第7話

「尾上さん、大丈夫?」

 僕は尾上さんのそばにしゃがみ込む。尾上さんの傷はすでにふさがりかけていた。だけど傷を治すのに体力を消耗しすぎたのだろう。尾上さんは怖さのかけらもないような弱々しい顔で、僕を見上げていた。

 そっと、僕の頬に手がかけられた。僕はその手を優しく握ってやる。

「平井くん……なんだよね?」

「そうだよ。これが僕。本当の僕だ。黙っていてごめん」


 そう。僕は魔狼ワーグの父と人間の母との間に生まれた、本物の幻想種フリークス人狼ウェアウルフ。その最後の一人だ。


 世界にまだ「魔力」なる力が満ちていた頃、世界は魔の眷属のものだった。人類とは魔物に隷属するしかない、無力な存在でしかなかった。

 だけど、決まってそういうのは永遠には続かない。世に満ち満ちていた魔力は、気づいたときには枯渇しかけており、それに頼り切った文明を築き上げていた魔族たちに大打撃を与えたのだった。

 その結果、魔族と人類の力関係は一気に逆転した。魔族は人に追われ狩られる存在となってしまった。そしてそれは、最後の魔狼である父さんと、その妻である母さんも例外ではなかった。

 魔族狩人ハンターたちに追い詰められた父さんと母さんは、まだ生まれたばかりの僕の命を守るため、そいつらとある取引をしたそうだ。

 僕の人狼としての力を全て封印したうえで、遠い異国で人間として生きていかせる。力は決して使わせない。だからそうしている間は、決して手を出してくれるな。そんな取引だったそうだ。

 細かいことはわからないが、結局狩人たちはその提案を飲んだ。父さんは僕の力を封じ、母さんと一緒にこの国へ――日本へと向かわせた。だけど、相手を完全には信じられなかったんだろう。いざというときのために、力の封印を解くための手段――「魔法の呪文」を用意しておいたというわけだ。

 僕はそんな感じのことを、尾上さんに話して聞かせた。

 尾上さんは静かに聞いてくれていたが、不意に不安げな表情になった。

「ねえ平井くん、その、封印だっけ? それを解いちゃったんだよね?」

「うん、解いちゃった。母さんからずっと言い聞かされてきた『大切な決まり』だったんだけどね」

「それって、解いちゃったら平井君はどうなるの……?」

「ああ……えっと、それは、その」

 そのときだ。

 突然地面から生えてきた魔法の鎖が、僕の手足を拘束した。くそ。思ったよりも早い。っていうか早すぎるだろ。僕のこと、監視でもしてたのか? いや、してたんだろうなクソったれ。

「平井くん!」

「尾上さん……あのね、もう最後だから、君に言っておきたいことがあるんだ」

「最後って? 最後って何!」

 僕を縛る鎖は、今度はゆっくりと地面の中へと潜り込んでいく。それに合わせて、僕の体もゆっくりと地面に沈み込み始める。

「平井くん! ねえ、ちょっと待って!」

「ごめんね、尾上さん。ご覧のとおり、魔族に戻った僕を連中は見逃さない。だからこれでお別れだ」

「お別れって……ねえ! 本当に待って! 待ってったら!」

 下半身、上半身、そして首まで地面に飲み込まれるその寸前、僕は尾上さんの顔を目に焼き付けようとした。尾上さんの怖い怖い、だけど素敵な顔を。

「僕はね、尾上さん。尾上さんのこと、絶対に忘れないから」

 とぷん。僕の全身は地面に飲み込まれ、僕の意識は失われた。



 それからは、こうだ。

 捕らえた僕の処遇をどうするか、魔族狩人ハンターたちの間ではひと悶着あったらしい。今すぐ殺せという過激派、研究に活用したいという学究派、完全に魔力を奪い取り、今度こそただの人間にしてしまえという去勢派などなど。

 それで結局、僕は彼らの「所有物」「装備品」となった。

 魔力の枯渇によりほぼ滅び去ってしまった魔の眷属たちだが、未だ生き延びている連中もいるらしい。

 魔力がほぼ枯渇し、逆に科学の力が地上を覆う現代の世界。にもかかわらず生き残った連中は、ほぼ例外なく強大な存在である。そんな相手に有効な手段とはなにか。

 そう、化け物には化け物をぶつければいい。


 以来十年以上もの間、僕は戦い続けた。

 世界中、ありとあらゆる地域で。極地の氷河で。熱砂の砂漠で。山で、海で、森で、洞窟で、ネオンサインの陰で。

 僕は戦った。獣の姿で。そしてその間、尾上さんのことを忘れることは決してなかった。




 中東。某国砂漠地帯。

 銀狼と化した僕は地竜アースドラゴンの喉元、そこの鱗を引っ剥がすと、むき出しとなった皮膚に腕を突き入れた。強酸性の血液がほとばしる。構わずえぐりこむ。地竜は2度3度痙攣するように体を震わせると、地響きを立てて地に倒れ込んだ。

 酸で焼かれた全身が癒えていく感触を味わいながら、僕は地竜の体に腰掛けた。ポケットをごそごそと漁り、目当てのものを取り出した。

 それは、小さな犬を形どったキーホルダー。

 手垢にまみれペイントもほぼ剥げ落ちているせいで、ぱっと見、犬だとはわからなくなってしまっているが。

 僕は目を閉じ、キーホルダーを握りしめる。そして一人の女の子を、その怖い怖い顔を思い浮かべる。

 あの日のクリスマス、渡せなかったプレゼントに向かって祈りを捧げるのが、ひと仕事終えたときの僕の習慣となっていた。

 尾上さん。怖い顔の尾上さん。

 そう言えば。僕は数年前に見た、とある日本のテレビ番組を思い出す(個人の自由などほとんどない生活をしている僕だが、さすがにテレビを見るぐらいの権利は持たされていた)。「海外で活躍する日本人」というテーマで、様々なジャンルのトップランナーが紹介されていた。その中に、なんと尾上さんがいたのだ。

 尾上さんはプロの写真家になっていた。主な被写体は野生動物。世界中を飛び回り、幻と呼ばれるような珍しい生き物を何度もカメラに収めることに成功しているらしい。

 高校生の頃に巻き込まれた、テロリストによる大量殺人事件(あの出来事はそんな風にされたらしかった)のトラウマを乗り越えて、世界中を飛び回る若きカリスマフォトグラファー。彼女はそんな風に紹介されていた。

 僕はテレビ画面を食い入るように見つめた。画面の中の彼女は記憶よりも大人びていたが、怖い怖い顔だけはあの頃のままだった(あとでスタジオのゲストから、顔の怖さをいじられていた)。

 番組が次の人物の紹介に移る。僕はテレビを消し、呆けたように真っ黒な画面を見つめつづけていた。



 僕は軽く首を振り、思考を今へと引き戻す。同時に大きなため息をついてしまう。 

 あの日、あんな形で別れて以来、彼女のことを考えなかった日などなかった。もっともっと話したかった。もっともっと一緒に笑いたかった。

 彼女も、僕を思って寂しがっているだろうか。それとも案外、新しい恋人と出会って幸せに暮らしていたりするのだろうか。そんなことを考えるたび、僕はなんとも言い難い気分に襲われる。

 っていうか。僕は時計に表示された日付を確認する。今日は12月25日――クリスマスじゃないか。やれやれ、せっかくの聖なる一日に、デートどころかでかいトカゲと取っ組み合いとはね。

 苦笑いしながら、目を前方にやった。

 

「……え?」

 目の前に広がるのは、果ての見えない一面の砂漠。その先、地平線に揺らめく蜃気楼。そのただ中に立つ、怖い怖い顔の女性。

 僕は目を強く閉じた。そして恐る恐る開いた。女性はまだそこに立っていた。

 と思ったら、こちらに向けて全力疾走を始めた。何台ものカメラを首と肩から下げ、それらをガチャガチャ揺らしながら、僕のほうへと真っ直ぐに、ただただ真っ直ぐに走ってくる。

 僕は立ち上がり、ふらついた足取りで歩き出す。走ってくる彼女に向かって、ただただ真っ直ぐに歩く。

 そんな、嘘だろ。信じられないよ。こんなことって。

 僕は両手を広げた。

 僕の胸の中に、尾上さんが飛び込んできた。そのまま、押し倒されるように後ろへ倒れ込む。

 尾上さんは僕を強く強く抱きしめながら、僕の胸、銀色の毛の中に顔をうずめていた。

「お、尾上さん」

 尾上さんは答えない。僕の毛に顔をうずめたまま黙っている。

「え、えーと。お、尾上さん……だよね?」

 尾上さんは答えない。

 やがて、深呼吸のような音が聞こえてくる。

 あ。あー。

 吸われているな、僕。

 そういや夢だったっけ、モフモフに顔を埋めて吸うのが。でもまさか、それを僕で叶えようとするとは。

「ねえ、尾上さん。くすぐったいよ」

「うるさい」

 ……なんとまあ。やっと答えてくれた第一声が「うるさい」だとは。

「うるさい、うるさい、うるさい。いいから黙って吸われていなさい」

「ええ……」

 尾上さんが顔を上げた。相変わらずの怖い顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

「十年以上も探したんだよ」

「うん」

「世界中、あちこち、隅から隅まで」

「うん」

 ふと、手に持っていた物の存在を思い出す。僕はそれを、彼女の目の前に差し出した。

「これって」

「あ。えーと、あのとき渡せなかったクリスマスプレゼントなんだ、これ。その、ごめん。ずっと自分で使ってたから、汚れて、色なんかも落ちちゃって。でも、ずっとずっと大切に持ってて、ずっとずっと君に渡したかったんだ……ずっと……ずっと……」

 途中から涙声になっていた。そのことに気づいて、僕は思わず笑ってしまった。

 尾上さんも笑った。ひとかけらも怖くない、最高の笑顔で。

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尾上月子は顔が怖い タイラダでん @tairadaden

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