act.29
「予想はしていたが、思った以上に状況は悪いようだ」
下町の路地に隠れながら、アイスは杖に語りかけた。その声には若干の疲れがにじんでいた。
『私も話がエルドナに飛び火しているとは思っていなかったからな、対応が後手に回った』
杖からの返答の方も心なしか重い。
「とにかく、姿の方もあって、ここではリュシドー以上に慎重に動かないとならないからな。行方不明事件のせいで身動きが取りづらいのが痛い」
野宿もいとわず馬をとばし、ザイン達に一日先がけて王都に入ったアイスだったが、表だって動けない身であるため、情報を集めるだけで一日を消費してしまっていた。
『一応今晩には、黄昏の友のほうに話が通るはずだ。それで昨夜のようなことは避けられるだろう。なんにしろ動くのはそれからだな』
黄昏の友というのは王都の後ろ暗い方面を仕切っている組織だ。昨晩は密偵と誤解され、しばし追われる羽目になったのだった。
「ああ。こんなことは言いたくないが、今ほど元の姿だったらと思ったことはないな。なんと言っても、ここは私のホームグラウンドのようなものだからな。だが心配はするな。さすがに今の姿では動きづらいが、夜まで隠れて行動するくらいならどうとでもなる」
『そういう点では心配はしていないよ。ただ相手の正体も、何をたくらんでいるのかも判らないのがな』
そこまで話すと、杖からの声は急に小さくなった。
『そろそろ遠話の限界のようだな。とにかく無理はするな。こっちが追っているのが知られたら相手は必ず隠れる。それでは元も子もないからな』
「わかった、緊急事態がなければまた明日連絡する」
アイスはそう答えると、杖の先端の円盤をはじいた。『チン』と澄んだ音が響き、遠話は終了した。
そしてフードをことさらに目深にし、独り言のようにつぶやいた。
「おそらく、行方不明事件も追っている相手の仕業だろうな。返す返すもリュシドーでこのことがわかっていれば……。だが悔やんでばかりもいられない、次の事件が起きるのだけは避けないといけない」
日が落ち、町の入り口が閉じられるころ、アイスは次の潜伏場所に移動した。
「さて、お嬢様もおしまい。ジャニスに切り替えないといけないわね」
貴族のドレスに着替えたジャニスが、伸びをしつつ思わずそうこぼした。
王都にあるリュシドー伯の別邸。どうにか閉門に間に合ったジャニス一行は、旅装を解き、あわただしく食事を取ると、滞在の準備にかかっていた。
そんな中、気を抜くことができない人物がいた。もちろんお目付け役ことディノンであった。
旅装は解いたが、いつもの門衛のお仕着せを着るわけにはいかないので、私服姿である。革の上下に編み上げ靴というごく普通の格好なのだが、これが実に目立たないのだった。
実際、忙しげに立ち働くミルフェは、ジャニスの部屋の見える位置で静かに見張っているディノンに一瞬気づかず通り過ぎようとして、あわてて振り返ると感心したようにこぼした。
「その目立たなさも一種の才能だと思うわ。門衛としてはどうかと思うけど。密偵とかになった方が適職かもね。でも変よね、子供の頃はそんなに目立たないと思ってなかったのに。むしろ目についた覚えもあるわ」
ディノンは苦笑しつつ、
「まあ、あれだけ悪目立ちする2人といつもくっついていたんだから、目立っても当たり前って気もするんですけどね」
と答えた。
「それじゃ見張りしっかりね」
そう言い残しミルフェが去っていったしばらく後、室内ではジャニスが首をひねっていた。
「どう見ても魔法薬が入っているように見えないわね、これ。ていうか、持ってくる気は無かったのに何で持ってきちゃったんだろ」
屋敷に着くまでは全く気にもしなかった荷物がこの場所にあった。
例の秘密袋の中から、必要な物をより分けて部屋に持ち込んだつもりだったジャニスは、使わないはずの魔法薬の包みを持ってきたことに気づき、開けなければいけないという強制力のようなものを感じつつ梱包を解いてみていた。
中から出てきたのは天鵞絨で表装された小箱だった。宝石商がサンプルを持ち歩くときの箱、と言うのが近い感じがした。
「そう言えばザインは変な荷物だって言ってたわよね。魔法薬と勘違いしたのは私だったっけ」
そうつぶやくと、人目をはばかるように周囲を見回しそっと箱のふたを開けるジャニス。意識の外から強制力のようなものを受けていることに本人も気づかなかった。
「なにかしら、……銀の十字?」
その瞬間、ジャニスの意識は暗転した。
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