第3話

小学校時代、イジメだけの生活で暗い学校生活だったのかと言ったら、そういう訳でもありませんでした。


わたしは、小学校中学年くらいから同い年の女の子とは合わなくなっていました。

女の子って、考え方が大人っぽいというか会話を楽しんだりするよね?

わたしは、それが苦手でした。お喋りは好きで、今日こんなことあったよ!これがこうでね、ああでねって、わたしのお話をするのは大好きだったのだけど、例えばテレビアニメのお話で、とあるキャラクターのことを語ったり、自分ではない“何か”というひとつの話題で会話をしたりする。

何が面白いのか分からなくて、女の子友達と登下校してもつまらなかった。


それよりも、自分の弟妹と遊びながら登下校したり、男子と走りながら帰ったりする方が楽しかった。


だから、休み時間には男子に混じって校庭に飛び出し毎日ドッジボールをしていました。

めっちゃ楽しかった(笑)


小学生くらいの男の子って言葉要らないの。何も考えずにシンプルに皆でワイワイと遊ぶ。

考えることや、他人が話してることを理解したり、ましてや会話となると、当時のわたしにとっては難しく、親にも会話になってないというようなことを言われた記憶があります(笑)


普段は、学校の男子や弟妹と遊ぶことが殆どでしたが、学校にはイジメっ子の女子が居たので、その子の顔色は伺いながら生活していましたね。

いま思うと、子供時代は一人で居ることが寂しかったんだなと思います。

いつも遊び相手を探していて、イジメのターゲットにされると仲間外れにされたので、余計にイジメっ子の顔色も伺っていたように思います。


小学校高学年になって陸上部に入ってからは、わたしの負けず嫌いという特徴が出始めました。

いや、ドッジボールやってる時に既に出てたな・・・(笑)


陸上部では、初めて頑張るということをした氣がします。

2話でお話した、担任の先生が陸上部の顧問でした。とても情熱的で愛があるからこそ厳しい先生でした。


わたしは、陸上部に入ってすぐにタイムがぐーんと伸びました。

実は、低学年の頃は遊ぶのは好きだし駆けっこも好きだったけど足は遅かったの。

運動会では、後ろから数えた方が早い位置に居たしね。


でも、陸上部に入って最初の1ヶ月くらいでタイムが2秒伸びた。

凄く嬉しくて誇らしかったのを覚えてる。

選手にも選ばれて、大会では一緒に走る他校の子の中からライバルを勝手に決めてた。

よし、この子には絶対に負けない!って(笑)


陸上は、何もなかったわたしに何かを教えてくれた体験だったように思います。


小学6年生になって少しすると、急に引っ越すことが決まりました。

母方の両親が家のローンを払えないと相談しに来たことがきっかけ。

とは言っても、我が家が裕福だった訳でもなく、むしろうんとお金に悩まされていました。

わたしは子供だったので、そんな親の苦労も知らず、クラスメイトがお誕生日会を開いて貰えるのが羨ましいだの、ディズニーランドに遊びに誘われた時も行けなかったとか、そんな不満を抱いていました。


大人になって、その時の親の苦労が分かりました。

わたしだったら無理!と何度言ったことか(笑)


母方の両親が、お金が無いと相談しに来ることはこの時が初めてではありませんでした。

借金取りと一緒に家まで来たこともあったそうです。

そもそも、母が子供の頃からお金には苦労したようで、まだ10代だった頃のバイト代を殆ど家に渡しても当たり前と言われ感謝されなかったり、それどころかその時のことを祖母や祖父は覚えていませんでした。

それを知った時の母の心境は計り知れません。


しかも、母方の方だけではなく父方の家も最悪でした。

父は親元(祖父の元)で水道の配管工の仕事をしていたのですが、当時小学生の年子3人と、更に末っ子が産まれたり、わたしは4人姉弟ですが、これだけ子供がいてもお給料をバイド代に毛が生えたくらいしかくれませんでした。

それだけではありません。

当の本人たちは、毎週焼肉を食べに行ったり、ボーリングを楽しんだり、海外旅行にも行っていました。

毎週の焼肉には、わたしたちも連れて行って貰っていましたが、母からすればその分お金をくれ!と思っていたでしょうね(笑)


お金はあるのに、わたしたちに普通に生活できるくらいのお給料をくれていなかったんですね。

わたしが子供の頃、「孫が可愛くないんですかっ!!?」と泣きながら電話で訴えていた光景を今でも鮮明に覚えてます。


更には、父方の実家は居酒屋だったので、店もほぼタダ働きさせられていました。

あんなに虐げられて、それでもなんとかやり繰りしている母に「あんなどうしようもない嫁」と言ったそうです。

父は、ちょっとかなり変わっていて、お金のことや生活のこと、人生のことを考えたり、自分で行動する伝えるということが極端にできませんでした。

どんなにお金に困っていても、父がなんとかしてくれたことはありません。

あんな低賃金で、早朝から夜まで仕事をして、肉体労働の後お店も夜遅くまで手伝わされて良いように使われても怒りもしなかったんです。

そんな父でも、母へのその言葉には流石にキレたようでしたが、それで祖父母が変わったかといったら全く変わりませんでしたね。


わたしが母の立場なら発狂していますよ(笑)

なんとかして、その場から逃げることを考えたと思います。

それを言うと母は、「いまのように育児に国は協力的じゃなかったし、自分の親も頼れなかったから一人で4人の子供をどうしようもなかった」と言いました。


こんな環境じゃ、クリスマスにプレゼントだとか誕生日にケーキだとか言ってられないですよね。

それでも、他所に比べたら質素だったかもしれないけれど、ショートケーキだけは買ってきてくれたり、クリスマスプレゼントも本当にどうしようもなくなるまではくれていました。


こんなカオスの中を母は一人でやり繰りしていたんです。強すぎよね(笑)

そんな母でも鬱っぽくなったりしたこともあったようでしたが、いまではその頃の痛みや怒りなど手放して、自分たちの幸せにフォーカスしています。


並大抵のことじゃないと思いますが、それをやってのけて来たんですよね。

尊敬するけど、わたしがそんな体験をするのは絶対に嫌です(笑)


そんなこんなで、母は自分の親の家のローンを肩代わりし、現在住んでいる一軒家、わたしにとって祖父母の家に引越してきました。


一見、背負わされたような感じを受けるかもしれませんが、この時から、まずは父方の家と離れていく流れが始まりました。


それでも引越して数年は、電車で片道1時間半程かけて店を手伝いに行っていました。

前日の洗い物はテーブルの上にそのままにされた状態で、店の洗い物から掃除、下ごしらえまで母がやっていました。


父方の祖母をばあと呼んでいたのですが、そのばあが店をやっていた頃までは、下ごしらえはばあがやっていたかもしれませんが、ある日、ばあが脳溢血で倒れました。

それからと言うもの、ばあの後をその娘が継いだのですが、この娘は父の妹にあたります。

なかなかに感謝ができない人で、店での母の立場はもっと悪くなっていったそうです。


自分の父親の借金を背負い、両親の面倒を見ながら姑の家にも良いように使われる。

あんなに何年間も、よくやったなと思いますが、ついに父の妹に腹を立てたのか、店を手伝いに行くことを辞めて、父方の家から離れる決心をしたようでした。


引越してからの流れは、わたしの記憶違いだったりすることもあるかもしれませんが、大体はこんな感じだったんじゃないかなと。


何か大人の事情があったかもしれないし、何かのきっかけがあったかもしれませんが、ある日から父は親元を離れ仕事を独立させていき、母はパートに出ました。


この頃、わたしは高校に上がった頃だったと思います。

わたしは家を出ていて、あまり家に帰って居なかった頃だった。

当時のわたしは、家のことよりも自分の自由や自分の人間関係と楽しむことを優先していました。

正直、当時の家がここまで苦しい状態だったことを知りませんでした。

知っていたとしても、当時の未熟なわたしは自分を優先したでしょう。


次のお話では、わたしの中学生時代のお話をしようと思います。時系列が少し分かりづらいかもしれませんが、何分、学歴は高校中退、勉強もして来なかったので、多めに見て頂けたらと思います(笑)

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