第3話 熱視線



 「お試し期間」はさらに続き、綾乃の休日は男たちとの健全なデートにのみ費やされていた。


 今日は、朝から森林緑地で自然派嗜好のイケメン「ネイチャーくん」とのデート中。


「はぁー……青い空に緑の木々、頬を撫でていく柔らかな風、そして心地良い小鳥のさえずり……。これこそが、自然の中で生きるってことなのねぇ」


 澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、レジャーシートの上で大の字で寝転がる綾乃のことを見下ろしていたネイチャーくんがそっと手を差し伸べる。


「綾乃さん……キミって本当に素晴らしいよ。この自然の美しさがわかるキミは、この世の誰よりも美しい」


 差し出された手を掴み、起き上がった綾乃の手を離すことなくネイチャーくんはまっすぐに見つめてくる。


「キミは本当に、僕の運命の女性だよ。……愛してしまいました」

 

「そ、そんな、嬉しいっ……!(ネイチャーくんは正統派のイケメンで、真面目で女慣れしてなさそうな所に惹かれちゃったのよね。この人となら、清く正しい恋愛ができるに違いないわっ!)」


 握っていた手を離すと、ネイチャーくんはカバンの中を探り始める。


「そんなキミにね、僕から贈り物があるんだ。これなんだけど……」


 そう言ってネイチャーくんが取り出したのは、一着の白いワンピースだった。


「まぁ……洋服?」


「100%天然由来のオーガニックコットンの生地で僕が作ったんだ。僕がいつも着てる服もね、すべてオーガニック素材で出来てるんだよ」


 徹底的に選び抜かれた素材で手作りされたそのワンピースは、どう見ても細身の女性すら腰を通すこともできそうにはない代物だった……。


「あ、ありがとうっ……ネイチャーくん!」


 苦笑いを浮かべながらワンピースを大事に仕舞うと、ネイチャーくんはもう一つのカバンを探り始めた。


「それと、今日のお昼なんだけど……僕がお弁当を用意してきたんだ。さぁ、一緒に食べよう」


 カバンから取り出したお弁当箱の蓋がパカッと開かれ、その中には見ただけでわかるほど体に良さそうなオカズが所狭しと敷き詰められていた。


「わぁ、すごい! このお弁当、すっごくおいしそう!」


 綾乃がついついお弁当の中身に目を奪われていると、ネイチャーくんはお弁当について誇らしげに説明し始めた。


「肉、野菜、米はもちろん、使った調味料もすべてオーガニックなんだよ」


「へ、へぇ……」


「どうぞ、食べてみて?」


 ネイチャーくんに促されてハンバーグを一口食べてみると、シンプルで優しい味わいが口の中に広がった。


「……うん! このハンバーグ、すっごくおいしい!!」


 そして、お弁当に感動しているだけの綾乃のそばで、ネイチャーくんはまたまた真面目に解説し始めるのだ。


「おいしいでしょ? 自然飼育の肉と卵、すべて農家で採れたばかりなんだ」


「(も、物凄いこだわりっぷりね……さすがは自然派嗜好を謳うだけはあるわ)」


 綾乃もマジメに納得したところで、ネイチャーくんの解説はどんどん違う方向へと深掘りされていく……。


「本来、僕たち人間という生き物だって自然の中を生きていた野生動物なんだよ。そもそも、人間の起源は猿人えんじんから始まり……ホモサピエンスが、どーたらこーたら……うんたらかんたら」


 どんどんと脱線していく自然についての熱い語りは、ついには綾乃にとって聞くに堪えないものへと変わっていく。


「(やば……この手の話を熱く語る感じ……しんど)」


 そんな綾乃の方には見向きもせず、ネイチャーくんは激しい身振り手振りで熱弁し始めた。


「だからね、現代社会において今こそ! 自然派嗜好は人間にとって何よりも必要なことなんだ。そういう観点から見るとね、自然体のままの人間の美しさがより強調され──」


「ガハァーーッ!」


 ネイチャーくんの熱い語りを遮った轟音の正体は……綾乃の盛大なゲップだった。


「あ、綾乃さん……今、ゲップした……?」


 突然の出来事に頭が追いつかず、ピクリとも動かないネイチャーくんは真顔で言葉を失った。


「……ゲフゥ! あら、ごめんなさいねっ? このお弁当がおいしすぎて、つい……アッ──」


 体を一瞬震わせた綾乃のお尻のあたりから、今度は「ぷうぅぅぅ……っ」と空気を絞り出すような音が鳴り響き、辺りは静寂に包まれた。


「……!!」


 話すことを忘れ、目を見開き、顔面蒼白となったネイチャーくんに綾乃は恥ずかしそうにペロッと舌を出してはにかんだ。


「やぁだー私ったらぁ! 自然の中でリラックスしすぎちゃってオナラまで出ちゃうなんて……。あ……でも、人間は自然体のままが一番美しいんだっけ?」


 唇に人差し指を当てて、空中を見上げてしばらく考えると、綾乃はニコッと満面の笑みを浮かべた。


「……なら、問題ないわよねっ?」


「………。」


 それ以来、ネイチャーくんからの連絡が来ることは……なかった。




 ——翌日、会社の談話室。


 そこには、いじける綾乃とお腹をかかえて笑い転げる咲子がいた。


「あーはっはっはっはっは!! あー! お腹痛いっ……! こんなに笑ったの久しぶりだわ!!」


 涙目で机をバンバン叩く咲子とは違い、綾乃は至って真面目に落ち込んでいた。


「ちょっと、笑い事じゃないんだからね、咲子! ネイチャーくん、けっこうお気に入りだったのに……自然体のままの美しい私を受け入れてくれると思ったのに……っ」


 爆笑による腹筋の痙攣がおさまってきた咲子が、涙を拭う。


「いやいや、だからってさすがに男子の目の前でゲップとオナラはヤバイってぇ……!」


 そう言いながら、せっかくおさまった笑いがまたお腹の底から湧き上がってくる咲子。


「ええー? だったら、最初から自然派気取りなんてしなきゃいいんじゃん!」


「それとこれとは別なんでしょー」


「そんなの、ただのワガママよっ!」


 そう吐き捨てて、つまらなさそうに席を立ち上がる。


「あーあ、気分転換に売店でも行かない? 咲子」


 財布を手にして咲子を誘うが、咲子は室内の壁掛け時計を見上げて「あ……ごめん、私もうそろそろオフィスに戻んなきゃなんだよね!」と、両手を合わせた。

 どうやらひと足先にブレイクタイムが終わってしまうようだ。


「あ、そっか……じゃ、私一人で行ってくるね」


 結局一人で売店に向かうことになった綾乃は、トボトボと社内の廊下を歩きだす。

 そして、『本気で好きな人相手なら、無茶振りなんてしないくせに』という、咲子の言葉を一人思い出していた。


「(本気で好きな人……か)」


 ふ、と売店へ向かう道を少し進んだ先の廊下に人だかりができているのに気が付き、歩みを止める。

 そこは写真スタジオの扉だった。


「(あれって、カタログとかパンフレットに使う写真のモデルさんとかが撮影してる部屋だよね? あの女ばっかりの人だかりって、もしかして……)」


 興味本位で人混みの隙間から部屋の中を覗いてみると、そこでモデルとして撮影中の、思った通りの人物の姿が目に入る。


「いいね、桐矢くん! その化粧水のボトルにキスしてみて?」


 カメラマンからの指示内容を考えると、どうやら男性向け化粧品のカタログ雑誌のモデル役をしているようだ。

 遠巻きに一瞬葵の姿を垣間見ただけのつもりが、なんとなく目が離せなくなっていく。


 被写体となっている時の葵の表情はコロコロと変わり、今まで見たこともなかったような彼が、そこにはいた。


 ——まるで一般人とは思えないほどの、溢れんばかりの美貌。

 撮影用にヘアメイクを施したその艶美な顔はもちろん、無地の白いワイシャツを着ているだけなのに物凄い存在感だ。人を惹きつける、得体の知れない魔力を秘めているとさえ思える。


 知らず知らずのうちに、綾乃の胸の鼓動は速くなっていた。


「(アイツ……ほんと、顔だけは良いのよねぇ。性格は超イヤミで上から目線で、猫かぶってるだけの性悪男なのに……。でもまぁ、ありゃーモテるのもわかっちゃうから腹立つなぁ)」


 ボーッと眺めているうちに撮影は終了し、カメラマンと葵が片付けながら会話し始めた。


「お疲れ、桐矢くん! いやぁ、ほんっと桐矢くんってモデルの素質あるよねぇ! いっそのこと、モデルに転身したら?」


「いやいや、あくまで本業はデザイナーですから。でも……こうしてたまに撮影なんてのも楽しいんで、いい気分転換にさせてもらってます」


 「終わったことだしそろそろ行こう」……そう意識を切り替えようとしたその時、思いがけず葵と視線がぶつかり合った。

 女性ばかりの野次馬の中、綾乃だけを見つけたかのように、一直線に——。


「……!!」


 途端に早鐘を打ち始める心臓。

 それが焦りとはまた違うものだと一瞬理解してしまいそうになるが、無意識に綾乃は目をそらした。

 そして、写真スタジオの前を通り過ぎて廊下を歩き、本来の目的地とは違う方向へと進み始める。


「(ビックリした……いきなりコッチ向くんだもん。どうせ、野次馬の女子ばっか見て自惚れてただけなんだろうけど!)」


 ……なんて、皮肉を込めてズカズカと廊下を突き進んでいると、背後から足音が迫ってくるのに気がついた。


「き、桐矢? どしたの、あんた……」


 軽く息を切らしながら追いかけてきた葵の姿を見るや否や、キョトンとする綾乃。

 葵はちょっと嬉しそうにその顔を覗き込んだ。


「いや、お前が俺の撮影見に来るなんて、どういう風の吹き回しなのかなぁと思って!」


「ち、違うわよっ! 売店に行く途中で人だかりを見つけたから……ちょっと覗いてみただけだし!」


 ぶっきらぼうにそう答えると、葵はつまらなさそうに頭の後ろで両手を組み、宙を見上げた。


「なーんだ、見に来たわけじゃなかったんだ」


「な、なんでちょっと残念そうなのよっ?」


 しばしの沈黙の後、話題を変えたのは葵の方だった。


「お前、例のネイチャーくんとはどうなの? ……デートだったんだろ?」


「……えっ? あぁ……そ、そりゃあもう、大自然の中で壮大な愛を捧げられちゃって大変だったのよねぇ! (捧げたのは私の壮大なゲップとオナラだけど)」


 壁にもたれかかり、腕を組んだ葵からは更なる追求が続く。


「……で? 付き合ったとか?」


 ギクッとした綾乃が気まずそうに言葉に詰まると、葵はプッと吹き出すのだった。


「なに? お前もしかして……フラれたとか?」


「ち、違うもん!! 自然派の彼を試してみた結果、自然体のままの私の姿を受け入れてもらえなかっただけなんだからっ!!」


 そんな意味不明な言い訳に、葵は首を傾げるばかり。


「なんだそれ……どういうこと? 自然体って。……そいつと寝たの?」


 それを聞いた綾乃はまたいつもの調子を取り戻して腰に手を当て、仁王立ちになり……


「ふふふ、バカねぇ……私はね、キープ君とは絶対にエッチはしない主義なのっ! よっぽどイイ男でもない限りはねっ!」


「……あっそ」


 自信満々に断言する綾乃のことを、冷めた目で見つめる葵。


「私が男にカラダを許す時はね、お試し期間が終わった後のデザートタイムなんだから! あんただって、甘いデザートは最後の最後まで取っておきたいでしょ?」


 小さく頷き、葵は目を泳がせて耳の裏を指で触りながら答える。


「んまぁ、確かに。でもさ……イイ男はもっと可愛げのある女をデザートにしたいと思うけどなー」


 ニコニコしたその表情とは裏腹な皮肉っぷりに激昂しそうになったその時、廊下の曲がり角の向こうから聞こえてきた声に綾乃はピタッとその動きを止めた。


「桐矢くんったら、どこに行っちゃったのかしらっ! せっかくアタクシが撮影見に来たっていうのに……まったく! 今日こそは隠し撮りしようと思ってたのにネッ!」


 その声の主は綾乃と同じ営業部に所属する、大坪寧々おおつぼねねだ。

 その名前と存在の意味も兼ねて周りからは「お局様つぼねさま」と呼ばれ、警戒されている。

 葵のファン歴は葵が入社してきた当初からのものであり、40歳の本人が「葵のために独身と処女を貫いている」と公言しているほどの熱狂的ファンなのだ。

 そこそこの美人だが、その性格が災いとなって恋人すらできないのが見て取れる。


「ま、まずいっ、お局様がこっちに来る……!」


 曲がり角の向こうから近づくその足音に恐れをなし、キョロキョロと辺りを見回す葵。

 そして近くの扉を見つけると、綾乃の腕を掴み取って一目散にそこへと駆け込んだ。


「えっ、ちょ……何すんのっ?!」


 葵に引っ張られるまま逃げ込んだそこは薄暗くて狭い、備品室。


 使わなくなった机やイス、そして事務用品などがひしめく室内には入り込める場所もなく、ただただ綾乃は葵に追い詰められた壁際に立たされるのみだった。


「ね、ねぇ……ちょっと桐矢っ——」


「——しっ!」


 唇に人差し指を立てて、葵は扉のすりガラスの向こうを横目で見つめ続ける。

 だがしかし、そのお互いの距離があまりにも近すぎて……。


「(な、なんなのこの状況……。近すぎて、髪が私の顔にかかりそうなんだけど。そ、それに……コイツ、なんでこんなイイ匂いとかしちゃってんの?)」


 ——鼻の奥をくすぐる、程よく甘い柑橘シトラスの香り。

 そして、近くで見れば見るほど目を奪われてしまいそうな綺麗な顔。

 その羨ましいくらいの美肌と長いまつ毛にさえ心奪われてしまう。


 今までこんなに彼を近くに感じたことはなかった。

 そう、いつでもからかい半分で意地悪なことばかり言っては面白がっている葵のことなんて。


 それなのに……


「(私……なんでこんなにドキドキしてるの……?!)」


 自分の意思に関係なく、胸の鼓動はどんどん大きくなっていく。

 この状況が整理できず、飲み込めるはずもないまま扉の外に響く足音はだんだん小さくなっていった。


「……ハァ、行ったみたいだ。あの人、最近なんだか俺に対してエスカレートしてきててちょっと困ってるんだよなぁ……」


 俯いてため息をついていた葵がふと顔を上げると、そこには真っ赤な顔で見上げる綾乃がいた。


「………あ。」


 誰もいない、暗くて狭い備品室に二人きり。

 そして、キスできてしまいそうなほどの至近距離の中まっすぐに目が合ってしまった二人。

 高鳴り続ける、胸の鼓動は大きくなる一方で鳴り止まない。

 二人の時間だけが止まったかのように繋がったお互いの視線からは、とても目が離せそうにはなかった——。

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