翌年、美莉花みりかは、こんの所属事務所であるシノハラアクアクリエイションJPNに就職した。シノハラアクアクリエイションJPNは元々アクアリウム用品を製造販売している零細企業の広報部門で、昨年、深海ふかみこんを会社の広告塔にしようと契約を結んだ。因みにJPNと謳っているものの、ENはなければ、英語対応できる人間も社内に一人しかいなかった。

 その一人というのがこんのマネージャーである近埜こんの秀明ひであきだ。


「へー。近埜こんのさんって大学院も出てるんですね。どうしてこの会社に入ったんですか?」

「そりゃあ本音を言うと、研究者になりたかったですよ。でも仕事がないのは困りますからね……。社長には感謝しています」


 いかにも仕事のできるサラリーマン風の優男である近埜こんのは、いつも爽やかな風を吹かせている。そんな彼に対して美莉花みりかは「こんな小さな会社じゃなかったらモテてたんだろうな」という感想を抱く。シノハラアクアクリエイションは元々社員が少なく、ガラス職人の男性職員が多い。そもそも広報部門は美莉花が入社するまで、彼一人と会社と契約した深海ふかみこんだけであった。

 優しく格好良い先輩である近埜こんの美莉花みりかの気持ちが浮つかなかった訳ではない。そんな時は、こんのことを思って気持ちを諫めた。


ゆう君、来週の撮影スケジュールできたから送るね」

「は、はいっ」


 美莉花みりかの前で縮こまっているゆうこそ、深海ふかみこんの中の人だった。

 本名は水上みずかみゆうゆうなんて名前であるが、人と目を合わせて話すのが苦手の臆病な青年だ。美莉花みりかは中の人に大海原の様な包容力を期待していたが、実際関わってみると悪い子ではないし、逆に守ってあげたいと思うようになっていた。そして、〝好きな人〟を全力で〝推して〟人気配信者にすることこそが自分の仕事なのだという気持ちが強くなった。

 入社から一ヶ月、美莉花みりか近埜こんのからこんのマネージャー業務を引き継ぎつつあった。


 美莉花みりかはマネージャーとして、動画編集として、VTuber深海ふかみこんのために尽力した。そのお陰か、美莉花みりかがファンとして配信を見ていた頃から、少しずつ動画再生数も配信の同時接続人数も増えていった。

 彼女の働きぶりに、篠原しのはら社長は美莉花と会うたびに「コンちゃんをよろしくね」と喜んだ。それに気を良くした彼女はより努力し、いつしか社長である篠原の心を動かしていた。


「葉山さん、音声ファイルと動画が合わなくなっちゃったんだけど……」

「ああ、それはですね――」


 深海ふかみこんを会社の一大事業だからと、篠原しのはらは社長であるにも関わらず動画制作や配信を手伝うようになった。シノハラアクアクリエイションJPNに、一体感が生まれていた。



 *   *



 その後、仕事にも慣れ新社会人として無事にゴールデンウィークの出社もこなした美莉花みりかは、動画編集中に微妙な違和感に襲われた。こんの声が、いつもと違う気がしたのだ。

 いつもの深海ふかみこんの声は、音声加工も相まって静かな深海に漂う誘うような穏やかな声だが、その日はどこか固かった。


近埜こんのさん、今日、撮影部屋に入ってましたよね? ゆう君、調子悪かったんですか?」

「えっ? ゆう君? そんなことないと思いますけど……どうして?」

「いや、いつもと声の雰囲気が違うような気がして……」

「やっぱり、葉山はやまさんくらいのコアファンだとわかっちゃいますね。なるべくいつも通りに聞こえる様に数値弄ったんですけど……。データが使い物にならなさそうだったら撮り直しますよ」

「あ、大丈夫です! これからって時に無理はさせられませんから!」

「良かった。ありがとうございます」


 近埜こんのゆうのことを案じていると感じ、美莉花みりかの不安は解れる。彼は美莉花みりかがマネージャー業務を完全に引き継いだ後も、深海ふかみこんに携わるという。美莉花みりかにとっては彼もまた、こんを推す同士だった。


「よしっ。私も頑張らなくっちゃ!」


 気合いを入れ直した美莉花みりかは、パソコンに向かって動画編集に取り掛かる。こうして周囲の人と協力して一丸となって目標に取り組むことに充実感を覚えていた。




 その日、終業時間に合わせて動画編集を終えた美莉花みりかは、椅子に座ったまま大きくノビをした。そこにおどおどした顔でゆうがやってくる。


葉山はやまさん、お疲れ様です」

「お疲れ様。ゆう君、まだ事務所に残ってたんだ」

「少し葉山はやまさんと話したくて……」


 入社から今まで目を合わせないまま話をしていたゆうが、俯きがちに美莉花みりかを見る。


「遠慮しないで何でも話してくれて良いよ。私、お姉さんだから」

「えっ? あ、弟とか妹、いるんですか?」

「そうじゃなくて! 私の方がゆう君より年上なんだから、遠慮せず頼ってくれて良いって話! もしかして、近埜こんのさんがマネージャーの方が良かったとか言うの?」


 美莉花みりかがムッとした表情を作ると、ゆうは慌てふためいて、俯きながら謝罪する。それを見て冗談だと美莉花みりかが笑いながら謝り返すと、ゆうはそのまま黙り込んでしまった。


ゆう君? ご、ごめんね?」


 本当に弟がいたら、こんな感じになっていたのだろうか? 美莉花みりかは苦し紛れに、デスクに置いていた個包装のチョコレートを差し出す。


「これ、あげるから……」

「…………」

「……ごめんなさい。でも、私、コンちゃんの――ううん、ゆう君のために頑張るから!」


 力強い言葉に、弾かれたように顔を上げるゆう。その表情は今にも泣き出しそうに歪んでいる。こういう時にどうしたら良いかわからず、美莉花みりかはとりあえずティッシュを箱ごと差し出す。ゆうはそれを受け取りはしなかったが、心の内を少しずつ吐き出した。


「あの、葉山はやまさんは、こんが変わる話知ってますか?」

「変わる?」

「新生・深海ふかみこんだって、葉山はやまさんが来る前から近埜こんのさんと社長で計画してて……もう少しで絵師から新しいアバターのデータが届くって……」

「えっ!? そうなの!?」


 深海ふかみこんのアバターが変わることを知らなかった美莉花みりかは、ゆうの話を聞いて驚いた。それと同時に嬉しくなった。会社は深海ふかみこんのことを、本気で推そうとしているのだとわかったからだ。


「そっかぁ……今のゆう君が描いたのも可愛いけど、ちゃんとイラストレーターに発注したものだったら凄いんだろうなぁ」

「めちゃくちゃ動くって……」

「楽しみだなぁ」


 新生・深海ふかみこんに思いを馳せて美莉花みりかは緩む頬を隠しきれない。


「その……葉山はやまさん、楽しみですか?」

「もちろん!」

「……自分のこと、会社に入る前から推しててくれたんですよね? 変わっても、良いんですか?」

「良いに決まってるよ! 私はこれからも深海ふかみこん推しだから!」

「……そう、ですか」


 その言葉で話を切ったゆうは、いそいそと帰り支度を始める。まだどことなく暗い雰囲気だが、自分が支えてあげれば大丈夫だと美莉花みりかは思っていた。

 人間は変わるもの、だから深海ふかみこんも臆せずとも良い。ゆうは心配性な所があるから、今までのフォロワーが離れてしまったりしないかというのを心配しているのだろう。美莉花みりかはその不安感を拭う為に、力強く言う。


「私は、楽しそうにゲームしたりお喋りしてるコンちゃんなら良いよ」


 これはマネージャーというより、推す側の人間としての言葉だった。その言葉にゆうは一瞬目を見開くと、逃げるように事務所を後にした。


「全く、ゆう君は恥ずかしがり屋だなぁ」


 美莉花みりかはクスッと笑って、自らも帰り支度を始める。窓の外はオレンジ色の夕空から、深い青へと変わりつつある。この夜空のように、深海ふかみこんはきっといつか世間を飲み込む。そう確信した。

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