第5話 期待と苛立ち

 ——バーテンくん騒動から数日が過ぎた頃。


 オフィスにて。


 パソコンのキーボードをカタカタと叩く綾乃のスカートのポケット内で、スマホが震えた。

 離れたデスクで仕事をしているお局様の方をチラリと横目で確認してから、バレないようにコッソリとデスクの下の手元でスマホを操作してみる。



「(……ん? バーテンくんからメッセージが来てる)」



 もう二度と会う気もない異性からのメッセージに喜ぶわけもないが、とりあえず内容を確認してみる。



『綾乃ちゃん、こないだはいきなりあんなことしてごめん。悪かったと思ってるよ。綾乃ちゃんの初めての男になれなくてちょっと残念だったけど(笑)』


「(……絶対悪いと思ってないでしょ、コイツ)」


『それにしても、彼氏がいるなら最初から言ってくれればよかったのに〜。』


「(彼氏って……そっか、桐矢のこと私の彼氏だと思っちゃったのか。……って! あんな奴が彼氏なわけないでしょ!! あんな奴が……っ)」


 ぶんぶん、と首を左右に振りながらも最後まで目を通す。


『店から出て行く時だって、すれ違いざまに笑顔で強烈な殺気がこもった目で睨まれたし……甘いマスクのわりにはドS臭が半端ない彼氏だね!(笑)それじゃ、もし彼氏に飽きたらいつでも連絡してね♡』


 バーテンくんからのメッセージを最後まで読み終えてから、綾乃は少し考えた。


 葵が、バーテンくんに明らかな敵意を示していたこと。

 仕事を放ってまで一人で助けに来てくれたこと。


 そして、そのことを必死でごまかそうとして、しどろもどろになっていた葵の態度。真っ赤に染まったあの顔も、本当はお酒を飲んだからじゃなかったのかもしれない。



「(アイツ、まさか、私のこと……?)」



 そんな疑惑が、頭の中をザワつかせる。


 いつも顔を合わせるたびに意地悪なことばかり言ってからかう彼。その憎たらしいはずの顔に、意識の操縦権を乗っ取られる。


「(それならどうして、私にだけあんなに意地悪なの?)」


 モヤモヤと煙のようなものが頭を埋め尽くし、気分を変えたくなった綾乃は席を立ってトイレへと向かうのだった。




 ——トイレへ向かう廊下の途中、談話室の前を通った時に聴き慣れた話し声が聞こえて立ち止まった。


 そして、なんとなく扉の隙間から中を覗いてみると、予想通り、葵とその取り巻きの女性社員たちの姿が目に入ったのだ。



「ねぇ桐矢くん、最近ちょっと藤崎さんと仲良すぎない?」

「社内でも付き合ってるんじゃないかって噂になってるんだけど、そんなの嘘だよね?!」



 自分の名前が出たことで、綾乃はギクッとする。


 それと同時に、葵がそれにどう答えるのかを待っている自分がいた。



 ドキドキドキドキ……



「え、俺が藤崎さんと? そんなわけないじゃーん、あんな性悪女となんて!」


「(な、なんですってぇ?! あンのヤロォ〜ッ……!!)」


 葵のその言葉で安心した女性社員は、一層馴れ馴れしく話しかける。


「それならよかったぁ! 私たち、桐矢くんが心配だったの!」


「俺が心配って……なんで?」


「ほら、藤崎さんっていろんな男に手を出して良いように振り回して遊んでるって噂でしょ? だから、もし桐矢くんが被害に遭ってたらって思うと……」


 自分の悪い噂が出回っていることに少し胸がチクンと痛む。男に手は出してはいないものの、「良いように振り回して遊んでいる」というのは完全に否定できないからだ。


 そして、そんな話を葵が耳にしてしまったことも、綾乃の胸を締めつけていく。

 自分に対していつも意地悪な彼だけに、もしかしたらその悪い噂にも共感し兼ねない……そんな不安がよぎった綾乃が、そっと扉から離れようとした時だった。



「……ええ、そうなの? おっかしいなぁ……そんな噂、聞いたこともないけど。でもよく肝に銘じておくよ! ありがとね!」


 そう言って女性社員たちにニコニコ愛想を振りまく葵だったが、すぐにその態度を変える。



「でもさ、アイツって……実際はみんなが思ってるほど悪い女なんかじゃないよ?」


「(……え?)」


「アイツ、見た目もあんなだし、確かにしたたかな所もあるから誤解されやすいんだけど……本当はさ、人一倍臆病で擦れてなくて、一生懸命で……不器用なのを必死に隠して取り繕って、強がってるだけなんだ。だから……アイツのこと、あまり悪く言わないでやってくれないかな?」



 ——衝撃的だった。



「(うそ……かばってくれた……? 桐矢……私のこと、そんなふうに思ってくれてたの?)」

 


 途端に、さっきまで頭を埋め尽くしていた「葵が自分のことを好きかもしれない」、という疑惑が膨らんでくる。


 そして、そのことに対する気持ちのたかぶりが。


 それは自分の意思に関係なく、心の中をザワつかせながらも不思議なもので満たしていく。

 しかし、それは数秒後に打ち砕かれることとなるのだ。


 ……そう、他の誰でもない、葵によって。



「まぁー、俺はあんなガサツで気の強いタイプの女はパスだけどねー! ……恋愛対象外って感じ?」



 葵本人がそうはっきりと断言したことで、女性社員たちは綾乃のことを悪く言うのをやめた。

 しかしそれでも、グサリと刺さった太いトゲが綾乃から抜け落ちることはなかった。



「(アイツのこと、見直しかけた私がバカだった!!)」



 トイレに向かって廊下を突き進むそのけたたましい足音が、綾乃の心中を物語っている。



「(……なによ、女の子の前だからっていい気になっちゃって! あの女ったらし猫かぶり野郎!!)」



 イライラとは違う、小さな感情を無理やり押し込むように怒りが沸き上がってきたその時、また綾乃のスマホがメッセージの受信を知らせるのだ。


 それは大手企業の御曹司であるイケメン、「御曹司くん」からのメッセージ。



「(ああ……そういえばまだいたんだっけ、御曹司くんが)」



 苛立ちを抑えきれないまま、メッセージを確認してみる。



『綾乃ちゃん、今夜会えないかな? 実は、夜景が一望できるラウンジ席をとってあるんだ。もちろん、キミと素敵なひと時を分かち合うためだよ。ぜひ、来て欲しい。』



 ギュッと握りしめた拳を胸にあてて、綾乃は決意する。



「(恋愛対象外で結構!!私には、超一流の男との大恋愛が待ってるんだから!!)」



 意地で凝り固まった先に待つものとは、果たして——。

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