第3話

 その帰り道のことだ。

 僕と尾上さんは二人並んで歩いていた。狼男の話は無かったことになっていた。どこかの家から、夕飯の匂いが漂ってくる。お醤油のいい香りだ。それをきっかけに、好きなおかずの話で盛り上がる。僕が肉じゃがの素晴らしさを熱く語り出そうとした、そのとき。

 僕たちの後ろから、唸り声のような声が聞こえた。

 体に衝撃。尾上さんが僕を突き飛ばしたのだ。

 直後、僕らの間を黒い影が通り過ぎる。黒い、影?

 影は、僕らのはるか前方に着地した。全身黒ずくめ。頭を鬱陶しそうに振り回す。長い黒髪が、獣の尾のようだ。荒い息と共に、こちらを振り向いた。恐ろしい顔の女性だった。

 恐ろしい顔。

 だ。

 僕は尾上さんを見た。尾上さんは女のほうを見ていた。僕が今まで見たことのない顔をしていた。

「平井くん」

 静かな声。

「あたしがアレを食い止める。だからそのスキに逃げて」

 彼女の周囲の空気が、ざわついている気がする。

 重い音。黒い影が飛びかかって来たのを、尾上さんが受け止めたのだ。

「とにかく、急いで逃げて。それでできれば、こっからのあたしはあまり見ないでいてほしい」

 尾上さんの姿が変わっていく。


 爪が伸び、口元から牙が。髪の毛が伸び、全身が大きく膨らんで――。


「オオカミ……」

 狼男、いや狼女と言うべきか。が、僕の目の前にいた。

 黒い影と尾上さんは、もみ合ったまま格闘を始めた。牙を剥き、爪を振るい、血が流れ……。

 尾上さんが影――いや、きっとあれも尾上さんと同じ狼女なのだろう――を蹴り飛ばした。サッカーボールのように飛ばされた女は、だが華麗に体をひねると四足で地面に降り立った。女も尾上さんも、短い間に随分と血まみれになっていた。

 僕はこのとき、やっぱり逃げるべきだったのだろう。でも逃げるなんてこと、その時の僕の頭にはほんの少しも浮かんでこなかった。血だらけの尾上さんを見て、どうにかしなければという考えで頭がいっぱいになっていた。

 だけどどうすればいい。僕には何もできそうになかった。


 ――できることは、あるだろう?

 僕の内側から、誰かが語りかけてきた。

 そうだ。できることはある。

 でもだめだ。

 母さんとの約束は破れない。「大切な決まり」は絶対に守らなくては。


 突然の咆哮に、考えが中断された。

 女が長々と吠えている。僕にもわかる。あれは怒りの叫びだ。よく見ると、女の右手が半分ちぎれかけていた。尾上さんがやったのだろうか。

 女は雄叫びをやめ、憎々しげに尾上さんを睨みつけた。そしてそのまま、再び黒い影となって逃げ去っていった。

 僕はその場にへたり込んでしまう。だけど尾上さんが倒れ込むのを見て、すぐに立ち上がり、尾上さんの側に駆け寄る。どうしよう、ひどい傷だ。とりあえず病院だろうか。

 一番近い病院を検索しようとスマホを取り出した僕の手を、尾上さんが強く握りしめてきた。一瞬、どきりとする。

「心配しないで。

 僕の目の前で、尾上さんの全身に刻まれていた傷が少しずつふさがっていっていた。頬に痛々しく刻まれていた三本線の爪痕が最後まで残り、それもみるみるうちに消えてしまう。

「すごいでしょ。すごく疲れちゃうんだけどね」 

 尾上さんは青い顔で笑う。まるで僕を安心させるかのように。

 僕は手を握る力を強めた。尾上さんを安心させるために。



 歩けなくなった尾上さんを背負いながら、薄暗い通りを歩く。

「お父さんのせいなの」

 彼女は僕の背でそう言って、力なく笑う。


 彼女の父親は、その世界ではかなり名の知れた科学者だったそうだ。細かいところはわからないが、なんでも、人の可能性の限界を追求するような研究に取り組んでいたらしい。そうでなければ、人類に未来は無いと。

 素晴らしい研究だと思う。

 尾上さんの父親は、限界を超える手段としてを借りる方法を選んだ。つまり、様々な生き物の能力を人に移植する、という手段をとったらしい。

 漫画みたいで、ちょっと信じがたい話だ。

「お父さんは、かなり強引な手段をとっていたみたいなの」

 尾上さんは苦笑まじりにそう言った。

 投薬、手術、遺伝子操作……それは非道な人体実験、といっておかしくないレベルの代物だったらしい。当然そんな物が認められるはずもなく、その研究結果は闇に葬られてしまった。葬られた、はずだった。

「さっきの彼女は多分、その……犠牲者」

 犠牲者。

 尾上さんの父親によって人体改造を施された人たちは、ほぼ全員精神に何らかの異常をきたしてしまったらしい。文字どおり、けだものと化してしまったのだ。

 ただ一人を除いて。

「いろいろなことがあって、お父さんに協力してくれる人はいなくなった。だからごく身近な人を使って実験を続けたの」

 つまり、娘と自分自身。

「どうなったと思う?」

 僕の首に回していた尾上さんの両手に、ぐっと力が込められた。

「……ごめん、わからない」

「……お父さんは結局、他のみんなと同じように正気を失ってしまった。そしてたった一人、正気を失わなかった成功例によって止められた……殺されたの」

 尾上さんは僕の背中で、また力無く笑った。

「いや、違うかな。たぶん気づいてると思うんだけど、成功例ってあたしのこと。だからお父さんはってのは噓。

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