第7話 確信、そして疾走
——あれから二週間ほどが過ぎたある日の夕刻。
隣を歩く男の口から出続ける話など、右の耳から入っては左の耳の外へと流れていた。
海が見渡せる並木道を歩き続ける綾乃の頭の中には、いまだにあの日の記憶が渦巻いたままだ。
『こーゆーことだから。』
突然唇を奪われた後の、葵の顔が目に焼きついて離れない。
「(あのキスの意味は……桐矢が私のことを好きだってことでいいの? あれからずっと会社でもなんとなく避けられちゃってるし……今となってはもう桐矢が何考えてるのかもわからないよ……)」
空中の一点を見つめたままの綾乃の耳に、ようやく男の声が届いた。
「綾乃ちゃん……聞いてる?」
ハッと頭を上げた綾乃は、隣を歩く御曹司くんに向かって慌てて笑顔を取り繕った。
「あ……わ、私もそう思うわっ! (なんのことだかサッパリだけど)」
「……だよね? だからね、親の言いなりになってるっていうのとは違うんだよね。僕の場合は、親の意に反する行動をしている自覚があるからね」
「親の意に反する行動?」
「ああ、こうしてキミという一般の女性に惹かれているっていう……ね」
「一般の、女性……」
立ち止まった御曹司くんに手をとられ、その甲に優しく口づけられる。
「それなのに僕はこんなにもキミに恋焦がれてしまった。好きなんだ、綾乃ちゃん……」
愛の告白を受けたというのに、まったくもって何の感慨もない。
痛くもかゆくも、嬉しくもなんともないのだ。
「本当に、私のことが好きなの……?」
御曹司くんに改めて問う。
「ああ、もちろん」
ニッコリと微笑む、嫌味のなさすぎる紳士の顔を見つめて綾乃は確信した。
——信じることなど、できない。
「(そう、だから私は……男を試すの)」
まったくブレないその気持ちは、再び自分の口から嘘となって飛び出していく。
「ねぇ、御曹司くん……私、妊娠したの」
「……え?」
「あの一夜の過ちで……。ねぇ、責任……取ってくれるんだよね?」
海から流れてくる潮風が、綾乃の髪をなびかせて通り過ぎていった。
そして、しばらく口を閉ざしていた御曹司くんが、鼻の穴から笑いを含んだため息を吐いた。
「……ほんとに俺の子?」
「……え?」
「それに、万が一俺の子だとしても……悪いけど、責任は取れないんだ」
そう話す御曹司くんの目は、とっくに綾乃のことなど見てはいなかった。
「さっきも話した通り、僕には昔から親が決めた結婚相手がいるんだ。でも、僕だってただ親が敷いたレールの上を歩くだけの人生なんて御免だからね……だからこうして、僕はキミと『恋愛』を楽しみたいだけ。その意味……わかるよね?」
要するに、自分が結婚する前に「愛人予約」をしておきたい……ということだろう。その意味がじゅうぶん伝わり、黙って俯く綾乃に御曹司くんは少し残念そうに言った。
「でも……なんだか拍子抜けしたなぁ。キミって、そんなふうに男の弱みにつけ込むほど自分に自信がないんだ?」
「それは……」
言い返す言葉に悩んでいるうちに、葵に言われたことが脳内で再生されていく。
『本当はさ、人一倍臆病で擦れてなくて…一生懸命で……不器用なのを必死で隠して取り繕って、強がってるだけなんだ』
『お前はさ、そのまんまのお前で勝負してろよ』
そのすべてが、何にも邪魔されずに素直に自分の何もかもを包み込んでくれる。
そう強く感じた瞬間、綾乃は足の歩みを止めた。
「どうして……こんな時にも思い出しちゃうのかな」
「え?」
同じように前で歩みを止めた御曹司くんが、振り返る。
「ふふっ、ほんと……バカだよね、私。初めから男を試す必要なんてなかったのに。『本物の愛』は……いつでもすぐそばにあったのに」
いまいち事情が掴めない御曹司くんは、首を傾げながら問いかけてくる。
「試すって……妊娠のことなら、それはお門違いだよ?」
「……お門違い?」
「うん、だって僕、あの夜キミには何もしなかったから」
御曹司くんの口からその新事実を聞いた綾乃は、思わず駆け寄ってその両手を握りしめた。
「う、うそっ……それって本当?!」
突然手を握られた御曹司くんは、その勢いに押されながらも説明を続ける。
「えっ? あ、ああ……あの時はカッコ悪くて言えなかったんだけどね。あの夜、キミを抱こうとはしてみたんだけど……寝言で他の男の名前を何度も呼ぶもんだからさ、さすがに男として身を引いたっていうか……」
「他の男の名前……?」
なぜか、すぐによく知るあの男の顔が浮かび上がった。
いつも澄ました顔で意地悪なことしか言わないくせに、ここぞという時に誰よりも優しい、アイツの顔が——。
「うん、そうそう……確か『キリヤ』って。キミのお腹の子の父親も、そのキリヤくんなんじゃないかな? だからね、僕が責任をとる必要は——」
御曹司くんの言葉の続きを遮って、綾乃は感極まって御曹司くんに抱きついた。
「うんっ、その必要はないみたいっ!! あーあ、玉の輿に乗れなくって残念だわぁ!」
言動の食い違いに戸惑う御曹司くん。
「そ、そのわりにはすごく嬉しそうだね……」
——やっと確信できた、自分の気持ち。
本当はもっと早くから気づいていたはずなのに、どうしても素直に認めることができなかった想い。
いつも意地悪ばかり言ってからかう葵に対して、意地を張ること以外に何もできなかった。
しかし、ついに愛を確信した女の勢いは、もう止まることなど知らない。
早く会って、直接伝えるまでは——。
そして足早に帰路についた綾乃は、走りながらスマホを手に、咲子へと電話をかけた。
「あ、もしもし咲子?」
「……綾乃? どうしたの?」
「桐矢って、まだ会社にいる?! アイツ、電話もメッセージも無視してくれちゃって!」
「桐矢くんなら、まだ制作部のオフィスで仕事してると思うけど……あんた、そんなに息切らしてどうしたの? 今頃、御曹司くんとのデート楽しんでる頃だと思ってたけど……」
「咲子……私ね、バカだから今まで気づかなかったの。アイツはいつも近くで私を見てくれてて、いつだって私のこと助けてくれたし味方でいてくれた……それなのに、私……!!」
「……それ、そのまんま桐矢くんに伝えてあげなよ」
まるで何もかも知っていたというふうな咲子は、どこまでも鈍い綾乃のことを笑い飛ばした。
「まぁ、あんたもほんっと鈍いよね〜!
「そ、そうなの……?」
2年も前から何も気づかずにいたことに、我ながら驚愕する。
「実は私も、ちょうどその頃に桐矢くんに告白してフラれた口なんだよね。その時に彼……言ってたよ? 『どうしても気になって、ほっとけない奴がいるんだ』って……。まぁ、彼の言動見てたらその相手が誰なのかはお察しだよね」
「な、なんでわかるの?」
「だって、いつもさりげなく私に近づいてきてあんたの恋愛事情に探り入れてくるし。あんたがバーテンと会ってた時も知った途端に血相変えて会社飛び出してっちゃうし。あんたの恋愛がうまくいかなかった時なんて1日中上機嫌だし! あれだけわかりやすいんだから、今まで気づかなかったあんたがすごいんだからね!」
「そう……だったんだ、知らなかった……っ」
「でも……やっと桐矢くんの想いに応える気になったんだね、綾乃。私、応援してるから!」
「うん、咲子……ありがとう……っ」
どれだけ走っても、走っても、ただひたすらに、葵に会いたい気持ちだけが先走っていった——。
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