第6話 悪魔の夢は水面の月



 夜道の街路。大量の土砂の中に微かにちらつく砂金のような星たち。我が物顔で青光るフルムーン。しかし、耳を澄ませば情緒を壊すエンジン音やけたたましいサイレンの電子音が神秘性を失わせる。朝でも昼間でも夜でも、悪魔たちはうごめきまわる。こんな思いをせた1日だろうがお構いなしに。


 いじめ、挫折、死、弱さ……涙。何かできることはあるのだろうか? せめて、見知った人、頼ってくれる人のために何かしてあげたい。いや、そんなかっこつけた考え方は建前だ。冷たい雨でずぶ濡れな人に傘を差し出してもよいのかもしれない状況に高揚しているのだろう。

 しかし、それも自分勝手な話しだとアルコールの入った脳が冷静に違う角度から問いただす。ずぶ濡れで凍えている人が何をどのように感じ、どの程度苦しんでいるのかを理解しようとしなければ意味がない。完全に理解できるものでもない。何をするのが傘で雨を防ぎ温めれることを意味するのか。実行できなければ、薄っぺらな偽善の自己満足になってしまう。じゃぁ、何をする?


 理屈ばかり。何が良い悪いと堂々巡り。答えを求めるが、悩んだ末に試験時間は終わり、結局何もしなかったことが正しかったと正当化する。いつものこと。だけど、そんな心を見透かす月明かりが、心をざわつかせる。



 アパート手前の曲がり角を迎えたところで、ピロリン♪と電子音が鳴る。何も考えずにスーツのポケットで忘れられていたスマートフォンを取り出す。



【お疲れ様です。阿久津先生。


 夜分に突然のご連絡失礼します。


 昼間は情けないところをお見せしました。


 担任なのに、何も出来ない自分が情けなく


 て……。心の内を聴いてもらい、少しだけ


 スッキリしました。ありがとうございます。


 情けない話ですが、また話を聴いていただ


 けたら助かります。


 お疲れなところ、夜分遅くにご迷惑をおか


 けしました。


 天崎使恩              】



 タイトルには【ありがとうございました】と記されている。


『ありがとう』


 外川道雄の話を思い出す。「ありがとう」と感謝を忘れずに亡くなったお年寄りと、それに動揺せずには要られなかった友人。彼が無力感に苛まれ、夢や生き方に悩んで肩を落としている姿。

 今なら分かる。そんな相手のできる限り力になりたい、そんな相手の力にほんとになれたのか、その心情を。



 夜のしじまに、タァンッ、タァンッとコンクリートを登る足音が響く。手摺てすりを使わずに登りきる。鞄のいつもの場所に手を滑り込ませ金属の手応えから鍵を取り出し、部屋のドアを開ける。外より深い闇を、知恵という罪で作り出した光で照らす。祝福など遠く及ばない光は、無機質で冷ややかな根城の有り様を映し出す。

 鞄を置き、草臥くたびれたスーツをハンガーにかけ、ユニットバスに駆け込む。何の疑問もなく注ぎ出されるお湯のシャワーを浴び、世界に揺蕩たゆたよどみで汚れた身体を清める。身体の爽快感が心のに風を吹きかけ、ドライヤーで髪を乾かし、取り出したよく冷えたミネラルウォーターを飲むころには鮮明な心模様になっていた。

 鮮明になったが故に思考がはたらきだす。寂しさをまぎらわすためにつけていたネット動画をBGMとして、意識が勝手に集中していく。


 いじめや差別、生や死。そんに大きなことではなく、先ほどのメールの返事の内容についてだ。

『僕に任せてください』などとカッコつけれるほどの自信もない。

『大変ですが頑張ってください』などとありふれた、我関せずな対応も釈然としない。

 だからといって何も応えず、何もしないのはもう辞めようと自分に誓った。この誓いを破れば、自分で決めたことすら守れない本当の悪魔になってしまうような強迫観念がある。

 また思考の輪が廻り出す。踏み出せぬのは、その道の先が見えないから。知らないことは怖いことだから……


 真新しい水滴が残る空のペットボトル。ふと眺めるベランダの空。心に問う月光。

 瞳孔が異変を感じ開き出す。寒空のベランダに飛び出す。その手に握られたスマートフォン。勢いそのまま、意志の加速度が落ちる前にと、親指はいたった答えをつづり始める。



【件名:頑張りましょう。】


【お疲れ様です。天崎先生。


 返信が遅くなり申し訳ありませんでした。


 頑張っております先生の心中を察すること


 が出来ず、1人で奮闘させてしまっていた


 ことを深く反省しています。


 私に出来ることがあれば、出来る限りの協


 力はします。何か良い解決策がないか調べ


 てみます。


 無理し過ぎて身体を壊さないように気をつ


 けてください。


 阿久津聖人             】



 冷気と闇のなか、胸に確かに感じる熱。懐かしく愛おしいこの温かみが、色彩を変える。漂う匂いすら好ましくさせる。


 見えている世界。聞こえてくる世界。降りかかる光の眩しさも、鴉の鳴き声も、刹那に通り過ぎる街並み、人、匂い、音、刻。あらゆる事柄が姿を変え、だが見えない波となり心が揺れる。心の形が変わる。

 心の有り様が感情を産む。『楽しい』は楽しい心の形から生じる。『悲しい』は悲しみの心の形から噴き出る。だから、みな心の形を整えようとする。美味しいものを食べたり、好きな人と過ごしたり、賑やかな番組を観たり、無意識にでも求める。朝の占いの結果が良かっただけで、心の有り様が明るくなる。それは心と世界が繋がっているから。

 そこにある世界にあるものすべてが心と因果関係にあり、それ故自分もその世界の誰かの心に影響を及ぼすはずである。


 この夢はもう終わる。夢でない現実世界の記憶はない。悪魔がいない世界であろうと身勝手に都合よくイメージしている。そこは人が人らしく過ごす世界であると。

 またこの夢の続きを見れば、そこは自己だけの悪魔たちが不気味に俯き行進しているだろう。無常な世界は変わらない。それどころか、病魔が進むかのように徐々に荒んでいく。

 世界は変えられない。でも、自分に関わる、関わっていきたいと願う人たちだけでも変えることができるかもしれない。些細にでも心の形を変えれるかもしれない。


 闇だけを見つめ、虚空に踊らされることを断ち切りベランダから部屋に戻る。人工光にすら祝福されている錯覚におちいり、変哲の無いミネラルウォーターを一口含み清める。


 夢の終わり。ベッドの上。名残惜しさと胸の熱を感じながら、まぶたを閉じる。


 夢が終わった部屋に電子音がこだまする。ケーブルで繋がった硬質な物質の画面に件名が映し出される。



【ありがとうございます】



〈完〉

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悪魔の行進 二神 秀 @twoonsky

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