第4話 バカ
——薄暗くて狭い備品室の中。
壁際に立たされたまま身動きもできず、ただただ至近距離で見つめ合う葵のその驚いたような眼差しから逃れられない綾乃。
「あ……っ!」
やっとの思いで目を逸らすことができて、止まっていた呼吸がやっとできたような気がした。
「ば、バカッ……なにマジで迫っちゃってんのよっ!」
「なっ……! せ、迫るって……誰がだよっ! お前みたいな色気もクソもない女なんかに、興奮なんかするわけねぇだろ!」
その一言で、綾乃の額にピキッと青筋が浮かび上がった。
「色気がなくって悪かったわねぇぇ……っ! 私はあんたとは違って、健全な人生を歩んでますからぁ!」
いつもの調子で腕を組む綾乃を、葵はキョトンとして見下ろした。
「……なんだよ、その『あんたとは違って』って」
「だって、あんたってその顔のおかげで女の子なんか選び放題のヤリたい放題なんでしょ、どうせっ! じゃなきゃ、あんたが3年も彼女いない理由なんて他に考えられないもーん」
……軽く、笑い飛ばしたつもりだった。
いつものようにムキになって、ただ「言われたから言い返した」……それだけ。
「しないよ……そんなの」
ところが返ってきたのは、いつもとは少し違う冷静な
「え……?」
なんとなく覚えた違和感に反応して見上げると、葵はスッと離れてドアの方へと動き出した。
「お局様ももう行ったことだし、そろそろ仕事戻んなきゃな。お前ももう、休憩終わりなんじゃないの? ……遅れたらお局様がうるさいぞ」
「あぁ……う、うん」
背中越しの会話の中、綾乃はなんとなくスッキリしないまま仕事へと戻るのだった。
——いつものように、言い争いに発展しただけ。
ほんの少しだけ意地になりすぎて、つい余計なことを言ってしまっただけにすぎない。
でも、自分自身にそう言い聞かせるほど、彼のなんとなく怒ったような寂しそうなあの横顔が……いつまでもちらついて離れなかった。
——数日後。
自室の鏡の前でキュッと赤い口紅を引くと、綾乃は
「(……よし、完璧っ! 今夜は超ワイルド系イケメン、『バーテンくん』とのデートだからちょっとセクシーな感じにキメてやったわ! ……まぁ、デートっていっても彼のお店のBARに飲みに行くだけなんだけどね)」
その夜、気合いじゅうぶんでやって来たBAR。
店の扉を開けると、バーテンくんが綾乃を出迎えた。
「いらっしゃい、綾乃ちゃん! ……待ってたよ」
お店の中には他の若い女性客が一人、すでに酔い潰れた状態でカウンターに突っ伏していた。
とりあえず中に入り、隅のソファー席に腰を沈める。
その時、カウンターの女性客が
「んねぇ、マスター……あたひ、酔っ払っひゃったみたぁい。いつもみたいにホテルに——」
それを慌てて早口で遮るバーテンくん。
「ああーーっ! ほんとだねー!! こりゃあそうとう酔っ払っちゃってるみたいだねー! アッハッハ!! さぁ! 今すぐタクシー呼んであげるから、さっさと帰ろうねーっ!!」
そのやり取りを見ていて、綾乃は察した。
この男は、女遊びが激しいのだと。
「(この人、きっとしょっちゅう女性客にも手を出してるに違いないわね。でも、こういう人に限って案外、ピュアな女に人一倍一途になったりするのよねぇ。じゅうぶんに誘惑して惹きつけてから一気にピュアな女をアピールしてギャップを見せつけたら……さて、彼はどう出るかしら?)」
カウンターの向こう側に立つバーテンくんのことをそんなふうに分析しながら、綾乃はバーテンくんにニッコリ微笑みかける。そしていよいよ二人きりになった頃、バーテンくんがカウンターから身を乗り出して綾乃に近づいてきた。
「さ、何にする? 綾乃ちゃんが飲みたい感じのカクテル、なんでも作るよ!」
カクテルのメニューボードを眺めて、綾乃は呟くようにして言った。
「そうねぇ……じゃあ、『セックス
・・・
……オン・ザ・ビーチ』でもいただこうかしら」
一瞬時が止まり、目が点になっていたバーテンくんが意識を取り戻してカクテル作りに入った。
「あ、あぁ……『セックス・オン・ザ・ビーチ』ね……(いきなり際どいところで止まるからビックリした……)」
そして、バーテンくんがシェイカーを手に取った瞬間、メニューボードを眺めたままの綾乃がそれを制止するかのごとく口を挟んだ。
「あ、ちょっと待って! 『ビトウィーン・ザ・シーツ(シーツの間)』もいいわね……」
「え……?」
「あっ、でもやっぱり……『オーガズム(絶頂)』も捨てがたいわ……っ!」
バーテンくんの顔つきが、徐々に変わっていく。
心なしか、鼻の下が5ミリぐらい長くなったかもしれない。
それを見逃さなかった綾乃はさらに追い討ちをかける。
「でもね、今の気分は……『ディープ・スロート』を喉の奥でじっくり味わいたい気分……」
そう言って舌なめずりをする綾乃の口元を見つめて、バーテンくんはゴクリと喉を鳴らした。
「わ、わかった……じゃ、ちょっと待っててもらえる?」
しばらく待つと、『ディープ・スロート』が注がれたグラスが綾乃の元へ届けられた。
それを一口飲んで、綾乃はまたもや舌なめずりを繰り返す。その様子を、隣に座ったバーテンくんは鼻息を荒くしながら眺めていた。
「このカクテル、すっごくおいしい!」
1ミリずつ距離を縮めていきながら、バーテンくんは綾乃に笑いかける。
「ほんと? そりゃあ、こんなにセクシーでキュートな綾乃ちゃんのために作ったカクテルだからね!」
「お世辞がうまいのね」
「お世辞なんかじゃないよ、俺……合コンで初めて綾乃ちゃんを見た時からキミに夢中なんだ」
そう言ってまっすぐ見つめられ、ギュッと手を握られた綾乃は内心焦りを感じた。
「だ、ダメよっ……あなたには、ガールフレンドがたくさんいるでしょう?」
少し後退りしながら必死にごまかすが、バーテンくんの勢いは止まらない。
「そんなものは関係ないさ、俺にはキミしか見えていない。本気なんだ、綾乃ちゃん……」
一瞬、その甘い言葉に気持ちが揺れ動く。
でも、胸はなぜか高鳴らないまま。
あの備品室で、葵とまっすぐに見つめ合った瞬間のような胸の高鳴りと全身の火照りなど、カラダがとっくに忘れてしまったかのように無反応なままだ。
「カクテルってね、作る人によっては大きく味が変わるんだよ。シェイカーの振り方1つで、中の氷の割れ方も、
バーテンくんの、超ワイルドな顔が1ミリずつ綾乃に迫ってくる。
「そ、そう……っ私ね、ぜひあなたに作ってもらいたいカクテルがあるの!」
「……なんだい?」
「カクテルの王様……そう、マティーニ。あなたがジンで、私はベルモット……その2つが
綾乃のその台本通りの
「ああ……っ、キミと、1つのオリーブを口移しし合いたい……!」
「……え、お、お、オリーブ?」
「綾乃ちゃん! も、も、も、も、もう我慢できーーーん!!」
ガバァっと、そのままバーテンくんにソファーに押し倒されてしまった。
そしてズシッと、体格がいい男性の体重がのしかかってくる。
「や、やだっ……ちょっとバーテンくん?! (ヤバッ、ちょっと誘惑しすぎちゃった?!)」
「ここがイヤなら、店閉めてホテル行こうか?」
綾乃の両腕をグッと掴むと、バーテンくんはすっかり興奮した様子でキスを迫ってきた。
「綾乃ちゃん、その様子だとキミもこういうの、慣れてるんだね」
いよいよバーテンくんの超ワイルドな唇があと数センチのところまで来た時……
「ま、待って!! 私……実はまだ処女なの!!」
堂々とついたその嘘が、バーテンくんの動きをピタリと止めた。
息を落ち着かせた綾乃が、この状況をおさめるために当初の目的だった「ピュアな女アピール」を始める。
「わ、私、こう見えて彼氏いない歴=年齢でっ! 実は男の人と手を繋いだこともないの!! バーテンくんに嫌われたくない一心で……遊び慣れてる女のふりしてたの! ごめんなさいっ!!」
策略のつもりが、いつのまにかこの場を切り抜けるための防御策になっていた。
そしてしばしの沈黙の後、バーテンくんは目をキラキラ輝かせて言った。
「へぇ……綾乃ちゃんって、案外ピュアなんだね……!」
「え、ええ……そうなの! ピュアなの、私!」
少しホッとしたのも束の間、バーテンくんはその表情を一瞬にして鬼畜へと変えた。
そして綾乃の腕を握る手に、グッと力を込めてニヤリと笑うバーテンくんがそこにいたのだ。
「逆にそそられるわぁ。俺ってさ、実は本命の彼女とかもいたりするんだけど……実は処女狩りが趣味なんだよねぇ」
その言葉とニヤついた顔を見るなり、焦りが恐怖へと変わって綾乃は身震いした。
それと同時に、考えが浅はかだった自分自身への深い後悔が波のように押し寄せてくる。
「(こ、この男っ……遊び人なんかよりよっぽどタチの悪い野獣じゃないのっ……!)」
嫌悪感でいっぱいになった綾乃が必死に抵抗しようとするも、男の力には到底太刀打ちなどできない。
そして首元に顔を
「やだ……!お願い、やめて……っ!! いやあぁ……!!」
その時だった。
ドンドンドンドン! ガチャガチャガチャ……
店の扉を叩く音と、ドアノブを乱暴に動かす音がバーテンくんの動きを止めた。
「なんだ、こんな時に……」
そして、ドアの外からこちらに向かって誰かが呼びかける声がかすかに聞こえてきた。
「マスター! 飲みに来たんですけど、もう閉店ですかー? 開けて下さいよー!」
その声を聞くなりバーテンくんは不機嫌そうにソファーから降り、綾乃は一旦解放されるのだった。
「……チッ、いいとこだったのに。はいはい、今開けますよー」
仕方なくバーテンくんが扉の鍵を開けてドアを開いた。
「お客さーん、悪いんだけど今夜はもう——」
バーテンくんが言い終わらないうちに、聴き慣れた声が綾乃の耳に届いた。
「そんなこと言わずに入れて下さいよー!」
「き、桐矢……?!」
ソファーに座ったまま半泣き状態で、はだけた胸元を隠す綾乃の姿を確認した葵。そのまま目を離すことなく、バーテンくんを押しのけて一直線に店内に足を踏み入れた。
「お、おいっ! ちょっと……お客さん!」
バーテンくんの存在なんて目にも入らぬ態度で、葵は綾乃のことを見下ろして真顔で話しかけてくる。
「あっれー、綾乃じゃん! こんなとこで何してんの?」
その場の状況にまるでふさわしくない葵の態度に綾乃は困惑するしかなく、引きつり笑いを浮かべた。
「な、何って……あんたこそ、ここに何しに……っ」
超然とした感じで葵は頭をポリポリと引っ掻く。
「今さ、ちょうど会社の奴らと飲んでて2軒目に移動しようとしてたとこなんだけど……ここはもう閉店みたいだし、違う店にするかな」
そう言った後すぐに、葵はなぜか綾乃に向けて手を差し出すのだ。
「……何してんだよ、ほらっ! お前も一緒に行くぞ!」
「……ええっ?」
躊躇う暇もなく、掴まれた腕を引っ張り上げられるまま綾乃は立ち上がった。その様子を見ていたバーテンくんが、行かせまいとして横から口を挟む。
「ちょ、おい……その子はっ——」
綾乃の腕を引っ張ったまま、何食わぬ顔で扉の外に向かう葵。そのすれ違いざまにバーテンくんの肩に手を置くと、葵はペロッと舌を出して言った。
「ごめーん、マスター。コイツは俺がもらってくわ」
そうしてバーテンくんのBARから出た後、しばらく綾乃は葵に引っ張られたまま走らされるハメになった。
息切れし始めた頃、
「ゼェ、ゼェ、ハァ……ちょっと、桐矢っ! 会社のみんなは? 飲み会してるんじゃなかったの?!」
その問いかけに葵はすぐには答えず、空中を仰いで大きなため息を吐くのだった。
そして、腕で目元を覆うとようやく口を開いた。
「……そんなの、嘘に決まってんだろ!」
「……はぁ? どういうこと?」
やっと向き合ったと思えば、葵はギロリと鋭い目で綾乃を睨みつけながら怒りを露わにした。
「お前なぁ……あのバーテン、ここらじゃ有名な遊び人なんだぞ?! 俺が行かなかったら、今頃どうなってたかわかったもんじゃねぇ!! 男を試すとかどうとかの前にっ、そんな情報ぐらいちゃんと調べてからにしろよ!!」
その剣幕は、綾乃ですら何も言い返せずに黙り込むほどのものだ。
「ご、ごめん……っ」
自分の行動が軽率だったことは、綾乃本人も理解していたがゆえの、素直な謝罪。
珍しくしおらしい綾乃の態度に面食らった葵は、子供を叱る親のように深いため息をつくのだった。
「……一体、何がどうなってあんなことになったわけ? お前……アイツに惚れたの?」
面白くなさそうに返答を待つ葵と、目も合わせられない綾乃。
「……違う。いつもみたいに男を試してみただけ。でも正直危なかった。あんたが来てくれなかったら……私、今頃ヤラレちゃってたかもしれない。あんな、クズみたいな男に……ほんと、私ってバカ……っ」
自分自身の考えの甘さと、ついさっきまで晒されていた恐怖が薄涙となって視界を滲ませる。
そこから口を閉ざす綾乃だったが、葵はさらに問い詰める。
しかし、その声から怒りの感情は消え失せていた。
「何されたの? アイツに」
「……え?」
「……だからさ、キスされたり、触られたりしてないの?」
「うん、ただ押し倒されただけ」
その答えを聞いた葵は、ようやく尖らせていた唇が元に戻ることとなった。
「……そっか!」
そして真面目に綾乃に向き合うと、まっすぐに自分の想いをぶつけるのだ。
「お前さ、もう男を試すのとかやめたら?」
「え、なんで?」
「男なんてさ……バカで鈍感で単純な生き物だから、わざわざ試したりする必要なんてないんだよ。それに、今回のことでわかったんじゃない? 女は所詮、力じゃ男には敵わないって。……たとえお前がどんなに口がうまくて、意思が固くて、
悔しいことに、その言葉の1つ1つが綾乃の中に納得という形で浸透していってしまった。
それでも抗いたい気持ちが込み上げてくるのはなぜなのだろうか。
「だって」、「でも」、「あんたはそうでも私はこうなの!」……そんな自己主張の言葉が頭の中にポツポツと湧いてはくるものの、こうして助けてくれた葵に言い返すことなど、できなくて当然だった。
そして、ふと浮かび上がって来た一つの疑問を綾乃は口にした。
「そういえば、あんた……私があの店にいるってどうしてわかったの?」
その問いかけに、葵はピクリと反応を見せた。
「私、今夜の予定はあんたには話さなかったと思うけど」
そして、しばしの沈黙の後……
葵の苦し紛れの言い訳が始まる。
「そりゃあ……ぐ、偶然だよっ! どこに飲みに行こうか迷ってブラブラしてて、たまたまあの店に寄ってみたらたまたまお前がいたってだけ!」
とても信用できないような言い訳に、怪しむ綾乃はその困り果てた横顔をまるで楽しむかのように覗き込んだ。
「……ほんとにぃ?」
「ほ、ほんとだって!」
そんなやり取りの邪魔をするかのように、綾乃のスマホが着信音を鳴らした。そして、液晶に表示された通りの人物名をつぶやく。
「あ……咲子から電話だ」
それを聞いた葵はギクゥッ!、と一瞬飛び跳ねたのだ。
その理由は、すぐに明らかとなる。
「もしもし、咲子?」
その電話は、まだ会社で仕事中の咲子からだった。
「あ、綾乃? あんた……大丈夫なの?」
「大丈夫って……なんで?」
「今夜あんたが行こうとしてたBARの名前、さっき桐矢くんに聞かれて話しちゃったんだけど……なんか、そこのマスターがヤバイ奴だって桐矢くんが言ってたから」
横目でチラリと葵に目をやると、葵は石をイスにして座り込んだまま顔を両手で覆っていた。
そして、咲子の話はまだ続く。
「それで桐矢くん、仕事ほっぽって会社飛び出して行っちゃったんだけど……まさか、今一緒にいるとか言わないよね?」
そのまさか、だ。
「うん、今私と一緒にいるけど?」
すべてを理解した綾乃がニヤリと笑うと、葵は大きなため息をついてうなだれた。
「そっか、じゃあ落ち着いたら会社に戻るように桐矢くんに伝えててもらえる?」
「うん、わかった。ありがとね、咲子!」
忍者のように抜き足差し足で立ち去ろうとする葵を、綾乃は背後から呼び止めた。
「……ちょい待ちっ! あんた……仕事中に何やってんのよっ!!」
そしてよくよく考えてみると、綾乃は一つの疑惑へとたどり着いたのだった。
「あんた……まさか、本当は私のこと助けに来たんじゃ……」
半信半疑のまま思いきって聞いてみた瞬間、全力でそれは途中で塞ぎ込まれてしまう。
「ち、違うっ! うるせぇっ! バカ!!」
「……はぁ?! なによ、バカって!!」
キバをむいて言い返しているうちに、葵の変化にようやく気がついた綾乃。
「……あーーっ! あんた、顔も耳も真っ赤になってるじゃん!! さては飲みに行ってたわね?! 仕事中に飲酒なんて、バカはあんたでしょっ?! ほら、さっさと仕事に戻りなさい!!」
どこまでも鈍い綾乃に対して葵は、そっと心の中でつぶやくのだ。
「(バカはお前だっつーの……)」
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