第3話

 

 ぷうっとふくれたっきり、横を向いたまま口をきかない鈴(すず)を前にして。


 冬一郎(とういちろう)はすっかり弱り果てていた。


 いつもの冬一郎の真似をするかのように、窓っぺりへ斜(ハス)に腰掛けた鈴は、何を言っても聞こうとしない。それどころか、いつもなら何も言う前から甲斐甲斐しく膳や酒の支度をするこの女将が、どかっと座ったきりテコでも動こうとしないのだ。


 仕方なく冬一郎は手酌でやりながら、何を怒っているのかそれとなく探りを入れてみる。


 だが、鈴はそんな冬一郎の方を見ようともしないで、こちらも手酌でぐいぐいと盃を干している。



「おい、そンなにいっぺんに呑んじゃあ毒だぜ? そういつまでもふくれてないで、訳を話してみちゃあどうだい」



 鈴は悲しそうな顔で、ちらっと冬一郎を見る。


 と、当てつけるようにぐいと杯を干し、また自分で盃を満たす。


 冬一郎は、ため息をついて肩をすくめるほかなかった。


 座布団を二つ折りにすると、それをマクラにごろりと横になる。袴のすそから脚を剥き出しにしたまま、畳の上に置いた盃に酒を注ぐと、珍しくワンピースを着た鈴の横顔を肴に、ちびちびと呑(や)りはじめた。



(洋装もいいものだな)



 などと、呑気なことを思いながら黙々と盃を干していると、下のほうから声がかかる。



「おやおや、先生。なんです? どっかで女でも買いなすったんですかい? 鈴姉さん、ずいぶんと荒れ模様じゃあないですか」



 情報屋のセイが、声をかけつつニヤニヤしながら階段を上ってきた。ユメヤの二階には今、客が誰もいない。そのため風通しの意味で小座敷の窓からふすまから、全部が開け放してあった。師走の晴天のおかげで、日の高いうちは風でも吹かない限りそう寒いこともない。


 ふすまをまるっきり開け放していたのだから、階段を上ってきたセイには冬一郎の困った声がそれこそまる聞こえだったに違いない。用事があって彼を探していたセイは、それを忘れて冬一郎をからかう。


 朝風呂と夕方の間は、風呂屋の一番ひまな時間でもある。


 もう一時間もすればお昼、と言う中途半端な時刻に、風呂屋の二階で酒なんぞを飲んでいるのは冬一郎くらいのものだ。そう当たりをつけてユメヤにやってきたら、思いもかけず面白い場面に出くわしたと言うわけだから、セイの口元が緩むのも無理ない。



「うるせぇや。てめえ、何しに来やがった」



 照れ隠しに大声で叫んだ冬一郎は、鈴を横目で見ながらぐいっと盃を干す。


 鈴の可愛らしい口元はまだふくれっつらをしているが、それはそれでまたいいものだなと、この男らしい太平楽な思いが頭を掠める。



「おっといけねえ、それで思い出した。先生、またまた妙な話に首を突っ込みましたね? 大丈夫なんですかい? ちゃんと絵面(えづら)は見えてるんでしょうね?」


「ち、さすがに早耳だな。しかし俺ぁ首を突っ込んだわけじゃないぞ? 向こうから、どうしてもと頭を下げてきたんだ。以蔵が言い出したことじゃなきゃおめえ、いくら俺が物好きったって他人の……ああ、そうか! 鈴! おめえそれでふくれてやがるんだな?」


「やっと気づいたんですかい? 先生も大概、鈍いね。あしなんざ、先生が奈津ちゃんと連れ立って歩いていたって噂を聞いたときから、こりゃ鈴姉さん、心中穏やかじゃあるまいと気をもんでいたって言うのに」



 懐中からショートホープを取り出して100円ライターで火をつけると、セイは呆れて大声を上げた。そして傍(かたわ)らまでやって来る否や、ちゃっかり冬一郎の膳から銚子を取り上げて勝手に呑(や)りはじめている。


 一方、コトの次第にようやく思い当たった冬一郎。


 よっこらしょと腰を上げると、窓っぺりの鈴のそばに寄ってゆく。


 鈴は下を向いたまま、こちらを見ようとしない。


 その足元にあぐらをかくと、冬一郎は下から覗き込みながら言った。



「鈴、まあ聞けよ。おとついのことだ。突然、以蔵と奈津が二人で、俺の道場を訪ねてきたんだよ。んで二人の言うことには、奈津のオヤジさん、あの業突くのウネミヤが困っているから助けてくれないか? とこう来るわけだ」



 鈴はようやく顔を上げると、冬一郎の顔をまっすぐに見た。


 こうまっすぐ見られるのも、なかなかくすぐったいものだなと、冬一郎の話が途切れる。


 それを察したセイがあとを引き取った。



「ウネミヤの一番のお得意先ってのが、シラハマなのはご存知でしょう? あこの長男坊ってのが、これまた箸にも棒にもかからない、とんでもないゴクツブシなんですけどね。ヤロウ、奈津ちゃんに熱を上げちまったんです」



 話を切ったセイは、小首をかしげた鈴に促され、先を続ける。



「シラハマの旦那ってのは、一代であの店をいくつもの支店を出すまでに大きくしたやり手なんですがね。ご多分に漏れず息子には甘くって、長男坊の新之助は、やりたい放題なんですよ」


「うちにも時々いらっしゃいます。いつも何人かのお仲間と連れ立って、色町に出る前の景気付けに、一杯やっていかれます」



 鈴の応えに、うなずくセイ。



「その新之助が、親父のお供でウネミヤを訪れた際に、奈津ちゃんを見初めたという次第でして。まったく鼻持ちならない助平(すけべい)ですよ。奈津ちゃんには以蔵って想い人がいるってのに」



 なにやら我が事のように憤慨(ふんがい)しながら、セイは銚子の中身を湯飲みに空けて、ごぶりとやる。


 冬一郎が文句を言う前に、大根とあぶらげを煮た肴をつつきながら話し始めた。



「まあ、ここまではよくある話なんですが、その後がいけねえんです。新之助にねだられたシラハマの旦那が『奈津ちゃんを嫁によこせ』と無理を言い出したんですよ」


「お断りできないんです?」


「鈴姉、そりゃ無理ですよ。シラハマが預金を引き上げたらウネミヤなんて、ひと月も持ちゃしませんぜ? 地方銀行法なんざアテになりませんからね、今のご時世。もちろんシラハマだって面と向かってそんなこと言いやしませんが、あこの親バカぶりは有名ですから」


「娘を嫁によこさなきゃ、てめえの店をつぶす。くらいの脅し、仕掛けてきてもおかしかないって訳だよ。そこで一計を案じた俺が『俺と奈津がデキてる』ってことにして、新之助を諦めさせようてな絵図面を引いたわけだ」



 わかったか? と言いた気に、冬一郎は鈴の顔を覗き込む。


 目が合うと急いで横を向いた鈴だったが、それでもその横顔に、もう怒っているそぶりがないことを見て取ると、冬一郎はほっとして盃に手をのばした。



「新之助だろうがシラハマの旦那だろうが、腕が立つ先生なら何てこたぁないですからね。これが以蔵さんじゃあ、そうはいかない。あの親子のことだから、どんな悪だくみを仕掛けてくるかわかったもんじゃありませんや」


「悪だくみ?」



 やきもちがアサッテだと判ると、今度は急に冬一郎の身が心配になったのだろう。


 鈴は眉根を寄せながら立ち上がり、セイの前に座った。可愛いものである。


 冬一郎はセイに説明役を押し付けることに決めたのか、鈴と入れ違いに窓っぺりに腰掛けて、湯屋の前を通る街の人々に、何とはなしに目をやっている。もちろん片手に盃をつかんでいることは言うまでもない。



「そうです。シラハマの旦那っていや、あっこまで身代を大きくするために悪い連中とも結構つるんだようですからね。息子の恋敵を消すくらい、造作なくやるでしょうよ。まして今ぁ師走だ。年末、強盗にあって殺されちまったたなんて話は、腐るほどありますからね」



その点、腕の立つ冬一郎なら、シラハマもめったな真似はするまい、と踏んでの計画と言うことらしい。鈴は蒼い顔をしながら冬一郎の方を見やる。さっきまでふくれて知らん振りを決め込んでいたので、今更あらためて「大丈夫なんですか?」とも言えず、黙ったまま下を向く。



 鈴のそんな内心を知ってか知らずか。


 いや、この男の場合まちがいなくそんなことは知りもせず、間の抜けた調子で鈴の機嫌を取る。



「つまり、まあ、そういうことだ。解かったらいつまでもふくれてないで、協力してくれよな? 俺はこないだの件(前話参照)もあって、こうなりゃ意地でも、以蔵と奈津を添い遂げさせてやりてえんだよ」



 鈴は仕方なくと言った体(てい)でうなずいた。


 その様子を見ながらセイは



「まったく、人の恋路の心配してるヒマに、てめえの方をさっさと片付けりゃいいのに。先生も、たいがい、おせっかいなひとだねぇ」



 と、独り言を言った。


 そうは言いつつ、セイにしても冬一郎の噂を耳にするなり、おっとり刀で飛んできたわけで。


 おせっかいは似たようなものなのだが。



 

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