第5話
ガタッ、ガタッ。
底冷えのする師走の闇に、小さな音が響く。
続いて押し殺した声が聞こえてきた。
「冬一郎、いるか?」
誠兵衛の問いに冬一郎が小さく答えると、幸福の実り本部の裏口が細く開かれた。中の薄明かりが表にもれて線を描く。その光の線は見る見る太くなり、扉はやがて完全に開かれた。
中からのそりと誠兵衛が姿をあらわし、その後ろから奈津が顔を出す。
二人とも真っ白い無地の浴衣を着込んでいた。幸福の実りの信者の、言わば制服である。
冬一郎はその姿を見て、「奈津はともかく誠兵衛がこんな格好をしていると、牢屋に入っている囚人みたいで変に似合いやがるな」などと余計なことを考えていた。しかしまあ、さすがにこの緊迫した状況でそんな軽口も言えず、
「おう、ご苦労だったな」
言葉に出しては誠兵衛を短くねぎらう。
誠兵衛は無言でうなずくと、奈津を支えて冬一郎の前に差し出した。するとなにやら、彼女の足元が怪しい。冬一郎は誠兵衛を見返す。無言の問いに誠兵衛はぶっきらぼうに答えた。
「しびれ薬を飲まされたようだ。頭のほうはハッキリしてるから、洗脳のためってよりは逃げ出さないようにだろうな。まったくあの外道ども、ひでえことしやがるぜ」
それを聞くと冬一郎もいまいましげな顔をする。
しかしこのままそう話し込んでるわけにも行かないので、奈津を背負うと誠兵衛を見た。
誠兵衛もうなずき、二人は走り出す。
「先生! 危ない!」
見張り役のセイがそう叫ぶのと、暗がりから誰かが飛び出して冬一郎に襲い掛かってきたのは、ほぼ同時だった。奈津を抱えているため反撃もできず、冬一郎は間一髪、身体をひねると必殺の斬撃をかわす。
後ろにいた誠兵衛が懐に手を入れた。
すると、それを見たセイが誠兵衛の傍らに飛んでいき、押しとどめる。
「門倉の旦那、そいつぁいけません。大騒ぎになっちまう」
「もう、充分大騒ぎじゃねえか」
言いながら、誠兵衛は懐のモノを抑えた。そこへ冬一郎が奈津を背負ったまま走りこんでくる。
「誠兵衛、手伝え!」
「俺は茶人だ。力仕事はおまえの領分だ。奈津ちゃんは俺が預かるから、心置きなく戦え」
「ち、楽ばっかりしやがって」
叫びながら奈津を誠兵衛に押し付けると、冬一郎は構えた。
ここまでのやり取りの間に、『幸福の実り』本部の中から出てきた剣呑な男達は、いつのまにか10人ほどにもなっていた。深夜、暗がりの中で十人の男達がひとことも発しないままこちらを伺っている構図と言うのは、あまり嬉しいものではない。
特に、こちらの安全を保障する意志が、向こうにないとわかっているときは。
と、その男達の列が割れて、後ろから誰かが出てくる。
「やはり、いらっしゃいましたね、先生」
声と同時に裏口から出てきたのは、ふたり。
恰幅のいい赤ら顔の男と、対照的にひょろりと背が高く顔色の悪い男。
白浜幸甚と、息子の新之助である。
「その娘は我が家の大事なお嫁さんです。先生、横恋慕で誘拐なんざ、あんまりみっともいいものじゃありませんよ? 顔見知りのよしみで警察は勘弁してあげますから、娘を置いて帰っちゃもらえませんかね?」
「なに言ってやがる悪党! 息子にそそのかされて、若い娘をかどわかすなんざ、本当にどうしようもねえバカだな、おめえ。てめえの息子が少しでも可愛いなら、もうちっと世の中ってモンをきちんと教えてやれってんだ」
冬一郎の叫び、特にバカと言うセリフに、新之助が敏感に反応する。
わかりやすい男である。
「なんだと、このヤロウ。風呂屋の女将とねんごろのクセに、奈津ちゃんに手ぇだすなんて、ふといやつめ。いいから奈津ちゃんを離して、とっとと尻尾を巻いて消えうせろ! この野良犬」
「バカかてめえ? 男と女なんて貝合わせや神経衰弱じゃねえんだよ。いい男なら、いろんな女が惚れてあたりめえじゃねえか。てめえこそ親父がいなくちゃ何もできねえガキなんだから、家に帰っておしめ替えてもらってろ」
吼える冬一郎に、白浜幸甚がいやらしい笑いを見せる。
「なるほど、先生みたいな荒っぽい御仁には、口で言っても判ってもらえんようですな。まぁいいでしょう。力づくでも奈津は返していただきますよ」
「上等」
冬一郎は愛刀
その脇でセイが、つばの広い忍び刀を抜刀し、逆手に持って構えている。
誠兵衛は奈津を後ろにして、板塀のそばで傍観の構えだ。奈津に向かって片目をつぶると、冬一郎を指さして言った。
「奈津ちゃん。こいつぁめったに見られないから、よく見ておくといい。あれが冬一郎の技、|捕手神明菊島流(とりてしんめいきくしまりゅう)・腰(こし)の廻(まわり)だ。基本は柔術なんだが、もともと戦場の武術だから剣術も実に鋭い。特にあのバカの抜刀は、なかなかのものだよ」
「とりてしんめい……こしのまわり……ですか」
奈津はまるきり訳がわからないといった具合であるが、誠兵衛のほうはもはや冬一郎に注目しているので答えない。
十人の男達は、これだけの人数の差をものともせずに口元には笑みまで浮かべているこの得体の知れない男に対して、少々気味悪さを感じているようだ。しばらく逡巡していたが、不意にひとりが突っかけた。緊張に耐え切れなくなったのだろう。
上段に構えた刀を、気合もろとも振り下ろす。
ふんっ!
ばつっ!
一閃した冬一郎の愛刀「虎鉄」に胴をなぎ払われたその男は、二、三歩たたらを踏んでから、どうと地面に倒れた。そのときにはもう、虎鉄は冬一郎の鞘に収まっている。それを見た血の気の多いのがふたり、今度は同時に飛び掛ってくる。
と、ひとりの前に、黒い塊が音もなく降ってきた。
降って来たと思ったときには、男の脳天は唐竹に割られていた。セイが板塀を蹴って舞い上がり、上から忍び刀で切り下ろしたのである。刃肉の厚い忍び刀で唐竹割にされたため、男の頭は爆ぜたようになっていた。
もうひとりがそちらに気を取られた隙に、冬一郎の虎鉄が舞う。
あっという間に三人切られ、男達は怖気を振るった。
返り血を浴びた凄惨な笑顔で白浜親子を睨みつけながら、冬一郎とセイはじりじりと間合いを詰めてゆく。一歩詰めるたびに、男達との間に緊張が満ちてゆく。
「来な」
冬一郎が声を上げると、緊張の糸が切れたのか、男達は一斉に逃げ出した。
いくら荒事に慣れてるとは言え、立て続けに仲間の凄惨(せいさん)な死に様を見せられては無理もない。平聖(へいせい)の今日(こんにち)、実際に斬り合いを経験しているものなど、数えるほどしかいないのである。普通は刀を抜いた時点で、どちらかが怖気(おじけ)をふるって片がついてしまうことがほとんどなのだ。
あっという間に蜘蛛の子を散らしてしまった男達の後ろ姿を見送りながら、 冬一郎は唖然としている親子に向かって、虎鉄に手を掛けたまま詰め寄ってゆく。人を斬った興奮で真っ赤になった顔は、まさに鬼の形相である。
幾分冷静なセイは、止めようかどうしようか逡巡(しゅんじゅん)していた。
そこへ誠兵衛から声がかかる。
「セイ、止めてやンな。ああなったら酔っ払ってるのと一緒だ。ほっといたらみんな斬っちまうぞ」
誠兵衛の言葉を聞いて、白浜親子は震え上がってしまった。
新之助は腰を抜かして失禁してしまっている。
恐怖に声も出せず親子抱き合って震えているところへ、殺気の塊のような冬一郎がずんずん近寄ってゆく。
これはいかんとセイが止めに入るために駆け出したとき、何台ものエンジン音が近づいてきた。すぐに周りが明るくなる。みなが驚いて振り返った。さすがに冬一郎の足も止まる。光の方を見ながら、まぶしそうに目を細めると、
「そこまでにしておきましょう、菊島さん」
煌々(こうこう)と照るヘッドライトの中からあられたのは、警察署長の
「おお、いいところにきてくれた、署長。早くこの狂人をお縄にしてくれ。まったく、もう少しで殺されるところだったよ」
「ほほう、菊島さんは狂人ですか?」
「そうとも、こいつは狂ってる。見ろ、そこに倒れているわしのボディガードも、みんなこいつが斬ったんだ。早く捕まえて連れて行け」
わめいている幸甚を冷淡に眺めながら、葵は肩をすくめた。
「狂人なら人を斬ってしまっても、罪には問われないかもしれませんね。幸いまだ野次馬も出ていないようだし、もう少し菊島さんに暴れてもらいましょうか」
「な、何を言っているんだ? 署長、冗談はやめろ」
「冗談……のつもりはないんですが。あなたみたいに阿漕(あこぎ)な人に限って、捕まえてもなかなか尻尾を出しませんからね。保釈金をつんですぐ出てきてしまうし。いっそのこと、この好機に菊島さんに斬ってもらうほうが世の中のためかもしれません」
「貴様、何を言っているんだ! 早くこの狂人を捕まえないか! わしは本庁のお偉方とも繋がりがあるんだぞ? 貴様の首なんぞ、簡単に飛ばしてやれるのだぞ!」
そう叫んだ幸甚に向かって厳しい顔をしながら、葵は数枚の紙切れを取り出した。
「白浜幸甚。あなたには『幸福の実り』信者に対する詐欺罪、傷害罪、および脱税の疑いで逮捕状が出ています。それから拉致監禁の現行犯ですね。では失礼して、あなたの身柄を拘束させていただきます」
きょとんとしている幸甚の両腕を、制服警官が二人で固める。
それをぼけっと眺めていた冬一郎のところへ、葵が寄ってきて笑いかけた。
道端に倒れている男達の死骸を指差しながら、
「菊島さん、あなたの正当防衛は私が証人です。あとはまあ、不法侵入したわけでもないようですし、お引き取りくださって結構ですよ。事情聴取は、あとで署のものが伺いますから」
狐につままれたような顔をしている冬一郎、誠兵衛、セイ、奈津に向かってこぼれるような笑みを見せると、葵秀庵は何事もなかったかのように立ち去っていった。
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