第8話 私が“お姫様”になったわけ
初めて作り笑顔というものをしたのは九歳の時だった。
多額の負債を抱えた父の会社は日本経済を覆い尽くす慢性的な不況もあいまって、まさに風前の灯火。
今日返すお金のために明日、明後日のお金を借りてくる。
自転車操業以下の綱渡りを続けていた会社はいつ崩壊してもおかしくない。
ほんの少しの計算違いでその日の支払が滞ればその時点でドカンと大爆発。
会社というものの終わりは意外なほど静かに迫り来るということを私は学んだ。
同時に、会社が終わればたくさんの人が苦しむことも知った。
誰かがやらなければならなかった。
父はおらず、母は心を閉ざしてしまった。
誰にも頼れなかった。
だから、私がやるしかなかった。
「ねえ、きみ。泣いてるの?」
それはなんのパーティだっただろう。
その頃は会社の資金繰りのため毎日のように様々な集まりに顔を出していたから、実はもうよく覚えていない。
ただ、私に声をかけてきた男の子のことは鮮明に覚えている。
「ないてなんかない。ほうっておいてよ」
一張羅になってしまったドレスの袖口で乱暴に目元を擦って、私は答えた。
早くどこかに行ってほしい。
こんなところを見られたら、会社の人たちが不安に思ってしまうかもしれないから。
なのに、どうしても涙が止まらない。
後から後からどんどん溢れてくる。
私の中の何かがぷつりと切れてしまったみたいだった。
「これ、使って」
目の前に真っ白なハンカチが差し出された。
男の子が持っているにしては珍しい、レースの縁取りの美しいハンカチだった。
「あ、大丈夫だよ。まだ一度も使ってないから。トイレではハンドドライヤーを使ったんだ」
そう言われてはじめて、自分のいるところが男子トイレのすぐ側だと気づいた。
よりにもよってなんてところで泣いていたのだろう。
パーティ会場からできるだけ離れようとしたことが裏目に出たのかもしれない。
私は途端に恥ずかしくなってきて、ひったくるようにハンカチを受け取った。
「ハンドドライヤー、知ってる? あ、エアータオルって言うとこもあるか。こう、ぶわーっとすごい風で手についた水滴を飛ばして乾かすんだ」
なぜか、男の子はハンドドライヤーについて熱く語り始めた。
「風で飛ばすタイプもいいけど、除菌ライトの青い光が出てるのもカッコイイよね。基本的に業務用だからうちでも取り扱ってないんだよね。だから、こういう大きなホテルやビルに来た時はいつも真っ先にチェックするんだ。今じゃ世界中で使われてるけど、実は世界で最初に作ったのは日本の七黍エレクトロニクスってところなんだよ」
私は彼が早口でまくしたてるのをぽかんとして聞いていた。
なぜ初対面の男の子からこんな話を延々と聞かされているのだろう。
たぶん、おそらく、ほとんどの女子小学生がそうであるように、私はトイレの設備品に興味なんてない。
ああ……でも……。
どうしてこの男の子はこんなにも嬉しそうに話すのだろう。
とても一方的で、独りよがり。自分の話に酔っている雰囲気すらある。
だけど、仕事で接する大人たちのどんな話よりもずっと楽しいかった。
気づけば涙は引っ込んでいた。
「日本の電化製品ってすごいよね。世界初のものがいっぱいあるんだ」
すると、男の子は何かにはたと気づいた。
「あ! ご、ごめん! こんな話、興味ないよね! 女の子に自分の話ばかりしちゃいけないって、母さんにも言われてるんだけど……」
恥ずかしそうに男の子は頭をかく。
「ううん。そんなことない。面白かった」
「ほんと!? じ、実はウォシュレットについてもいろいろと──」
「それはきょうみない」
「あ、そう……」
男の子は途端にしょんぼりする。
その様子がなんだかすごく可愛いかった。
「僕、王子星彦っていうんだ」
「オウジ?」
「変な名前でしょ。母さんは『名前に相応しい王子様になりなさい』なんて言ってヒラヒラの服まで着せようとするんだ」
「ちょっとかわってるね。あなたのおかあさん」
「そうなんだよ。最近じゃ妹も母さんの真似するようになってさ」
男の子は肩をすくめる。
「さっきのハンカチもお姫様が泣いていたらいつでも渡せるようにって三枚も持たされてるんだ」
「わたし……おひめさま?」
はっとする男の子。
すぐに顔を真っ赤にして続ける。
「あ、えっと……そのドレス、よく似合ってる……お、お姫様みたいに可愛い……と思うよ」
急に胸がキュッとしまるような感覚があった。
なんだか頬が熱くなってくる。
まるで風邪でもひいたみたいだった。
「じゃあ、なって。わたしのおうじさまに」
自分でもどうしてそんなことを言ってしまったのかわからない。
なんとなく男の子を困らせたくなったのかもしれない。
わかるのは、頭の中が妙にフワフワとしているということだけ。
「……い、いいよ。僕がきみの王子様になる」
男の子は照れくさそうに小指を差し出す。
私はそんな彼の小指に自分の小指を絡ませた。
触れた小指の先だけがやけに熱かった。
そしてやっぱり、彼は困ったり恥ずかしがったりしている顔が一番キュートだ。
* * *
「──そういうわけで、日崎さん。昨日、君の交際株の37%をこの僕が取得させてもらった」
目の前の男子はそう言って、わたくしに笑いかけてくる。
自信に満ちた笑みだ。
生まれてからずっと恵まれ、与えられ、何一つ失敗などしたことがないかのようだ。
きっと、女の子の前で照れて赤くなったりなどしたことないのだろう。
「これで僕が君の筆頭株主だね」
「ええ、そうね」
「正式に交際を申し込ませてもらうよ。誾千代」
「ああ、そう」
「なんだか僕に興味がないみたいだね。これから交際する相手なのに」
許しもなく貴賓席に向かうわたくしたちに勝手に同行して来たかと思えば、つらつらと自分の話を続けいきなり呼び捨てだ。
おまけに相手がデートの誘いをOKすると微塵も疑っていない。
まあ、筆頭株主になられた以上は一応“お付き合い”をしなければいけないのだけど。
そういう学校だから仕方ないとはいえ、正直、面倒だ。
もっと早く彼を見つけられていれば──
悔しさ交じりに視線を大講堂の入口の方に移す。
いっそのこと目の前の男子に紅茶でもひっかけてあそこから飛び出していきたい。
そう思った矢先、“彼”が現れた。
「っ!」
声にならない声をあげて、思わず立ち上がった。
「ん? どうしたんだい?」
「少し黙っていてちょうだい」
ギリギリだけど最高のタイミング。
やはり、彼は紛れもなく王子様だ。
「わたくしよ。例の件、すぐにすすめてちょうだい。……ええ。すべての条件を飲むと伝えなさい。その代わりに株式譲渡は今すぐにして」
通話を切り、すぐにアプリを立ち上げる。
画面の数字は『48%』となっている。
昨日と同じだ。
「実は放課後、店を予約していてね」
今かと今かとアプリの画面を見つめて待つ。
何やら男子が熱心に話しかけてきていたが無視した。
「……きた!」
思わず声が出た。
アプリが示す数字は『52%』。
これはわたくしが所有するわたくし自身の交際株の数字を示している。
つまり、過半数を自身で保有したことになる。
「僕たちの交際記念デートだ。もちろんOKだよね?」
「あなた、今すぐ帰ってもらえるかしら?」
「食事の後はホテルのラウンジでお茶でも……って、へ? 帰る……?」
「わたくし、今から将来を誓い合った方を出迎えねばなりませんの」
そう言って、わたくしは立ち上がり、貴賓席から身を乗り出した。
「ようやく会えたわね王子星彦。わたくしの“王子様”──」
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