第9話-SideA 明菜の過去

 土曜日、明菜はひたすら塞ぎこんでいた。

 起きたのは十時過ぎ。

 朝ごはんを食べる気力もなく、お昼前になってさすがにお腹が空いたので非常用のカップラーメンだけ食べた。

 あとはひたすらベッドの上でうずくまっている有様だ。


 だが、昼過ぎになってインターホンが鳴り響いた。

 同時に、ガンガン、という扉を叩く音が聞こえる。

 まさかあの男が、と一瞬凍り付くが――さすがにそれはないはずだ。


 付き合っている時も家の場所は教えなかった。

 マンション入り口の郵便ポストも、今は分からないように名前を外している。

 この家が特定できるはずはない。

 そもそも住人以外はエントランスから先に入ることはできないはずだ。


「明菜ー。いる? 生きてるー?」


 玄関から聞こえた声で、とりあえず最初の懸念が間違っていたのはすぐわかった。

 来たのは、友人の二条香澄。

 同じマンションの違うフロアに住む中学からの友人だ。

 幼馴染、というほどではないが、もう四年あまりの付き合いになる。


「……そういえば、今日遊ぶ約束してたっけ……」


 完全に忘れていた。

 スマホを見ると、いくつもの不在着信やメッセージが来ている。

 それに一切反応がないから心配してきてくれたのだろう。


 とりあえずのそのそと起きて、玄関のカギを開ける。


「明菜、いたのね。なんか連絡ないから……って、なんかあったの!?」


 香澄が驚いている。

 多分、自分は相当酷い顔をしているんだろうとは自覚があるが――説明する気力もほとんど起きない。


「うん……ううん、だいじょう、ぶ。昨日夏輝君と出かけて、その帰りに……ううん、やっぱ何でもない。ごめん、今日はちょっと休む。大丈夫だから心配しないで」

「あきっ……」


 扉を閉じる。

 数回ノックされたが、あきらめたのか人の気配が消えた。

 それを確認すると、のろのろとまたベッドの上に戻る。


 香澄は唯一、あの男山北重雄のことを知っている。

 二股をかけられていたと知って別れた時、本当に落ち込んでまともに食事もできなくなるほどだったのを支えてくれたのは、彼女と彼女の家族だ。

 だから今回のことで余計な心配をかけたくない。


 今日は本当に、何もやる気がしない。

 なんとか、月曜日までには回復しないと……とは思うが、その自信もない。


 これほど月曜日が来てほしくない、と思ったのは初めてだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 明菜がどう願おうが、時間は無情に過ぎて月曜日はやってくる。

 かといって、明菜はずる休みができるほど図太くはなく――何とかある程度回復したので、登校はした。

 しかし、夏輝と顔を合わせた時、どういう顔をすればいいのかが、まだ全く分からない。

 なので、教室に入っても彼の方を見ないようにして――席に座る。

 こんなことは初めてだ。

 クラスメイトも、少し不思議そうに見てきた。


 最近は、少なくとも女子の間では明菜が天文同好会に属しているのはすでに知られていて、夏輝との関係を疑っている人だっている。

 そういう人は、むしろケンカでもしたのか、と邪推しそうだ。

 しかしこれは、ひたすら自分が悪いだけだ。


 今日は同好会にもいかずに済ませようか――と思っていたら、夏輝が明菜の席の横を通り抜けた。

 気にして来た、という感じではない。そもそもさすがにまだ、そうやって声をかけてもらうような間柄ではない。少なくともクラス内では。

 それに一抹の寂しさを感じていると、見覚えのない紙が机の上に置いてあった。

 確実に先ほどまではなかったものだ。

 四つ折りされたそれは、メモ帳の切れ端のように見える。

 スマホのメッセージであれば見ないで済ませることも出来るが、さすがにこれを無視するのは難しい。


『放課後、地学準備室に来てほしい 夏輝』


 開いてみるとそれだけが書いてあった。

 強制するわけではないのだろう。ただそれでも――これを無視したら、二度と彼と向き合えない気がする。

 だから、これから逃げるわけにはいかなかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 地学準備室の扉を恐る恐る開くと――夏輝がすでに待っていた。

 その表情は、いつもと変わらないように見える。


「えっと……金曜振り?」

「それも妙な挨拶だね。にしても明菜さん、いい友達がいるようで何より。だけどちゃんと説明はしてほしかったな」

「何のこと?」


 嫌味……というほどではないが、困ったような言い回しに、何のことかさっぱりわからず首を傾げる。

 すると夏輝は、今朝、早朝に香澄に明菜に何かしたのかと問い詰められたことを説明してくれた。

 聞いているうちに、顔が真っ赤になる。


(みーちゃん、なんでそんな誤解したの!?)


 考えてから、自分が彼女に会った土曜日のことを思い返す。


(バカ……私のバカ。そりゃみーちゃんだって誤解する……バカすぎる……バカバカバカ)


 自己嫌悪で頭がいっぱいになる。

 土曜日の自分を殴りたい気分だ。


「……ごめんっ、みーちゃんが暴走して。ホントにごめんなさい」

「みー、ちゃん?」


 そういえばこのパターンのあだ名を他の人に言ったのは初めてだ。

 夏輝も戸惑っているが、香澄のことだとはわかったらしい。


「まあ実害はなかったので大丈夫。ちょっと驚いたけどね。でも、友達想いのいい人だけど……うん、暴走しがちなのは昔から?」

「そうね……みーちゃん、いつも早とちりして突っ走ってた」


 もっとも今回に関しては、早とちりともいえない。

 明らかにこちらの説明不足が原因だ。

 なのだが、全部早とちりのせいになってる気がする。

 さすがに今度、クレープを奢ってお詫びとしよう、と心の中で決めた。


「……気になるからついでに聞くんだけど、なんでみーちゃん?」

「あの子の名前の香澄、の最後の文字を伸ばしてだよ」


 このパターンのあだ名は、本当に仲のいい人にしかつけない。

 というか、現状香澄しかいない。

 あるいは――目の前の人をいつかそう呼べる日が来るかもしれない、という期待はあるが。


「それはともかく……言いたくないならいいけど……」


 言いづらそうにしている。どう言えばいいか、迷っているんだろう。

 だが、もう逃げるつもりは、明菜にはなかった。

 今、こうやって話しているこの時間を失うより怖いことは、ないと思えるから。


「あの金曜日の男のことよね。うん、夏輝君は二度も巻き込んでるから、ちゃんと説明すべきだね」


 一昨々日さきおとといと三月。彼には二度も助けられた。

 もう無関係ともいえないだろう。


「私が中学の頃付き合ってた元彼氏。それがあの男――山北やまきた重雄しげおよ。中学の時はサッカー部のエースでね。私もまあ……この見た目でしょう。結構モテてて、それで彼と付き合ってたの」


 当時、どちらかというと『高嶺の花』的な扱いを受けていて、そのせいで異性と付き合うということは全くなった。

 ただ、思春期だった当時、やはりそういうものに憧れはあり――それであの男からの交際の申し出を受けてしまった。

 今思えば、香澄は当時から難色を示していたように思う。

 結局彼女が大正解だった。


「ちなみにあの人、私たちの一つ年上ね。で、同じ高校に来いって言われてたんだけど……その、成績は大分差があってね。結局同じ学校はさすがにないな、ということで私はこの学校に入ったの」


 明菜の成績は地区トップであるこの学校に余裕で入れるほどだった一方、山北の進学した高校は中堅以下。偏差値でいうなら、二十以上開きがあった。多少ならランクを落とすことも考えたかもしれないが、さすがにこの差があるとその選択はない。


「それでも付き合っていける、と思ってたんだけど……あの男、同じ高校の女子と浮気してたの。で、それに気付いて別れたのが……ちょうど、去年の今頃」


 中学と高校で離ればなれになった瞬間に浮気されているのだ。

 仮に同じ高校だったとしても、浮気の発覚が少し早かっただけだろう。

 その意味では、成績に差があって高校が違ったのは良かったと思う。


「なんだけど……三月に突然現れてね。夏輝君が音楽鳴らして助けてくれた時だよ。よりを戻そうって。私としては冗談じゃないって断ったら迫ってきたの。怖かった……。だからあの時助けてくれたの、本当に感謝してるのよ」

「偶然とはいえ……うん、それは良かったよ」

「多分だけど、その同じ高校の彼女にも愛想つかされたのかな、と」


 あの時、『もうちゃんとする』とか言っていた気がする。

 とすれば、おそらく別れたのだろうと思う。


「当時私も若かったわー。ちょっと見た目かっこいいと思って付き合ったんだから」

「女子高生が『若かったわ』はないだろ……」

「だってホントにそう思うし。今客観的に考えたら、ホントにないない」


 言っていて、本当にない、と断言できる。

 同時に、夏輝に話したおかげで、非常に心が軽くなった。

 気づけば、夏輝を正面から見てちゃんと話せている。

 なぜか彼は、話していると安心させてくれるような何かがある気がした。

 高校では意図的に抑えているようだが、中学時代はさぞ人気があったのではないか、と思えてくる。

 その想像はどこか悔しいと思うと同時に――彼の過去を聞いてみたくもなってきた。


「ねえ、ところで。私が恥ずかしい過去話したんだから、夏輝君も話すべき」

「い、いや、そう言われても……俺には特にないよ。別に女の子と付き合ったこともないし」

「そうなの? 夏輝君、モテそうだけどなぁ。いっつもクラスで一歩引いて振舞ってるけど、もっと前に出たら人気者になりそうだし」

「いや、俺みたいな陰キャ捕まえて何を言ってるんだか」

「そうかなぁ」


 一瞬、あれ、と思う。

 わずかに――踏み込むべきではないところまで踏み込んでしまったような気がした。もしかしたら自分が思っている以上に、夏輝が自らを抑えている理由は、深刻なのかもしれない。

 ただ、それなら――今、自分を救ってくれたように、いつか彼を――何かは分からないが、その呪縛から解き放ってあげたいと――。


 明菜は心底、そう思っていた。

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