第6話 「本物の愛」

 ——その日の夜。


 綾乃はいつも以上にオシャレをして家を出た。


 御曹司くんが待つラウンジバーは、都心でも富裕層の御用達だと呼ばれるほどのゴージャスな大人の憩い場。

 なんとかドレスコードをクリアし、窓際に接するカウンター席へと落ち着いた。


「わぁ、素敵なラウンジですね! こんなに綺麗な夜景が一望できるなんて……」


 目の前の窓ガラス越しに煌めく夜の宝石は、確かにその美しさで綾乃を魅了した。

 そして、喜ぶ綾乃の隣席ではフォーマルスーツを纏った御曹司くんが紳士的に微笑む。


「喜んでもらえて嬉しいよ」


 そんな御曹司くんに対して、綾乃は慣れない様子で普段の自分を封印し、淑女を装う。


「美しいキミのために、極上のワインを用意したんだよ。さぁ、乾杯しよう」


 赤ワインを注がれたワイングラスが、お互いの乾杯によってチン!、と音を鳴らしてその中身を泳がせる。


「……あ、あの、御曹司くん」


 ワイングラスに口をつけたまま、隣に座る御曹司くんに向かって綾乃はつぶやく。


「その、私なんかをお誘いしていただいて、本当によかったんですか?」


 今までのキープくんたちとはまるでグレードが違う御曹司くんを目の前に、綾乃は正直言って辟易していた。しかしそんな綾乃をまっすぐに見つめると、御曹司くんは上品に微笑むのだった。


「何を言うかと思えば、そんなことかい? 綾乃ちゃん、キミはこの僕に最もふさわしい女性なんだよ」


 とても素直には受け入れられない賞賛をいただいた。


 自分がこんなにもパーフェクトな男性にふさわしいような女性であるわけがなく、そんな資質も持っていないことは自分が一番よくわかっているのだ。

 かつて、ネイチャーくんを試すためとはいえ、異性の前でゲップやオナラをしてしまったことを思い出しては、綾乃は微かに首を横に振った。


「(そう、私なんて桐矢に言わせれば『ガサツな性悪女』だし)」


 無意識に、昼間に聞いた葵の言葉が、声が、脳裏を通り過ぎる。


『……恋愛対象外って感じ?』


 そして、その苦い記憶が一瞬にしてまた綾乃を苛立たせるのだ。



 ——悔しい。



「(……ふん! バカな奴っ! 私にはこんなにもハイスペックな男が言い寄ってくるとも知らずにザマァミロってんだ!!)」


 心の中で葵のことを罵倒しながら、ワイングラスの中身を一気に喉に流し込む。それを見て、御曹司くんは満足げに口元を緩ませるのだった。


「すごい飲みっぷりだね、綾乃ちゃん。そんなにこのワインが気に入った?」


 「もう一杯!」と言わんばかりにからになったワイングラスをテーブルに叩き置くと、綾乃は窓ガラスの向こう側に散りばめられた宝石箱を眺めてから、御曹司くんに向き直って微笑んだ。


「……ええ、この夜景もこのワインも……何もかも吹っ切れさせてくれるぐらい、いい味わいですから!」



 ———————・・・



 ——そしてその、翌朝。


 清々しいスズメのさえずりとともに、綾乃はベッドの上で目を覚ます。


 なんだかいつもと違うことは、目覚めとともに襲ってくる頭痛と……いつも眠っている自分のベッドとは明らかに違うシーツの感触と、体の感覚。


「んん……頭いったぁ……っ」


 頭がハッキリしないまま上体を起こすと、胸元まで掛かっていた布団がハラリとめくれ落ちて、下着すらつけていない胸が露出した。


「……え?」


 自分が全裸の状態であることを理解した瞬間、隠す間もなくバスルームらしきドアから誰かが入ってくる。


「おはよう、綾乃ちゃん」


 それは、バスローブを着た御曹司くんだった。

 状況の整理が追いつかないが、とにかく丸出しになった胸を慌てて布団で隠す綾乃に御曹司くんは落ち着き払って話し始めた。


「……ここがどこだかわからないって感じだね。昨夜キミ、ベロンベロンに酔っ払っちゃって一人で帰すわけにもいかなかったから、このホテルに泊まったんだよ。……覚えてないの?」


 告げられたことの意味が、まったくわからない。

 しかし、昨夜の記憶がワインを何杯も飲み続けていた場面からプッツリと途絶えていることが、その現実性を物語っているのだ。

 そして、それは一気に焦りと不安に変わっていった。


「も、もしかして私……やらかした?」


 青ざめて独り言のようにつぶやく綾乃の隣に腰掛けると、御曹司くんはフッと微笑んだ。


「お酒が入ったキミって……見かけによらず大胆なんだね」


 その一言ですべてを理解した綾乃は恥じらいもなく全裸のままベッドから降りると、床に散らばっていたままの自分の下着と服を掴み取った。


「ごめんなさい、御曹司くん。私……仕事があるので帰ります……!!」


「え……あ、綾乃ちゃん?!」



 ——そこからは、なんとか必死に平常を装うことで精一杯だった。いつもと同じように出社し、上司に挨拶をして仕事に取り掛かる。


 そんな、なんの変哲もないいつもの朝。


 そう思いたかった。

 しかし、それは綾乃が一人で資料室にいる時に崩されることとなるのだ。



「よぉ、遅刻魔」



 資料室に入ってくるなり軽口を飛ばす葵のことを、綾乃は振り返らずに棚の中のファイルを出し入れする。


「……なんだ、朝から機嫌でも悪いの? あ、もしかして、生理痛?」


 そんな無神経な発言にすら怒る気にもなれない。


「……何しにきたの?」


 抑揚のないトーンで返す綾乃の後ろで、葵はつまらなさそうに腕を組む。


「べっつにー? ちょうどお前がここに入ってくの見かけたから、社会人らしく朝のご挨拶でもしようかなぁと思っただけだし!」


「……あっそう」


 まるでそっけない綾乃の態度を不審に思った葵は、その顔を覗き込んだ。


「……なに? お前、どうせまた男を試してフラれたんだろー?」


 作業するその手がピタッと止まったのを見ると、ますます葵は調子づいてからかい始めた。


「やっぱりなー。だからやめとけって言ったのに——」


「フラれてなんかないもん!!」


 ついに平常心を崩されたその口からは、本心ではない言葉ばかりが放たれていく。


「今回はね、大金持ちのイケメン御曹司くんなんだから……私、本気なの! 彼だって、私のことちゃんととして見てくれてるし! このままうまくやって、絶対に玉の輿に乗ってやるんだからっ!!」


 向き合い、そう早口でまくし立てる綾乃を見つめると、葵は少し黙ってからボソッとつぶやいた。


「……くだらねー」


 そして当然、そんな言い草にムッとした綾乃はさらに食ってかかるのだ。


「くだらないって……何がよ?!」


「そうやって相手の表面にばっか囚われてんのがくだらないって言ってんの! ……なに? お前……そんなんで幸せになれるとか本気で思ってんの?」


 痛いところを突かれて言葉に詰まる綾乃に、葵は身を翻して扉に向かって歩き出した。


「もうやめろよ、男を試すとか、そんなの……。お前はさ、そのまんまのお前で勝負してろよ」


 無言のまま立ち尽くす綾乃を横目で流し見た葵がドアノブを掴んだその時……綾乃は声を上げる。



「私は幸せになるもん! だって、私……昨夜彼と寝たんだからっ!!」



 葵の、ドアノブを掴んで回そうとする手が止まった。

 そして、一度外れたストッパーが止まることは、もうない。

 綾乃はこれ見よがしに、誇らしげに葵の背中に向かって次々と投げ始めたのだ。


「……ふふんっ! 昨夜はゴージャスなホテルにお泊まりしてぇー(全然記憶にないけど)、彼ったらすっごく大胆でテクニシャンでぇー(まったく微塵も覚えてないけど)、それはそれはもう、甘くとろけるような一夜を——」


 綾乃を振り返ると、葵はそのすべてを聞かずに怒りを露わにした。


「このっ……バカオンナ!!」


「ひっ?!」


 突然の怒鳴り声に驚いている暇もなく、ツカツカと距離を詰めながらさらに声を張り上げるその勢いに押され始める。


「自分を安売りするんじゃねぇよ!! そんなやり方で勝ち取る愛なんて……『本物の愛』なんかじゃねぇ!!」


 あまりの剣幕にうろたえながらも、綾乃は喉の奥から声を絞り出して反抗した。


「な、何マジで怒ってんのよ……っ、私がどこの誰と寝ようがあんたには関係ないでしょ?!」


「………っ」


 黙ったまま視線を外し、何も言い返そうとしない葵をしばらく眺めると、調子づいた綾乃は意地悪な微笑みを浮かべた。


「はっは〜ん、わかった……あんた、私が自分より先に結婚しちゃうのが悔しいんでしょ?! だからいつもそうやって私のやることにいちいち反対するんだぁー?! でも残念でしたー! 私はねぇ、このまま御曹司くんと——」


 その続きは、急に掴まれた腕を引っ張られてビックリした綾乃の口から出ることはなかった。


「あっ……何すっ——」


 力強く体を引き寄せられた瞬間の中で、葵の髪が自分の顔にかかるのがわかった。



 ——突然のキス。



 彼の唇の柔らかな感触を実感するまでの、ほんの数秒間。

 それは瞬く間に、綾乃の頭の中すべてを真っ白に埋め尽くした。


「………は?」


 それが、唇が離れた先の葵の顔を見て初めて口から出たものだった。


「こーゆーことだから。」


 そう言ってまっすぐに目を見つめられた後、目の前の葵の顔がみるみるうちに赤く染まり上がっていくのを見て初めて、キスをされたことに気づく。


「え?」


 呆然としたままの綾乃を取り残し、葵は扉に向かって歩いていく。そしてドアノブに手を掛けて一言、小さく吐き捨てるのだ。


「いい加減気づけ! ……バカ」


 パタン、と音を立てて閉まった扉をしばらく見つめていた綾乃だが、やがてその足腰を支える力は張り詰めていた糸が切れたかのように抜け落ち、床へと座り込んでしまうこととなる。

 何が起きたのかを理解すればするほど心臓の鼓動はけたたましく胸を打ち始め、体温は上昇し、触れずとも顔面がとてつもない熱を帯びているのを感じる。


「う、うそっ? な、な、な……なんでーーーーーっ?!」


 資料室には、綾乃のその叫び声だけが虚しく響き渡っていた——。

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