A五サイズの黒く薄い端末にボタンはどこにもなく、のっぺりとしていた。
表面に触れてみる。ポォンと軽い音が鳴り、画面が明るく表示された。
「……電子辞書だ」
和英、英和のほかに、アラビア語、ヒンドゥー語、スペイン語、中国語が入っている。
裏を見ると商品ラベルが貼られており、樫尾計算器株式会社と記されていた。その下の製造年月日を見やり――美月は息を飲んだ。
恭恵十二年製。
(恭恵――これは年号?)
今は令和なはずだ。
弾かれたように顔を上げた。勉強机の前に提げてあったはずのカレンダーはなく、白い壁が広がっている。
美月は再び製造年月日表記に目を落とした。
恭恵――きょうえ、と読むのだろうか。
震える手でタブレット端末をもとの場所に仕舞い、そっと
どくどくと心音が耳に聞こえるほど大きく鳴っている。
(……きっと手の込んだ悪ふざけなんだわ。でも何のために? そして誰が……)
ふと勉強机の横のカラーボックスが目に入り、ぎくりと身じろぎした。
上段に並べてあるはずの教科書や参考書、ノートやファイルがなくなっている。かわりに、女子が好みそうなファッションやブランド雑貨の雑誌が並んでいた。
中段にはシリーズものの文庫本がぎっしりと詰めこまれている。『沈む都』――背表紙のタイトルは見たことも聞いたこともないものだった。
他はあからさまに似せているというのに、なぜ本棚の取り揃えだけ明確に違っているのか。
(……もっと探せば他にも違っているところがあるかもしれない)
きっとそれが、この状況を理解するヒントになる――。
美月はごくりと唾を飲み込むと、意を決したようにあたりをきょろきょろと見回した。
何かをしていなければ、無限に浮かぶ恐ろしい想像に押し潰されてしまいそうだった。
天井や壁には何もなかった。
もともとポスターや写真などをべたべた貼ったり飾ったりするのは好まないたちだったが、唯一、カレンダーだけは勉強机の前の壁に下げていた。予定を書き込める大きめのものだ。毎日のように見ていたところがぽっかりとした白い空間になっているのが、うそ寒く思える。
そういえば掛け時計もない。木目調のシンプルなデザインの――気に入っていたのに。
美月はデスクチェアをどけてみた。しゃがみこんで勉強机の下を覗き込み――ハッと息をのんだ。壁しかないはずのそこには、鉄格子が嵌まった四角い穴が空いていた。
(通気口?)
格子の奥に目を凝らしてみるが、暗くて何も見えない。だが微かに空気が通っているようだ。
美月は確信した。驚くほどそっくりに真似てあるが、やはりここは自分の部屋ではない。
試しに鉄格子を揺すってみたが、びくともしなかった。ここから出ることはできそうにない。
あきらめて勉強机の下から這い出ると、今度はクローゼットの前に立った。ここには季節外の服や、一年生の時に使った教科書が詰め込んであるはずである。
観音扉を引き開け、ぎょっとした。服がぎっしりと下がってさがっていたのだ。しかも見たことのない――美月の趣味でないひらひらしたワンピースばかりである。
(……これは、誰の……)
恐る恐る裾をつまんでみた。厚く滑らかな、いかにも上質の生地の手触りに震える。
この服のテイストは――この事態を仕組んだ犯人の趣味だ。
この
(わたし、誘拐されたんだろうか)
具合が悪かったのも記憶が曖昧なのも、連れ去るために変な薬でも飲まされたからじゃないだろうか。
(でも何の目的で? それに、誘拐でこんな手の込んだことをするかしら。そもそもうちはお金持ちじゃない。お父さんは普通の会社員で、お母さんは専業主婦だし。弟の
身代金目的でないなら、
(……監禁するために誘拐された?)
女子の連れ去り事件など、たまにニュースで見るではないか。この不気味なほどに似せている部屋からも、犯人の異常な偏執さをひしひしと感じる。
美月は思わず両肩を抱いた。足元から恐怖がたちのぼってくる。
ちらと目をあげるとワンピースの透けたレース生地が目に入り、美月は小さく悲鳴をあげてクローゼットをバタンと閉めた。
小走りでベッドに駆け寄ると、毛布をかぶって身を縮めた。
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