第7話

 

「万物の始まり、そしてその時のありえない美しさを幽玄(ゆうげん)という。


 芽吹いた瞬間の木の芽の色。咲いたばかりの花びらの、うぶ毛のやわらかさ。羽化した瞬間の蝶のはかなさ。物の始まる瞬間のこんな美しさ。これが幽玄だ。そしてこの幽玄は、須臾(すゆ)と言うわずかな時間に消滅する。


 そのあとに現れる繰り返しの集積。これが侘(わび)だ。


 お寺の欄干に百万の人がつけた、手垢の黒光り。百万べん突かれた鐘の、へこんだ白光り。百年の時が刻んだ顔のしわ。侘(わび)とは経過のことなんだ。


 そして最後に訪れる、寂(さび)の世界。


 変貌の終わり。経過の終焉だ。白く輝いていた鉄が、錆びて朽ち果て赤い粉になる。みずみずしかった木々が、枯れて土に還る。すべては寂(さび)に収束してゆく。つまり幽玄(ゆうげん)、詫(わび)、寂(さび)と言うのは、誕生、人生、死のことなんだ」



 口上を終えた門倉誠兵衛(かどくらせいべえ)は、わかったか? と言う顔で女の顔を見た。


 女は、あいまいな笑顔を浮かべたまま肩をすくめる。


 こりゃあ、ちっとも判ってないなと心の中で嘆息(たんそく)し、誠兵衛はそれっきり彼女に興味を失った。


 まあ、誠兵衛の気持ちもわからないではない。


 が、彼女は誠兵衛の整った容姿に惹かれて声をかけてきた、いわゆる普通の女の子だ。



「門倉君は茶道の家元なんでしょう? わたしよくわからないけど、ワビ、サビってなんだか好きだな。すごく落ち着く感じがする」



 と、精一杯の勇気を振り絞って話し掛けてきた女の子に対して、いきなり先のような説明を始めるのも、たいがい趣がない。


 誠兵衛だって女の子に興味がないわけではないのだが、整った容姿が災いして、彼の内面深くまで知ろうという女の子が少ないのである。



「せっかく一緒に過ごすのなら、いろいろなことを話し合える相手がいい」というのは正論だし、誠兵衛でなくても思うだろう。ただ、誠兵衛の場合その話したい内容がマニアック過ぎて、ついていける女の子が、なかなかいないのである。


 誠兵衛は彼女の話に生返事をしながら、頭の中では全然別のことを考えていた。



 先ほど彼女にした幽玄から寂までを人の一生にたとえた話を、誠兵衛はかつてある女にしたことがある。そのひとは誠兵衛の話を熱心に聞き、あまつさえそこから話を宇宙にまで展開していった。


 誠兵衛は彼女と話すのが、何より好きだった。


 一方、ワビサビの話を聞かされた女の子は、誠兵衛が「自分の話を聞いていない」ことに気づくと、失意と怒りをあらわにして、さっさと姿を消してしまっていた。追憶に浸り始めていた誠兵衛はもちろんそんなことには気づかない。


 誠兵衛は思い出に浸りながら、帰路についた。




 限りなく聡明で、それでいて可愛らしい人だった。


 彼女は江戸時代の妙心派の禅僧、仙崖の書いた宇宙図の話を持ち出して、詫(わび)、寂(さび)はこれに通じるのではないかと話し出したのだ。


○△□


 と書いただけのその宇宙図の話は、誠兵衛の心を捉えた。


 □は揺ぎ無いもの、大地を示す。


 ○は始まりが終わりにつながってゆくと言うことをあらわして、宇宙を示している。


 と言うことは、はじめから終わりをあらわした、幽玄、詫、寂の考え方と言うものは、ここに収束していくではないか。なぜならサビて大地に還ったあと、それは誕生のための肥やしになるのだから。


 更に彼女の話は展開する。


 △は完全な調和をあらわす。神にささげられる供物のうち、他の穀物は丸く形作られるのに、米だけが三角に握られるのは、そう言う意味を含んでいるのではないか? ゆえにおにぎりとは神聖な食べ物だ。


 などと、宇宙や詫び寂の話が、いつのまにかおにぎりの話になっていたりして。


 誠兵衛はいつも彼女の話に魅了され、幻惑された。


 それは、嬉しくて心地よい幻惑であった。



 彼女と出合ったのは、インターネットだ。


 誠兵衛があるサイトに書き込んだ意見に対して、彼女が非常に論理的に多彩な例を示して反論してきたのがきっかけだ。そこでふたりは、周りの人間が口をはさめないほどの、勢いと知識と弁舌をもってヤりあったのである。


 それで一気に仲良くなったふたりは、チャットや掲示板でいろいろなことについて話し合った。まじめな話から、好きな映画や本の話。更に突っ込んだ話をするようになって、そこで初めて誠兵衛は彼女が結婚していることを知った。


 ショックはあったが、もともと彼女の人間としての魅力に惹かれているのであって、別に女として好きだとか言ったややこしい話ではないのだから、そのことで疎遠になるわけでもなかった。今まで通り楽しい話し相手として……


 いや、そうではない。


 もはや手遅れだったのだ。


 夫がいる程度のことで諦めるわけには行かないくらい、誠兵衛は彼女が好きになっていた。年齢がずっと上だとか、顔を見たこともないとか、そんなことはすべて何の障害にもならない。誠兵衛は全身全霊を持って彼女を愛し始めていた。


 肉体関係もなく、顔さえ見たことがないゆえに、その心と言葉のすべてを愛した。


 不思議と会いたいとは思わなかった。いや、会いたいことは会いたいのだが、そのことで彼女の生活に障害が出るというのが嫌だった。自分のことで彼女が傷ついたり苦労するのは、どうにも我慢できない。



「アレは愛というより、崇拝(すうはい)や羨望(せんぼう)、憧憬(どうけい)だったんだろうな」



 ひとりつぶやく。


 あたりはもう、日が暮れかかって薄暗い。誠兵衛は家路を急ぐ。


 心はまた追憶に浸り始めた。


 


 誠兵衛の恋はそれから三年続いた。


 その間いちども彼女とは会うことがなかったが、それでも誠兵衛は満足だった。ときどき、彼女を訪ねて、無理やり奪っていきたいと言う衝動に駆られることもあったが、もともと冷静な気質を持つ男である。行動に移すまでには至らなかった。


 もどかしく、つらく、それでも幸せな日々は続き。


 四年目の春、突然、終焉を迎える。



 それは彼女の死と言う最悪な形で訪れた。



 航空機事故だった。彼女と夫を乗せた旅客機は雪山に衝突し墜落した。生存者はひとりもいなかったらしい。彼女は夫と共に、スイスの山の中で今も眠りつづけている。



 一ヵ月後。


 事件の後ずっと抜け殻になっていた誠兵衛は、ついに決心して彼女の家を訪れた。


 家には彼女の息子がひとりで住んでいて、彼を快く迎えてくれた。誠兵衛は自分がインターネットで彼女と知り合いだったことだけを告げ、用事で近くまで来たからと嘘をついて、彼女の家にあがった。


 仏壇に線香を上げ、両手を合わせる。


 遺影の中で彼女は、優しそうな夫とふたりで笑っていた。


 彼が想像していた以上に美しいそのひとは、屈託ない笑顔で夫とならんでいた。その瞬間、誠兵衛の呪縛は解けた。彼は心の底から、彼女と夫の冥福を祈る。


 


 素晴らしい時間をくれたことを感謝し、こんな恋ができたことを歓んでいると伝えた。


 これからどうするかは判らないが、あなたに出会えたおかげで強く、優しくなれたと伝えた。


 話すことは山ほどあった。


 


 誠兵衛は彼女と彼女の夫に、たくさんの思いを話した。


 長いこと、そうして祈りつづけた。


 そして、ようやく目を開ける。



 心が軽くなり、彼は大きくため息をつく。


 そのとき、台所にいた彼女の息子が酒ビンを持ってくる。


 酒ビンを誠兵衛の前にどんと置いて、自分も腰をおろした。怪訝な顔をした誠兵衛に向かって彼は言う。



「お袋とどんな知り合いだったかは知らねえが、ここに来た中じゃ、あんただけが、心からおふくろと親父の冥福を祈ってくれたように見えた。ありがとう。クソみてえな親戚や知り合いばかりで、いい加減うんざりしていたところさ」



 そういって屈託なく笑った。その開けっぴろげな笑顔につられて、誠兵衛も心から笑う。


 ふたりは結局、次の日の朝まで飲みつづけたのだった。


 



「おう!」


 声をかけられて、誠兵衛は我に返る。


 いつの間にか、もう家のすぐそばまで来ていた。陽はとっくに落ちて、夜の帳が下りている。


 声のした方に振り返ると、友人が笑っていた。手には一升瓶をぶら下げている。



「おう! なんだ? 土産(みやげ)付きとは珍しいじゃねえか」


「ちょっといいことがあってな。一杯やろう。適当に肴(さかな)ぁ、見繕ってくれ。あ、漬物も忘れるなよ?」



 好き勝手なことを言いながら上機嫌でわめいたその友人は、誠兵衛が何も言う前に勝手に家に上がりこんでゆくと、奥の部屋にいるはずの、祖父の元へ挨拶に言った。



「あいつの目、やっぱりあのひとに似てるな」



 ひとりつぶやいた誠兵衛は、満天の星空を見上げた。


 夜空に彼女の顔を思い出して、目を細める。



「そっちはどう? 元気にやってるかい? 俺のほうは、まだ当分、ひとりでいることになりそうだよ。あなたみたいにステキな人が見つかったら、必ず報告する」



 そう言って優しく微笑むと、誠兵衛は彼女の息子、親友の待つ家の門をくぐった。


閑話/了

 


参考文献:謎ジパング~明石散人

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