泳げないプール 第6話
いつの間にか、背後が騒がしい。
はっと振り返ると、なぜか芹菜と栞との間の言い争いは、部員全体を巻き込んでいた。日向の仲裁もむなしく、ちょっとした騒動に発展してしまっている。……なんで?
物々しい雰囲気だ。日向が火に油を注ぐようなことでも言ったのだろうか。あの子、そういうところあるから。
もうほとんど口喧嘩のような状況に、少し離れたところから、凛は呆れ返ったように見ているし、梢は茫然自失としていた。でも、わたしはむかっ腹が立って、
「いい加減にしな!」
と一喝入れてやるために、一歩前に進み出た時だった。だけど、わたしが腹から声を出すよりも一瞬早く、更衣室の出入り口からひとりの女子が、
「なになに、なんの騒ぎ!?」
と興奮露わに叫びながら飛び出してきて、不覚にも喝を入れるタイミングを逸してしまった。
どういうわけか彼女の登場を機に、さっきまであんなに騒がしかったプールサイドがしんと静まり返ったのだ。示し合わせたかのように、沈黙が下りている。……なんだか拍子抜けしてしまう。
騒ぎを聞きつけて、どたどたと忙しなくやってきたその女子は、わたしの知らない顔だった。ショートヘアで眼鏡をかけていて、首にはデジカメを提げている。制服を着ているから、ここの生徒ではあるんだろうけど。
部員たちの注目は、突然やってきた眼鏡の女子に注がれている。そしてその眼鏡の女子は、水泳部員が固まっているフェンス際までたどりつくと、勢い込んで尋ねた。
「いまのは一体なんの騒ぎですか、水泳部の皆さん!?」
しかし後輩たちは決まり悪そうにするだけで、誰も何も答えない。しーん、って感じだ。
隣で梢が、
「出た、すずめ」
苦々しくそうつぶやいたのを、わたしは聞き逃さなかった。
「すずめ?」
「氷室先輩、知らないんですか。うちの学校じゃ、わりと有名人ですよ?」
梢が信じられないとでも言いたげに、わたしの顔をじっと凝視する。
「だれだれ? あたしも知らないんだけど」
すると梢は、今度はさっと凛を向く。
「え、苅谷先輩もですか。三年生には、意外と知られてないんですかね」
向こうでデジカメを構えながら、部員たちに矢継ぎ早に質問をしている、当の彼女に視線を向けながら、
「だから、誰なの?」
とじれったく訊く。梢は苦り切った顔で、どこか冷ややかに言う。
「二年、田中すず。新聞部の部長です。大の噂好きで、学校のトラブルやゴシップ、スキャンダルを嗅ぎつけては、問答無用で記事にするんです。取材のためなら、写真も撮りまくりって感じで。厄介な……芸能記者みたいな存在ですよ。そんな性格で、下の名前がすずだから、すずめって呼ばれてるわけです。ほら、噂好きの人のことを、雀にたとえるじゃないですか」
梢の淡々とした説明に、わたしは小刻みに首を縦に振った。
「ああ、納得」
わたしはたぶん、ひきつった微妙な笑みを浮べているのだろう。少なくとも、あの子が歓迎されていないことはわかった。そう考えると、後輩たちが一斉に黙り込んだのも、なんとなく合点がいく。『水泳部、一年と二年で対立か 空中分解の危機』なんて見出しでそういう記事を書かれては、たまったものじゃない。
「妹の方は、真面目でいい子なんですけどね」
梢がぽろっと言った瞬間、
「ちょっと、何これ!?」
田中すずの甲高い声が、プールサイドに響き渡った。
「水がないじゃない!」
干上がったプールを見下ろしながら、新聞部部長は驚きの声を上げている。うん。この灼熱の炎天下、元気あるわ。いや、それはうちの後輩も一緒か。
「騒ぎの原因はこれね、部長? 何があったの?」
振り返り、興味津々に尋ねる田中すずの質問に、
「知らないよっ」
日向は鬱陶しそうに跳ねのける。
「知らない? 理由がわからないってこと?」
続けざまの質問に、日向は見るからに面倒くさそうな顔になるが、
「そう。勝手にプールの水が消えてたの」
と、げんなりしながらもちゃんと答えるのは、いかにも日向らしい。
「日向は、すずめが大の苦手なんですよ」
梢が教えてくれる。そうだろうね、の意を込めて頷き返すと、さらっと足された一言は、
「まあ、わたしもなんですけどね」
だった。
「謎が深いわね。これはスクープだわ!」
興奮を隠さずに、田中すずは空のプールに向き直り、デジカメを構えた。何度か位置や体勢を変えながら、写真を撮っている。
そんな噂好きの新聞部部長の挙動をしばらく遠い目で見つめていると、上機嫌な顔がぐるっとこっちを向いた。なぜだか、ぎくっとする。駆け足で、すたすたとやってきた。
目いっぱいに距離を縮められ、わたしはちょっと後ずさる。
田中すずは小柄で、身長はわたしよりも十センチ以上は低かった。サイドを耳にかけていて、前髪をヘアピンで留めている。やや丸顔で、赤いフレームの眼鏡の奥は、やや吊り目。薄いそばかすがある。
「あなたは氷室先輩ですね!? 元水泳部部長の!」
矯正器具の歯を覗かせて、至近距離から大声で言ってくる。
田中すずは、〈Licon〉のロゴが入ったメタリックシルバーのデジカメを、わたしと凛と梢の三人に向けた。連続でシャッター音が鳴る。
即座に、梢が猛然と声を張り上げる。
「ちょっと、勝手に撮らないでよ!」
田中すずは梢の抗議を無視し、カメラを顔から離して、
「氷室先輩! ちょっとお話聞かせてもらってもいいですか? プールの水は故意に抜かれたと思われますか?」
なんて早口で訊いてくる。まくし立てるようだった。それによく通る声。
「え」
わたしはその気迫にちょっと気圧されながらも、頬をかいて答える。
「故意というか、まあ、勝手に抜いた人がいるんだとは思うけど」
「では、その犯人に一言!」
何も握っていない握り拳を、ぐっと向けられる。
目の前に突きつけられた架空のマイクに、わたしは思わずあごを引いた。でも無下にあしらうのも気が引けるので、こほんとひとつ咳払い。適当に、新聞部部長のインタビューに付き合う。
「その、水泳部が活動できなくなるので、水を抜くのはやめてほしいなって思います」
「氷室先輩、なんで答えちゃうんですか……!」
ほとんどささやきに近い声で、梢に責められる。視線が痛い。
梢の言葉が聞こえたのかどうかわからないが、田中すずは無難なわたしの回答に、
「ありがとうございます、氷室先輩!」
屈託のない笑顔で応じ、さっと腕を引っ込めた。
向こうで、日向たち水泳部員がちらちらとこっちの様子を窺うように見ている。でも、近づいてはこない。田中すずを警戒しているのだろう。
「ていうか、わたしの名前知ってるんだ」
すると、田中すずは心外とばかりに、少し太い眉を吊り上げた。
「当たり前じゃないですか。部活動の部長、副部長だったOG・OBの先輩方は、みんな把握してますよ」
「ねえねえ。じゃあ、あたしは?」
凛が自分を指さして、期待の眼差しで訊く。
「もちろん存じ上げてますよ。元副部長の柿谷先輩ですよね?」
田中すずがそう言い終えてすぐに、
「か・り・や!」
と凛は訂正した。小さい唇をすぼめている。
田中すずは大して悪びれる様子もなく、
「あ、これは失敬でした」
と、ぺこっとした。
「苅谷って、かりんとうみたいで可愛い名前ですね」
素直に褒め言葉として受け取っていいのかわからないのか、凛は田中すずに曖昧に頷きかける。かりんとうか……。あれ、味は美味しいけど見た目的には……いや、やめとこ。
「それにしても」
思い出したように言って、田中すずがぐるっと首を巡らせた。やがて、視線がわたしたちに戻ってくる。
「水泳部、トラブル続きでちょっとやばくないですか?」
それから、妙に真剣味を帯びた顔で付け足された言葉は、まったく思いがけないものだった。
「盗撮魔の事件だって、まだ解決してないわけですよね?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます