第12話
寒風吹きすさぶ中、背中を丸めて家路につく。
三人ともそれぞれの思惑に沈んで、誰ひとり口を開かない。
やがてセイが冬一郎に軽く頭を下げると、冬の町並みへ消えてゆく。
残った冬一郎と鈴は、川っぺりの土手道を歩いていた。気の早い子供が、もう凧あげを始めている。それを見るともなく眺めながら、冬一郎が口を開いた。
「俺のオヤジとお袋ってのは、飛行機事故で死んじまったんだ。あのガキのオヤジと同じように、俺のオヤジも苦労に苦労してさ。お袋も一緒になってがんばっていたんだよな。そのせいかは判らないけれど、ようやく仕事が上向きになってきて、だいぶん生活も楽になったんだ」
突然の打ち明け話を、鈴は黙ったまま真剣な表情で聞いている。
話している冬一郎の方は、遠くを眺めて気のない調子で淡々と話しつづけた。
「でもそうなれば当然、親父の仕事は増えて、家にいることもなくなった。お袋は寂しかったんだと思う。パソコンでインターネットばかりやっていたよ。その頃知り合った若い男に、ずいぶん励まされたって言ってた。いや、言葉じゃなくて、そいつと芸術や日本の文化について話すこと自体が、お袋の心をずいぶん癒してくれたようだ」
「……いい出会いが出来たんですね」
「そうだな……うん、本当にそうだ。いい出会いだったんだ。俺も最初は、お袋が若い男とデキちまったのかと思って、ずいぶん驚いた。でも内容を聞いてみりゃ、本当に芸術だの文化だの、そんな話ばっかりしているんだよ。またそれを理解する人間に会えたことで、お袋はすごく幸せそうだった。お袋が目をキラキラさせてその男を誉めるたびに、俺は会ったこともないその男に心から感謝したんだ」
「ええ、判ります」
「そのうち、オヤジが二人の仲を怪しみはじめた。それで俺が言ったんだ。二人はそんなんじゃねえ、オヤジがお袋をほっといたから、お袋は自分で理解者を見つけたんだってな。それでオヤジも反省つーか思い直した。仕事をセーブして、お袋と旅行や何かに行くようになったんだよ。あの頃がいちばん、二人とも幸せだったんじゃねえかと思うな」
「…………」
「で、その幸せの絶頂期に、二人は逝っちまった。あっという間さ。俺は親父の遺産に群がってくるクソバエみたいな親戚連中と喧嘩するのに忙しくてな。悲しいと思うヒマもなかったよ。それでな、ひと月くらいして例の若い男ってのが、お袋と親父の遺影に手を合わせに来てくれた。その真摯な姿を見ていたら、ようやく二人が死んだんだって実感できたんだよ」
冬一郎は遠い目をしながら、優しい表情で薄く笑った。
「俺は酒を持ってきて、そいつとふたりで朝まで飲み明かした」
「………」
「それが、誠兵衛だ。あいつは、崩壊しかかってた俺の家庭を救ってくれたんだよ。まあ、本人はどう思っているか知らないけどな。まさか18も上のお袋に惚れてたって訳でもねえだろうし、単純にマニアックな話の出来る相手が嬉しかったんだろうが。ま、別に惚れていたんだって構わねえけど。とにかく、あいつのおかげで、お袋とオヤジは比較的幸せに逝った。感謝してるよ」
「……」
「だからさ、俺はボウズの家庭を救ってやりたかったんだ。人の家庭に口出すなんて、おこがましいのかもしれないけど。例のおふくろさんとも話をして、鷹山とよりを戻すように説得したんだ。今回のことで、きっとあの男も反省しているだろうから、ガキのためにも、もう一度やり直しちゃどうだいってな。おふくろさん、泣きながら罪を認めて、警察にすべてを話すって言ってくれたんだ」
冬一郎は今朝早く起きたのではなく、ぎりぎりまでその話を煮詰めて、一晩中駆けずり回っていて、一睡もしないまま鷹春を迎えに来たのだと言うことを、鈴は遅まきながら理解した。
「二人がやり直すってんなら、今は余計なことは知らせずに、幸せな家庭をボウズに味合わせたかったんだよ。真実は、やつがもう少し大人になってから知ればいいと思ってた。でも、それは間違いだったんだな」
「間違い? 鷹春さんを救ってあげようとしたことが?」
「やっぱりよ、他人が人に家に首を突っ込んじゃいけねえんだ。俺が首を突っ込んだから、何かが狂っちまったんだろう。鷹山が死のうと思ったとき、あの慎重な葵が珍しくへまをやらかした。これはきっと偶然じゃないんだろうよ。お袋のときみたいに放っておけば、もしかしたらすべては上手くいったのかも知れねえ」
「そんなことありません。先生のせいじゃありませんよ」
自嘲気味に笑う冬一郎に向かって、鈴は必死にそう言った。
冬一郎の優しさや努力が無になったことを、いちばん悲しんでいるのは彼女かもしれない。
「まあ、いいさ。終わっちまったものはしかたねえ。やっぱり人の話に首を突っ込んだのがいけねえんだ。他人の心配する前に、自分が暖かい家を作る努力をする方がきっと正しいんだろうな」
そこで言葉を切った冬一郎は、鈴の顔を覗き込む。
「そう思わねえか? 鈴」
鈴は慌ててうなずいた。
冬一郎は、川面に反射する陽光の中で、鈴を優しい目で見ている。
見つめられて照れくさそうに鈴が下を向いた。
不意に冬一郎は、両手を広げて鈴を抱きしめる。
びっくりしている鈴の耳元で、冬一郎はつぶやいた。
「鈴、俺といっしょになれ」
鈴の時間が止まる。
冬一郎はもういちど、想いを込めて。
「俺といっしょになってくれ」
冬一郎の言葉が鈴の心に染み込むまでに、幾らかの時間が必要だった。
鈴を抱きしめたまま、冬の日差しの中で冬一郎は待っている。
どくん、どくん
早鐘のように高まり始めた鼓動は、自分のものなのか、鈴のものなのか。
冬一郎にとっては、永い永い時間が過ぎる。
そして、鈴は小さくうなずいた。
冬一郎は抱きしめていた手を離すと、鈴の顔をのぞき込んでイタズラっぽく笑う。
嬉しそうなその顔は、まるっきり子供だ。
鈴は瞳に涙をためながら、冬一郎の笑顔を見つめていた。
胸の中に暖かい想いがいっぱいに満ちる。
嬉しくて、嬉しくて。
鈴はあふれ出す感情を必死に押さえ込もうとして、明らかに失敗していた。
歓びと興奮で、顔がまっかに火照っている。
好き。私はこの人が好き。
鈴の瞳からぽろぽろぽろぽろ、涙が溢れ出す。あとからあとから、止めようもなく溢れ出して白い陶磁器の頬を濡らしてゆく。冬一郎は鈴の涙にびっくりしたが、やがて顔をほころばせた。この上なく優しいその笑顔が、鈴の目にまた涙をあふれさせる。
胸いっぱいになった想いが、ついに堰を切った。
鈴は、冬一郎の胸に思いっきり飛び込む。
「好き。あなたが好き……すき……」
後は言葉にならない。
冬一郎は、黙って鈴を抱きしめる。
凧あげをする子供達の嬌声が、冬の光の中に響いていた。
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