ISANA

南木 憂

プロローグ

 深海では、くじらの骨の周囲で生物群集がみられるという。深海ふかみこんは、開けたようで閉塞的な海原を泳ぐ、一頭の鯨だった。

 鯨はあの日、あの一言で薄暗い海の底へ沈んだ。



 *   *



 アイドルと同様にVTuberは、どちらもファンとの距離感が生命線である。推される人間は推す人間の人生を彩り、推す人間は純粋に推される人間に情熱をかける。そう思いながらも、美莉花みりかは推し――深海ふかみこんに近付いた。


 葉山はやま美莉花みりかは、どこにでもいるような女子大生だった。キャンパス内では特に目立つ訳でもなく、かといって孤独でもない。彼女は周囲と同じように流行りのメイクをして、周囲と同じようなファッションを好んでいた。

 ただ、髪だけは周囲と同じように染めないと決めていた。理由は単純なもので、彼女の〝推し〟が「黒髪の女性が好き」と発言したからだ。


 美莉花みりかが〝好きな人〟を〝推し〟と呼ぶのは、その人が手の届かない場所にいるから。彼女は今日もスマートフォンいっぱいに映る彼を熱っぽく見つめた。


「コンさんだけが私の癒やしだよ……」


 コンさん――深海ふかみこんは、イラストをアバターに設定して動画投稿や配信を行っているいわゆるVTuberだ。美莉花みりかがいくつか海の動画を見ていた時におすすめされてきたこんは、イラストが少し動くだけの、いかにも低予算な個人VTuberだった。

 海の生き物が好きだというこんはクジラを模した帽子を被り、深海生物の解説動画を多く投稿していた。今では配信や動画制作にも慣れたのか、ゲーム実況や質問動画も上げている。


『皆さんこんばんは、深海ふかみこんです。今回はこのゲームをプレイしたいと思います』


 ボイスチェンジャーによって少しだけ加工された声は、彼の穏やかな口調も相まってスッと美莉花みりかの胸に染み込んだ。就職活動に疲れていた当時の彼女は、他のキラキラして熱量のある配信者に疲れていた。こんの優しい語りは優しく、深く深く、海底世界へと誘うようだった。

 美莉花みりかはそれに魅せられ、彼への興味は、いつしか中の人への好意に変わっていた。


「コンさんって、リアルはどんな人なんだろう……」


 美莉花みりかは深海探索をするように、こんの〝中の人〟を探ろうとSNSを遡ったが、結果は芳しくなかった。海中から語りかけているかのように加工された声と動くイラスト。美莉花みりかはその奥にある真実の声、その素顔が知りたくてたまらなかった。



 *   *



 ある日、一本の動画が上がった。

 タイトルは『【重大発表】事務所に所属することになりました🐳』というシンプルなもの。【重大発表】と銘打っていざ動画を再生してみると、大したことではなかったということは良くある。そういうことをしないこんの真面目さ、不器用さも、美莉花みりかの好感度を押し上げた。


「コンさん、おめでとうございます」


 一番にコメントを残せば、いつものように、その日のうちに返信がきた。その返信にいいねを押して、美莉花みりかは夢見心地で瞼を下ろす。

 そして、思いついてしまう――彼の事務所に就職すれば良いのだと。周囲が就活を始めてからというもの言葉にできない焦りがあったが、その日から将来への不安は希望へと変わった。

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