


 ぐっ……と口を紡ぐ葵。


「ど、どうだっていいだろ……もうそんなの。……で、なんなんだよ。俺ってば、今超忙しいんだけど!」


 そう言ってキーボードをカタカタとせわしなく打ち続けるものの、肝心のディスプレイはログイン画面のまま。

 明らかに……その様子からは面白いほどに動揺と緊張が見て取れた。


「桐矢……それ、ログイン画面から進んでないけど……」


「はっ……!」


 そして我に返って一つ大きなため息をつくと、葵はやっと体ごと綾乃の方に向き直った。



「……あーもう、なんなの? こないだのことなら……ごめん。俺もやりすぎたと思ってるし、気にしなくていいから」



 「こないだのこと」とは、資料室でのキスのことだろう。

 あのキスの瞬間を思い出してしまった綾乃は思わず赤面してしまいながらも、言葉を紡いだ。


「あ……そのことじゃないの」


「……じゃあ何?」


「……っ」


 やはり綾乃が口ごもってしまうと、しばらく返答を待ってから葵は退屈そうにイスの背もたれに腕枕をしてもたれかかった。


「今夜も御曹司くんとデートだったんだろ? イチャコラしてきましたーってか? そんでもって求婚されて、晴れて玉の輿でーす! ……みたいな?」


 まるで茶化すような口ぶりだ。

 こんな誤解は今すぐに解きたい……そんな思いが自然と綾乃の声に強さを与えた。


「それも違う。私、最初から彼とは寝てなかったんだから」


 それを聞いた葵は、ムクッと上体を起こすのだった。


「ふぅん」


「その証拠にね、妊娠しましたーって嘘ついて試してみたら見事に逃げられちゃった! だからね……サヨナラしてあげたの」


 どんどん、退屈そうだった葵の目に光が戻っていくのを感じた綾乃。


「……なんで? お前、今回は本気だって言ってなかったっけ?」


「ふふっ、実はね……『お試し期間』に合格した、たった一人のが現れたの」


 予想外の情報を耳にした葵は、眉をひそめてまたため息を漏らした。


「なんだそれ……お前も忙しい奴だな……」


「まぁまぁ、聞いてよ。その彼はね、そのまんまの私のことをよく知っていてくれて……口は悪くて、イヤな奴なのに誰よりも優しくて……」


「………。」


「私の味方してくれて、私がピンチだって知った時も一人で助けに来てくれたの。それも、自分の仕事ほっぽってまでね!」


 ただ一点を見つめて黙っているだけだった葵が、ふと何かに気づいたように綾乃を見上げた。


「それでね、私がバカみたいに他の男とデートして失敗しても……呆れるどころかずっと好きでいてくれた。ほーんと、いけ好かない性悪男のはずだったんだけどなぁ! 気がついたら私、そいつのことで頭がいっぱいになってたんだ……」


 そう言って葵の目をまっすぐ見つめて、綾乃は笑った。



「……ねぇ、もう試す価値もないぐらいにイイ男だと思わない?」



 ただ呆然としていた葵が、その口を開く。


「あ、綾乃……それって……」


 まだ半信半疑だった葵は、突然の綾乃からのキスによってその言葉の先を見失ってしまうのだった。



 ——二度目の、柔らかな唇の感触。



 そして、唇と唇が離れた先にある目を丸くした葵の顔を見るや否や、綾乃は宣言する。



「こーゆーことだから。……わかった?」



 瞬きすることを忘れてしまった葵のその顔を見ているうちに、一気に照れ臭さが綾乃を襲ってくる。

 そして、またもやごまかすように早口で喋り出すのだ。


「……あ、あんたってば、こんな強がってるだけの性悪女のことがバカみたいに好きなんだもん、ほんとバカよね! あんたみたいなバカにはね、私みたいなバカな女がお似合いなのよっ!」


 そう言っては腰に手を当ててふんぞり返る綾乃。

 しかし、見下ろしていたはずの葵から返ってきたのは、予想外の反応だった。


「……だから何?」


「……え」


「好きって言えよ」


 その突き刺すような強い視線が、まるで追い詰めるかのように綾乃の勢いを奪い去ってしまった。


「あっ……わ、私! 私……あんたのことが、す——」


 「好き、みたい」。

 脳内でまとまった稚拙な告白のセリフは、その喉から出る前に塞ぎ込まれてしまうのだ。


 なぜなら……

 その途中でイスから立ち上がった葵に腰を引き寄せて強く抱きしめられたからだ。


 お互いの心臓の鼓動が大きくなって、重なり合ったような気がした。

 ドクン、ドクン、ドクン、ドクンと、眩暈めまいがするような高鳴りと、体温の上昇。


 ——火が出てるんじゃないかと思うほど、顔が熱い。


 そんな沈黙を破って、先に言葉を発したのは葵の方だった。


「……バカ。お前が他の男と二人きりでいるって考えただけで気が狂いそうだったんだからな……!」


「だ、だって……あんたの気持ち、知らなかったから——」


「もうどこにも行かせない」


 ——その言葉を最後に、何度も見つめ合っては交わすキスだけが二人の間に存在した。


「んっ……!」 


 だんだんと激しくなるキスの中、立っていられないほど力が抜けてしまいそうな腰は、葵に追い詰められた背後のデスクの端にお尻を乗っからせる形で支えることができた。

 そしてピクッと反応を見せた綾乃が、葵の唇をかき分けてやっとその声を上げる。


「ば、バカッ……どこ触ってんの……っ!」


 大きな手のひらが服の上から胸を掴んでぎこちなく動き、耳元で囁く低く甘い声が自制心を掻き乱していく。


「俺のことここまで待たせたお前が悪いんだよ。ここでその責任、取ってもらうから」


 歯の間に耳の軟骨部を挟まれた刺激に反応しているうちに、空いていた手がスカートの隙間から入ってきて太腿の上を滑る。


「ちょ、待って桐矢! 私、まだ心の準備ってものがっ……!!」


 そんな小さな抵抗も、葵の勢いを上回ることなどもはや不可能だ。


「……すんげぇイイ匂い」


 耳の後ろの方で低くつぶやかれ、小さくゾクリとしたものが背筋を流れていく。


「あ……出かける前にシャワー浴びてきたから……っ」


「……ふぅん」


 なんとなく、その声色に威圧感を覚える。


「しかもこんな可愛いスカートなんか履いちゃって……全部他の男に会うためだったと思ったらすっげぇムカつく」


「そ、そんなつもりじゃ……っ!」


 弁解を試みようと顔を上げると、その手に一束の髪を掬われた。

 そして、髪に口付けた彼の激しい眼差しだけがまた綾乃を貫くのだ。


「でも……いいよ、これからは全部……『俺のためのお前』に変えてやるから」


 完全にロックオンされた獲物の気持ちというのは、まさしくこんな感じなのだろうか。


 身動きすら封じ込まれたような感覚。


 ——もう、逃れられない。

 一度捕らわれた彼の瞳からも、その熱く激しい感情からも……。

 すべての感覚が、頭の中から抵抗というすべを取っ払っていく。


「だ、ダメだってば! ここ、オフィスなんだからね?!」


 「この状況下ではとりあえずこう言っとくべきだ」という意味しか持たない言葉だけが飛び出す。


「ダメ、もう離してやんない」


 そう言った後すぐ、葵は突如として綾乃の体をヒョイッと担ぎ上げた。


「えっ?! あっ……ちょっと、何すんの?!」


 そしてその体を降ろしてもらえた場所は、オフィスの一角にある四畳半ほどの狭い仮眠室だった。


 仕事柄夜遅くまで残る社員にだけ個人用ベッドが用意されており、そこへ横たわらせた綾乃の上に葵は当然のように覆い被さってくるのだ。


「……怖い?」


 そう優しく頬を撫でて見つめられて、しばらくしてから綾乃は小さく首を横に振った。


「ううん……どうして?」


「だって……エッチしたら今までの関係も全部変わっちゃうだろ? もう戻れなくなるけど……いい?」


 打診しているふうに見せかけて、その手は綾乃のブラウスのボタンを一つずつ外し始めていた。


「いいよ、桐矢……私も……桐矢としたくてたまらないから……っ」


 ——本当は、ずっと前からそう思っていたのかもしれない。


 意地悪で、事あるごとに綾乃をからかってばかりの葵のことが小僧こにくたらしいと思う反面、その全身から溢れ出す色気と異性としての魅力には気づいていたから。

 そして今……耳元で名前を呼ぶその声、動きに合わせて流れる髪から香る匂い、素肌の上を滑る手、見つめられると囚われてのがれることなどできない突き刺すような強い眼差し……そのすべてを、カラダ全部で感じている。



「好きだよ、綾乃……もう他の男のことなんて1ミリも考えられないくらい、俺でいっぱいにしてやりたい」



 見上げた先にあるのは、長い付き合いの中で一度も見たこともないような彼の高揚した表情だった。

 途端に、なんだか気まずいような恥ずかしさに襲われた綾乃はつい目を逸らした。


「お、女の子たちに私のこと、恋愛対象外だとかなんとか言ってたのにっ?」


 あの日、偶然聞いてしまった言葉。

 もう今は恋愛対象外じゃないことはわかっているのに、意地っ張りで照れ臭い感情だけが先走ってしまう。


「……なに、聞いてたの? あの時の会話」


 キョトンとする葵に改めて確認されると、途端に気まずさが自信を無くしにかかってきた。


「ぐ、偶然だもんっ! でも言ってたじゃない、私のこと……『あんな性悪女と付き合うわけがない』って!」


 しばらく考えたのち、葵は頭をポリポリ引っ掻きながら宙を見上げて言葉に困り始めた。


「そんなの……嘘に決まってるだろ」


「なんでそんな嘘……」


「俺がお前にまったく気がないって言っとけば、あの子たちにお前のこと悪く言われずに済むと思ったんだ。だって……お前の良さもわかんない人間に好き勝手言われるの、ムカつくじゃん」


 そう言ってふてくされながらも照れ臭そうな葵を見つめ、込み上げてくる気持ちを綾乃は我慢できなかった。


「バカ……ッ」


 ついこないだまで憎らしかった男が、今はこんなに狂おしいほど愛おしい。


「私、どうしても素直になれなくて意地ばっか張っちゃって……でもね、今なら言える。桐矢のことが好き。大好き……! こんなにドキドキするの、桐矢だけなのっ! だから……そんな顔見せるの、私だけにしとかなきゃ許さないんだからねっ?!」


 精一杯の告白。


 一瞬だけキョトンとしていた葵も、頬を緩ませてふんわり笑った。


「うん……約束する。俺も……抱きしめたいのはお前だけだから」



 ——————・・・



 ——仮眠室のベッドの上。


 裸のまま抱き合う二人の間に、時間などは存在しない。


「……綾乃、こっち向いて?」


「ん?」


 呼ばれたままに顔を上げると、満足そうに頬杖をついて微笑む彼がいた。



「お前ってさ、俺のこといつ試してたの?」


「試すって……何が?」


「だって、俺って『お試し期間』に合格したたった一人の男なんだろ? だからカラダの関係にもなったんじゃないの?」


「……それは秘密っ!」


「え、なんでだよー?」


「だって……」



 へのお試し期間は、これから先もずーっとあなただけに続いていくから——。




                     終

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