第5話

「お、なんだか今日は気合入ってるじゃない。もしかしてデート?」

 クリスマス当日。母さんが、出かけようとする僕に声をかけてきた。

 僕はさり気なく「まあね」と返した……つもりだったが、あまりさり気なくなかったかもしれない。

 返事を聞いた母さんは目を丸くした。そしてポケットからハンカチを取り出すと、わざとらしく目元に当てる。

「お父さん……由秋が、由秋が……なんとクリスマスにデートですってよ……息子の成長、遠い国から喜んであげてください……」

 芝居がかった言い方に、僕は苦笑するしかなかった。

 僕の父親は、僕が物心ついたときにはすでにいなかった。写真も残っていないので、僕は父さんの顔すら知らない。

 幼い頃、父親について母さんに尋ねたら「遠い遠い国にいる」と答えが帰ってきた。それがどういう意味なのかは、今はさすがにわかっている。


 僕はもう一度、持ち物を確かめる。いちばん大事なもの、この日のために考えに考え抜いた、尾上さんへのクリスマスプレゼントもばっちりだ。

 父さん。僕に力を、勇気を貸してください。僕は今日こそ、やってやるつもりなんです。

 具体的に言うと、尾上さんと……手をつないで歩く! そして、できれば……そう、もしできるならば、尾上さんのことを「月子」と名前で呼んでみたい! 呼べるといいなあ。高望みかもしれないが、頑張るよ父さん!

「じゃあ母さん、行ってくるね」

「頑張ってね由秋! あ、そうそう」

 母さんは微笑みながら、僕の目をのぞきこんできた。

「『大切な決まり』、絶対に忘れないようにね」

「……わかってるよ」

 心配性だなあ母さんは。



「おまたせ」

「待ってないよ。今来たところ」

 待ち合わせ場所に30分前に到着してしまった僕と、その2分後に怖い顔をしてやってきた尾上さんはそんなやり取りをして、顔を見合わせて笑いあった。もうこの時点で僕は、このクリスマスデートはうまくいくことをほとんど確信していた。

「変、じゃないかな」

 え、なにが、と言いかけて、彼女が自分の装いを気にしていることに気づく。そういえば、私服の彼女とお出かけするのは今日が初めてだった。

「ええと、ごめん。女の子の格好には全然詳しくないから、うまくいえないかもだけど……なんというか、その、すごく、かわいいと、思う。うん、似合ってるよ。かわいい。すごく。かわいいよ」

 うわあ。キモくなかっただろうか今の。恐る恐る彼女の顔を見ると、例によってものすごく怖い顔になっていた。多分何一つ事情を知らない他人が見たら、無神経な男が相手の女性を怒らせてしまっている姿にしか見えなかっただろう。

 だけどよく見ればわかる。頬が、かすかに赤くなっている。これは照れているだけだ。とりあえず一安心。

「そ、それじゃあいこうか。まずは映画だね」

「……うん」


 雪こそ降っていなかったが、街はクリスマス一色だった。そこら中にツリーが、サンタが、トナカイがあふれ、道行く人たちは皆幸せそうに見えた。もしかしたら、自分がそうだったから周りも同じに見えただけかもしれないけれど。

 映画館でチケットを買う。ここは僕のおごりだよ、なんて言えたらかっこよかったのかもしれない。だが悲しいことに、高校生の財力ではそんなに高価でもないプレゼントを買うので精一杯だった。

 映画は先日封切られた、道に捨てられていた犬を通じて出会った二人の恋物語だ。我ながらベタな選択だと思うが、これでも考えに考え抜いて選んだのだ。

 上映が始まった。

 結構引き込まれるストーリーだった。悲しいシーンが始まると、館内のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。僕も恥ずかしながら、少しうるうるとしてしまっていた。

 ちらりと横の尾上さんを見た。尾上さんは今までにないほどの怖い顔でぼろぼろ泣いていた。僕はなんだかおかしくなって、そっと尾上さんの手に触れた。尾上さんはビクリとしたが、そのまま僕の手を握ってきた。

 感動のラストシーン。手を握り合ったまま、僕たちは二人して号泣していた。


 そのままハンバーガー屋に入り、映画の内容を熱く語りあった。たくさん笑いあった。思ったより長居してしまい、そのことに気づいて二人してまた笑った。全てが夢のようだった。


 さあ、あとはプレゼントを渡すだけだ。あと、できればうまいこと彼女を名前で呼べればいいな。でも、どうすれば自然な流れでできるのだろうか。


 僕の手を握る尾上さんの手に、力がこもった。


「痛」

 僕は驚いて、尾上さんの顔を見る。尾上さんはいつもの、いつも以上の怖い顔をしていた。その鋭い視線が向けられる先には……。


「嘘だろ」

 黒い影、あの狼女が立っていた。

 

 女は、静かに立ってこちらを睨んでいた。恐ろしいことに、尾上さんにやられた腕もすっかり元通りになっていた。考えてみれば当然のことだ。尾上さんができることは、あいつにもできるはずだから。

 そのとき、周囲で悲鳴が上がった。驚いて見回す。

「いや、いやいや……嘘だろ」

 僕たちの周りに、次々と黒い影が現れた。

 男、女、大人、子ども……十数人はいるだろうか。狼の顔、虎の顔、豹の顔、ワニ、サメ、熊、バイソン。どいつもこいつも、鋭い牙と、何でも引き裂きそうな爪を備えていた。そして明らかに僕たちを、いや、尾上さんを見ていた。


「許さない」

 影の女が尾上さんを指差す。僕の手を握る尾上さんの手から、彼女の緊張が伝わってくる気がした。

「私たちは、私たちをこんな目にあわせたあの男を、尾上を決して許さない。その娘であるお前が、平気な顔をして生きているのも許せない。だからお前を。肉も骨も何もかも、ゴミクズのように道にばらまいてやる」

「逃げて!」

 尾上さんが僕を突き飛ばすのと、影たちが襲いかかって来たのがほぼ同時だった。僕は初めて影に襲われたときのことを思い出していた。

 咆哮とともに、尾上さんに影が殺到する。尾上さんは変身しようとしたが、影たちのほうが一歩早かった。あっという間に爪を、牙を突き立てられていく。彼女の服が、引き裂かれていく。赤い血が舞う。

 畜生、冗談じゃないぞ。クリスマスの赤は血の色なんかじゃないんだぞ。

 そんなどうでもいいことを考えるくらいには、僕は冷静さを欠いていたのだろう。逃げろという彼女の言葉を無視して、僕にできることを必死で探していた。

 ケーキ屋の看板が目に入った。迷わず掴む。そして影の一体に向けて振り下ろした。看板が粉々に砕け散る。影がこちらを睨む。構わず、手に残った看板の破片を振り下ろす。

 手を掴まれた。ぶん、という音。自分が投げ飛ばされたことに気づいた瞬間には、ショーウインドーに頭から突っ込んでいた。飾られていたマネキン、ガラスの破片、いろいろなものの下敷きになる。すぐさま、頭を振って立ち上がる。尾上さんを、尾上さんを助けなきゃ。

 僕は上半身だけのマネキンを手にして駆け出す。思い切りぶん投げる。影の一体の後頭部に命中。軽い音がした。つまりダメージはない。だけどいい。こちらに注意が向いてくれれば。3体ほどの影が、こちらに向き直った。よし、いいぞ。少しでも彼女から奴らを引き離して――。

 でも、それからはどうする?

 尾上さんから奴らを引き離して、そしてその後は?

 こんな僕に、いったい何ができる?


 ――できることは、あるだろう?

 僕の内側、深い深いところから声がする。

 ――いい? 何があっても「大切な決まり」を破ってはだめよ。もし破ったら、そのときあなたは。

 母さんの声が脳裏に響く。

 散々言って聞かされた「大切な決まり」。

 そうだ。

 約束を、「大切な決まり」を破るわけにはいかない。


 悲鳴が聞こえた。通りは逃げ惑う人で大騒ぎだ。スマホで撮影を試みる人もいる。それらに気を取られ、襲いかかってきた影たちへの反応が遅れた。僕の体に首筋に、鋭い物が突き刺さる。熱さを感じた。ブチブチと、気分が悪くなる音がする。痛い。とんでもなく痛い。痛みか熱か、その両方だろうか、とにかく全身がひどいことに、ひどいことになっていく。

 僕は、むさぼられていた。

 貪られながら、尾上さんを見た。尾上さんも僕を見ていた。尾上さんは怖い顔をしていなかった。血まみれの泣きそうな顔で、僕に向かって手を伸ばしていた。


 尾上さん。なんて顔をしてるんだ尾上さん。


 僕は覚悟を決めた。


 ごめん、母さん。僕は大事な大事な言いつけを守らない大馬鹿だ。

 だけど無理だ。できることがあるのに、何もしないなんて無理だ。

 何より、好きな女の子にあんな顔させたままではいられない。いてたまるか。


 僕は力任せに影たちを振り払った。そしてそのまま、千切れかけた足で立ち上がる。影たちが僕を睨みつける。僕も睨み返す。目を逸らしてなんかやるもんか。

 お前たち全員、絶対に、絶対に許さないからな。


 脳裏に、三つの鍵を思い浮かべる。

 銀色に光る鍵を。

 そして僕は、母さんから教わった「魔法の呪文」を口にする。


「一つの鍵にて、ひとやよ開け」

 全身の傷が、不快な痒みと共に消えていく感触があった。


「二つの鍵にて、鎖よ朽ちよ」

 力がみなぎっていく。人外の力が。


「三つの鍵にて、かせほどけよ」

 僕の全身を、銀色の毛が覆っていく。それは月の光の、銀色だ。


「銀のケダモノ、地を踏みしめよ。アギトを開き――月に吠えよ!」


 骨が、筋が、肉が、ぎちぎちと作り替えられていく。不快な音、不快な感覚。

 だけどそれは不快なだけではなかった。

 あるべき姿を取り戻す高揚感に、僕は体を震わす。

 あるべき姿――すなわち、


 そうだ。狼男なんて化け物、もはやこの世に存在するわけがないのだ。

 ――

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