第一章 目覚め

1

 

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……

(――何の音だろう)

 目覚まし時計の音だ――美月みつきはぼんやりとした頭で思った。

(……もう、朝なの?)

 まだ寝ていたいのに。いくら寝ても寝足りない感じだ。

 美月は枕に顔を埋めたまま目覚まし時計に手を伸ばし、アラームをとめた。

 のろりと枕から顔を上げた瞬間、頭を引絞られるかのような頭痛と吐き気に襲われた。

「……う……」

 思わず口に手を当てて、歯を食いしばる。脳味噌をかき混ぜられたようなつらさだった。

(どうしよう。吐いちゃうかも……)

 さすがにベッドの上で嘔吐はまずい。床に足をおろし、顔を上げたところで――はっと目を見開いた。

(ここはどこ)

 室内を見渡した。白い壁。モスグリーンのノルディック柄のカーテン。木目調の勉強机と造り付けのクローゼット。何の変哲もない自分の部屋だった。なのに、なんだか違和感があるのだ。

 奇妙な感覚に首をひねりながら、目覚まし時計に目をやり、一気に目が覚めた。

 デジタル表示は午前十時を示していた。始業の時刻はとっくに過ぎている。

「お母さん、なんで起こしてくれなかったの!」

 掠れた声が飛び出し、美月は軽く咳き込んだ。

「やっぱり風邪かな……」

 母が体調の悪そうな美月に気を利かして、わざと起こさないでくれたのかもしれない。ならば高校にはすでに休みの連絡が行っているはずだ。

(……水……)

 頭がはっきりしてくるとともに、頭痛と吐き気は治まっていった。そのかわり、ひりつくような喉の渇きを覚えた。内臓に砂かなにかが詰まっているかのようだった。

階下したに行って、お母さんに薬をもらおう……)

 おぼつかない足取りで立ち上がる。ベッド脇の全身鏡に映った自分の姿を見て、ぎょっとした。

(セーラー服のまま、寝ていた?)

 帰ってきて、ちょっと横になるつもりでそのまま寝てしまったのだろうか。いや、美月は高校から帰るとすぐに部屋着に着替える。制服がしわになるのが嫌なのだ。

 本当にものすごく具合が悪くて、下校したあとにベッドに倒れ込んでしまったのかもしれない。美月は昨日の自分の行動を思い出そうとした。

(学校から帰ってきて、それから……)

 美月は息を飲んだ。――思い出せない。そもそも昨日、高校に行っただろうか?

(今日は何日? 何曜日? 陸上部の練習は……)

 記憶をひねり出そうとする。思い浮かぶのは、授業中と思われる教室のシーンや一緒のトラックを走っている選手の背中のゼッケン、駅の改札機などすべて断片的なもので、しかも時系列はさっぱり不明だった。

 思わず愕然と立ちすむ。

 記憶が欠けている。まるでパズルのピースをバラバラにしたかのように。

 身の毛のよだつような、ぞわぞわとした焦燥感が足元から全身に染み渡っていった。

(お――お母さん。お母さんのところに行こう……!)

 母は一階のキッチンかリビングにいるはず。それはちゃんと

 美月はドアに駆け寄り、すがるようにドアレバーをつかんだ。

 だがドアは開かなかった。――部屋に鍵なんて、そんなものついていなかったはずだ。しかも鍵はかけられているのだ。

「……閉じ込められたんだ」

 呟いた途端、えもいえぬ恐怖が身を襲った。冷たい汗が背を伝う。

(何のために? そして誰に?)

 何も分からなかった。

 だが、自分の身に何かが起こっているのは確かだった。

 あらためて周囲を見渡す。一見、何の変哲も無い自分の部屋に見えた。しかし、目覚めてすぐに覚えた違和感は今となっては気のせいとは思えなかった。

 壁紙の色、カーテンや布団カバーの柄のパターン。ぱっと目に付くような違いはないように思えた。けれど何かが微妙にずれている気がする。

 恐る恐る、勉強机の抽斗ひきだしを開けてみた。

 文房具が並んでいる。仕切りのいちばん右側にはシャープペンやボールペン、マーカーペン、その隣には定規やカッター、手前の小さい仕切りスペースには消しゴムや付箋。その奥にはメモ帳や単語帳。

 それらは美月の記憶のとおりの場所にあった。――だが、それらは美月の持ち物ではなかった。すべて見たことがないものなのである。

 ぞっとした。まったく同じようにしたかったのだが揃えられずにできなかった――そこにはたしかに何者かの意図が感じられた。

 震える手でシャープペンをつまんでみる。三菱、と馴染んだ文具メーカーの商標が刻印されていて、なぜか救われたような気がした。消しゴムにはトンボと記されている。――そこでふと違和感を覚えた。

の商標はローマ字表記じゃなかったかしら。――そういえば、もローマ字だった気がする)

 カッターを手に取った。ラベルにはと記されていた。

(これは――文房具メーカーのコクヨのこと?)

 赤ボールペンや蛍光ペンには株式会社並木製作所と聞いたことのない社名が印刷されていた。

 えもいわれぬ不安が込み上げ、カッターをぱっと手離すように引き出しの中に戻した。

 恐る恐る二段目の引き出しを引く。

 布製のポーチと櫛、手鏡が行儀よく並んでいた。美月は、自分のものとは柄も形も微妙に違う布ポーチを手に取った。

 震える指でファスナーを引っ張る。中には髪ゴム、リップやハンドクリームなど、常備していたものが入っていた。だが、やはりすべて美月の持っていたものではない。

 ポーチを抽斗ひきだしに戻そうとしたとき、奥に黒いものが見えた。

 鏡をどけて、引っ張り出してみる。

 タブレット端末だった。

 この部屋で初めてを発見して、美月は息を飲んだ。

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