第8話-SideA 定期試験とプラネタリウム

 五月も末になると、本格的に暑くなってきた。

 気温は三十度近く。この先梅雨になってさらに不快指数が増すと考えると、憂鬱になる。

 この季節が好きな女性はおそらく日本にはいないのではないかと思うくらいだ。

 そして体育祭が終わったばかりのこの時期に定期試験があるのは、ある意味悪意があるのではないかとすら思えてしまう。


 明菜は成績は悪くはないが、それでもしっかり勉強しなければ成績は維持できない。

 ただ、学校が終わってから家に帰る時にあまりの暑さと湿気で汗だくになると、とりあえずシャワーを浴びたくなり、そうしてしまうと精神が弛緩して勉強に集中しづらくなる。

 これに加えて雨天が多いので憂鬱になる。

 本当にこの季節は勉強向きではない。


 かといって、学校の図書館などで勉強して涼しくなってから帰るにしても、明菜は人が多い場所が苦手だ。どうしても周りから注目されてしまい、その視線が気になるのである。

 勉強しているのだから他人なんか気にしないでほしいと思うが、まさかそれを言うわけにもいかない。

 こういう時は自分の容姿に恨み言を言いたくなってしまう。贅沢なことだとは分かっているが。


 結局仕方なく、暑い中家に帰るしかないと思っていたのだが――。


「ここすごく快適じゃない。私もここで勉強するね」


 理想的な環境があった。

 地学準備室である。

 空調があるのはもちろんのこと、何より静かで人がいない。

 一人だけいるが、夏輝であれば気にならない。

 当の夏輝はやや複雑そうな表情をしていたが、事前に試験前には同好会活動は休止すると言ってたのは、この環境を独占したかったからなのでは、と思えている。


 二人で勉強するといっても、勉強会というわけではないので会話はそれほど発生しない。お互いに黙々と勉強をするだけだ。

 明菜は成績上位者の常連ではあるが、かといってそれほど余裕があるわけではない。夏輝は上位者名簿で見たことはないと思うが、授業で困ってる様子を見た記憶はない。

 勉強ができるのかできないのか、よくわからない人だ、というのがこれまでの印象だった。


 時々復習をしていると思い出せないことがあり、夏輝に聞いてみると、ほぼすべて即座に答えが返ってくる。少なくとも授業内容は本当によく聞いているのだと思う。


(……なんていうか……すごくそつなくこなしてる感じだよね)


 むしろこれでなぜ上位者名簿に名前がないのだろう、と思えてくる。

 よほど試験の時だけ実力を発揮できないのか、実はギリギリ載ってないだけなのか。


「夏輝君ってさ、成績どのくらいだっけ?」


 結局我慢できなくなって聞いてみた。


「ほぼ真ん中。平均だよ。どの科目もだいたい」

「得意科目とかないの?」

「ないなぁ。どれもまんべんなく、という感じだし」

「普通偏ることが多いんだけどね……私は文系よりだし」


 英語は子供の頃アメリカに住んでいたこともあって得意科目だ。

 それ以外だと国語は現文古文ともかなり得意で、社会がそれに次ぐ。

 数学や物理、化学などの理数系は平均は超えるが、得意科目かと言われると微妙というのが明菜の成績である。


「明菜さんは苦手でも俺よりいいでしょう」

「……試験の点数は、ね」


 平均点だというなら、確かに明菜の方が試験の点数はいいのだろう。

 だが、ここ数日一緒に勉強していると、どう考えても理数系の点数は夏輝の方がいいはずだと思う。というかそうでなければ説明がつかない。


「ここ数日一緒に勉強してて気づいたけど、夏輝君本当はもっと成績よくない? 私が質問したことはあっても、夏輝君が質問したことないよね」


 特に数学の公式などへの理解度が、まるで違う。

 明菜が悩むようなことを、まるで絡まった糸をほどくようにわかりやすく解説してくれる。それは、完全に理解していなければできないことだ。


「そうだっけ? まあ俺は基本ばっか復習してるからじゃないかな。さすがに基本問題ならわかるから」

「……それだけとも思えないんだけど」


 確かに公式の理解は数学の基本と言える。

 それを複数用いて問題を解くのが実際の試験問題であり、それが苦手という可能性もあるが、あそこまで理解してて、それはないのではないだろうか、と思える。


 どこか釈然としないながらも、二人は試験に向けて勉強を続けていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 各教科の試験が一斉に返却されてきた。

 明菜の成績は、文系は予想通り。理系も去年より点は取れており、特に数学がすごくよかったので総合では上位者名簿でちょうど真ん中の十位。

 去年の最後の期末試験が十四位だったので、そこからさらにあげられて、まず満足できる出来だった。


 今回は特に数学が難しかったのだが、明菜の点はクラスでもトップクラス。

 特に、数学教師が正解者がほとんどいなかったと嘆いていた問題が二つあり、両方正解していたのはクラスでは明菜とあと二人だけだったという。

 だが、明菜はその話に違和感を覚えた。そこに、夏輝の名前がなかったからだ。

 明菜がその問題に正解できたのは、夏輝に教えてもらっていたからである。

 その夏輝がなぜ正解していないのか。

 授業が終わって友達と答え合わせをしてみた――というよりはみんな解き方を知りたがった――が、ほとんどの人は両方間違っていて、稀に片方だけ、大問二つのうち、二問目だけ合っている人がいたのみ。

 これは、一問目にとてもいやらしいひっかけがあったからなのだが、そのひっかけは二問目に正解できるだけの知識がなければ気付けないようなものだったのだ。

 果たして夏輝がどうだったのかがとても気になる。


 何かもやもやするものを抱えて、地学準備室の扉を開けると、夏輝がすでに来ていた。


「どうしたの? もしかして定期試験の結果が目標下回ったとか?」


 いきなりそんなことを言われた。

 どうやら相当に不機嫌そうな顔になっていたらしい。


「違う。そっちはいいの。夏輝君、何点だったの?」

「え……いや、毎回同じ、ほぼ平均だよ。ちょっと上だったかな」

「見せてもらえない?」


 答え合わせなどをする場合を除いて、人に試験解答を見せろというのは初めてだ。

 たいていの人は点数をたとえ友人同士でも隠したがるものだが、今回ばかりはちょっと納得がいかない。よほど強く拒否されたら諦めるが。


「はい、これ。まあちょっとつまらない計算ミスとかスペルミスとかあったしね。平均保てたのは一緒に勉強した成果かも」


 夏輝はあっさりと見せてくれた。

 あまり点数を気にしてないのだろう。

 一番気になる数学を見ると、確かに平均よりわずかに上だ。

 点数は。

 しかし見てみると、普通間違えないような、本来なら点数を稼ぐべきような問題でも、いくつか間違いがある。途中式を見ると、うっかりなのかプラスとマイナスを間違えて、それで結果が誤っているものもあった。

 そして問題の大問二つは――夏輝は、一問目だけ正答している。このパターンは、他に一人も確認できていない。二問目は、途中式を見ると普通間違えないような場所で計算違いをしていて、答えが違う。


「……夏輝君、わざと間違えてない?」

「え? なんで?」

「ここ。この問題、二つは基本同じ公式使うけど、二つ目の方が応用で難しいと見せかけて、一つ目には二つ目が解けないと分からないようなひっかけがあるの。実際、この問題は正答率がどちらも非常に低かったって数学の先生言ってたよね」

「そう……だね。俺は運よく一つ合ってたけど」

「何人かに聞いたけど、これ、一つ目だけ合ってたの、夏輝君だけだよ」


 夏輝が押し黙った。

 その表情からは、まずいものが見られたと感じてるようにも見える。

 彼がカンニングをしたとは全く思わない。そもそも、彼の実力ならそんな必要は絶対にない。第一、三組でこの問題に正解したのは、明菜を含めてもおそらく四人だけだろう。

 にもかかわらず、結果として点数は平均少し上。

 まるでようですらある。


「まあその、二つ目は計算ミスしただけだよ。惜しいことしたなぁ」

「……いいけどね、貴方の成績だし。どういうつもりかは分からないけど」

「真面目にやってるつもりだよ。ただ、試験ってどうしても緊張するから、つまらないミスが多いんだ。まあだから、必死に勉強してミスしても何とか平均取ってるだけだよ」

「……それなら、いいんだけど」

「高校入ってからこういうミスが多いんだ。気を付けているんだけどね」


 確かに、間違っているところを見ると、そういうミスが多い。

 つまり、問題は解けているのにケアレスミスでこの点数になっている。

 他の科目にしても同じだ。

 確かにまじめにやっていても、こういうミスはあるものだが、本当にそれだけなのだろうか、と思えてくる。


 ただ、結局は彼自身の問題であり、本当にただミスが多いというなら、それはある種の癖であり、彼自身が解消するしかない。

 それこそ、明菜が口出しするのは余計なお世話だろう。


「夏輝君、星はいつも全力なのにね」

「それは……うん、否定しない」


 思わず二人は笑った。

 それで、先ほどまでの空気がほどける。


「ね。せっかく試験終わったんだし、どっか遊びに行かない?」


 単なる思い付きだ。

 ただ、折角試験も終わったし、どうせ今日は雨。

 憂鬱な気分になるくらいなら、遊びに行きたいところである。


「どっかって……どこ?」

「うーん」


 言われてから考える。

 雨だから外で遊ぶのはない。必然的に屋内施設――と考えて、一つ思い出した。


「あ、そういえば今年新しく出来たプラネタリウム、あったよね」


 今年の一月にできた公立の自然科学館。たしかプラネタリウムがあるとかで話題になっていた。一度行ってみようと思いつつ、まだいけていない。


「夏輝君はもう行った?」

「いや……俺はこっちは地元とはいいがたいからこっちの施設はあまり詳しくない」

「じゃあ行ってみようよ。これからとかどう?」

「俺に明日クラスメイトの視線で殺される運命を受け入れろと」

「明日は休みだから問題ないって」

「あ、そうか……じゃなくて」

「大丈夫だよ。傘さしてれば分からないって。それにほら、試験終わってもう帰っちゃってる人がほとんどで、あとは屋内系の部活の人しか残ってないし。今なら下校する人少ないよ」


 試験終わってすぐ帰宅した生徒以外は、部活がある生徒しか残っていない。

 だが彼らは、あと一、二時間は部活をしてから帰るだろう。

 なので今は、ほとんど下校する人はいない時間帯なのだ。


「……わかったよ。まあ興味はあるしね」

「じゃ、行こう~」


 これも同好会活動だよね、と言うと困ったように夏輝が笑った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 プラネタリウムは思った以上に良かった。

 公営の施設だから、と馬鹿にしたものではない。

 様々な星の、特に世界各地の逸話は、夏輝も明菜も知らないような話もあって、とても面白かった。


「結構素敵だったね」

「うん、思ったよりずっとクオリティ高かった」


 夏輝が笑う。その表情は先ほどとは違って、陰がない。

 多分彼は、何か悩み――それも彼自身を構成する一要素となるほどの――を抱えているのだろう、と思う。

 ただ、それを解きほぐすことは、今の明菜にはできない。

 それが悔しいと思えてしまう。

 できるなら悩みを共有できれば、と思うのは、多分自分が彼に惹かれているからだろう。


 助けてくれた恩人というだけだった最初のきっかけ。

 ただ日々同好会で接していると、彼の気付かれにくい優しさや気遣いをたくさん感じることができた。

 基本的に裏表がなくて、素直で、そしてとても優しい人だ。

 ただ同時に、彼は自分で自分を相当に抑制している、と思う。

 その原因が何なのかは、まるで想像ができない。

 ただ、彼がわざわざ学区外からこの高校を選んだことも、おそらく同じ理由なのだろうとは思う。

 だとすれば、そこはある意味では感謝したくもなる。そうでなければ、夏輝と出会うことはなかったのだから。


「もう暗いから、近くまでは送るよ」

「あ……うん、ありがとう」


 女性の住所は、特に一人暮らしの女性は安全も考えたらたとえ恋人でも容易に教えるべきではない。夏輝はおそらくそういう事も配慮しつつ、それでも相手を気遣って近くまでは送ってくれる。

 そういうことが自然にできる人なのだ。


 雨の中、二人で森林公園を歩く。

 七時を過ぎているため、木々がそこそこある公園の中は結構薄暗い。

 もう日はとっくに落ちているから、あとは暗くなる一方だろう。ふと、あの三月のことが思い出され、夏輝がいてくれるのはとても心強いと思った。

 その時。


「よぉ、明菜。久しぶりだな」


 怖気おぞけがした。

 まさかまた、ここで会うとは思わなかった。


「なんであなたがここにいるの」


 なんでもなにも、おそらくあの男山北もこの辺りに来ることがあるのだろう。ただ、これまでこの公園で遭遇したことは三月以前に一度もなかったことを考えると、ストーカーよろしく探していたのかもしれない。


「別に偶然だよ。この間同様、な。あんときは邪魔が入ったし、俺もちょっと熱くなりすぎたからな。今回はちゃんと話し合いをしたいんだが」


 いまさら何を話すことがあるというのか。

 できるなら、本当にいなくなってほしいくらいである。

 視界にいるだけで身体が震えてくる――と思ったら、突然視界からあの男が消えた。間に、夏輝が入ってきたのだ。


「誰だか知らないけど、明菜さんはあなたを歓迎していないようだけど」


 かばってくれたんだ、と思うと少しだけ嬉しくなった。

 同時に、身体の震えが少しだけ和らぐ。


「なんだ、お前は」

「明菜さんのクラスメイトだよ」

「なんだよ……名前呼びとか、そいつがお前の新しい男か?」

「もう私はあなたとは関係ないの。もう私の前に現れないで」


 顔を見ないようにして、とにかく拒絶する。

 ただ、これ以上は声を聴いているのすら苦痛だった。


「夏輝君、ここまででいいよ。ありがと。また来週ね」


 踵を返して走り出した。

 この後どうなるかは分からないが、さすがに争うような事態にはならないだろう。


 雨の中、濡れるのも構わず走って、マンションの前までくる。

 振り返ってみるが、さすがに追いかけては来ていないようだ。あるいは、夏輝が止めてくれたのか。


 部屋に戻ると、濡れた制服を脱ぎ捨て、そのままバスルームに直行した。

 湯舟に湯は張ってないが、シャワーは出る。

 熱いシャワーを浴びると、ようやく気持ちが落ち着いてきて――同時に自己嫌悪に陥った。

 涙があふれてくる。

 なんであんなのと、という後悔。

 あの場に何の説明もせずに夏輝を残してきたという後悔。

 そして恐怖。


「バカ、私のバカ」


 月曜日、どうやって彼と顔を合わせればいいのか。

 せめて説明はするべきだと思っても、会う勇気すら持てそうにない。


 シャワーに打たれながら、明菜はただうずくまっていた。

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