第5話 悪魔の言葉に宿る愚かさ



 黄昏時。光のスペクトルは街路樹の冬支度を隠すような茜色で世界を包む。烏の鳥衆は訪れる闇に対して、ギャラルホルンの笛の音が如く鳴き声を上げる。

 しかし、それは夢の終わりの近づきを知らせる旋律でもある。いつもなら安堵の帰路になるのだが、この夢はどうやらいつもと違う。

 昼休みの情動。そして、これから半年ぶりに会う旧友との食事会。珍しくも1日の内にイベントが複数起こるという日は、振り返ってみてもなかなか思い出せない。ふと高校時代、小さな勇気で告白したが振られ、その帰り道で乗ってた自転車が左折してきたワゴン車に巻き込まれて腕を骨折したことを思い出す。大概、イベントが重なる時は悪いことが重なってきたな、と刺しつけるオレンジの中、過去の1ページを思い出す。


 通行の邪魔になることなど考えていない路上駐車された車。横断禁止の看板の脇を何食わぬ顔で通り抜けて道を渡るスーツの男。商店街で歩きタバコをする若者。人混みの中、子供を乗せ急ぐ女。こんな時でも、目に入るいつもの景色にいつもの嫌気がさす。自己中心的な悪魔の振る舞いに。


 電車内。優先席に座り目の前に立つ老人をよそに、俯いてスマートフォンを触る若い女。何を勘違いしているのだろう。知らなかったと言えば問題ないとでも思っているのだろうか。過失という言葉を知らないのだろうか。昼間の裏サイトでのいじめもそうだ。標的がどんな心模様なのか考えられないのだろうか。



  ◆   ◆   ◆   ◆



 最寄駅のホームに降りると、帰り道を急ぐ群衆が我先にとエスカレーターに群がる。そんな流れに合わせて改札を出て、到底意味を読み取れない女性の像のモニュメントのそばに目を忍ばせる。待ち合わせ5分前にも関わらず、かつて見知った顔を見つける。


 外川とがわ道雄みちお。背格好は標準的で、短めの髪はキチッと整っている。カージナルレッドのジャケットは、外川のお気に入りで、昔からよく着ていた印象がある。彼もこちらに気づき、軽く挙げた右手と視線をこちらに送る。


「おぉ、お疲れ様、聖人まさと。久しぶり〜」


「お疲れ様。ホントに久しぶりだよな。前に会ったのって、GWだったっけ?」


「あー。そうだそうだ。GWなのに予定もなさそうだったから、誘ってやったんだった」


「言い方! 確か暇だったけど……あ、そうそう、彼女に振られてやけ酒に付き合わされたのは俺の方だったじゃん」


「やけ酒の相手に選んでやったんだから光栄に思えよー」


「ウワー、メッチャウレシイ」


「感情込め忘れてるー」


 交わし慣れた会話のリズム。互いに柔和にゅうわな顔。懐かしさに無意識の緊張感が少し緩む。


 駅から1番近くの居酒屋チェーンに入ったときには空を黒が支配し出していた。とりあえず、中ジョッキで生ビールを2つ。タブレット端末のメニューから、焼き鳥の盛り合わせ、大根サラダ、若鶏の唐揚げ、キムチ炒飯と大学時代と同じつまみを注文する。


「おつかれー」とジョッキをカチンと合わせ飲んだ一口目はいつもより美味しく感じた。暫し、思い出話を冗談混じりに楽しむ。つまみも揃い、2杯目の生ビールがテーブルに置かれたころ、外川道雄の目がかげり視線を落として改まって話を始めた。



  ◆   ◆   ◆   ◆



「俺、仕事辞めることにしたわ」


 何か話したいことがあるのだろう、とは思っていたものの驚く。自分みたくフラフラと仕事をしているのではなく、道雄は学生時代から介護の仕事を望んで選んだ。以前に会ったときも、やりがいを感じているのを察することができた。それなのに……


「そっ……か。まぁ、いろいろあるよな」


 気を遣った挙句、曖昧な言葉を選ぶ。理由を素直に聞けるほど、もう子供ではない。


「そぉ……いろいろあったんだよ……想像してたことだったけど、考えが甘かったわ」


 ゆがんだ微笑みが、友人の心が折れてしまったことを嫌でも解らせる。



 高齢介護。『少しでも長く生きたい』と思うのは悪魔だろうが人間だろうが生き物であれば当然の本能だろう。老い、病、怪我などから自由を失っていく。それでも生きようとする。だが、失っていくのは身体的なものだけではない。自由な精神をもむしばんでいく。

 悪魔の心は弱い。という心の支えが無くなれば、心は壊れ本能が剥き出しになる。それは他への感謝や思いやりを忘れ、自身だけの都合のみが支配する。そうなれば、それはもう悪魔でもなく人語を語る獣でしかない。

 介護とは、そんな獣に誠意をもって手助けするという側面がある。ときには、心にもない暴言が耳に入り、暴挙ともとれる身勝手さが目に入り、力になれない歯痒はがゆさが心を折る。

 外川道雄にとって希望と覚悟をもって挑んだ仕事だったが、現実の現場と現状で想定以上の悲痛が突如現れた。

 それは死。入職以来、彼に心をもって接してくれた80代の男性は、癌をわずらっていた。それにより腰の痛みにさいなまれ、外出も家事も困難をともない、身内が介護に救いを求めた。

 徐々に食欲も無くし言葉も少なくなっていったが、介護のスタッフが帰る時には必ず「ありがとう」と優しい目で伝えてきた。

 そんな男性の死は一本の電話で知ることになった。告別式で男性の顔を見せてもらい、満足な死を迎えられたのだろうか、と思わずにはいられなかった。それが迷いを産み、仕事の継続を困難にし、健康にも支障が出始めたことで、外川道雄は仕事を辞めることにしたとのことだ。



「大変な仕事っていうのは分かってたんだけどさ……死に対して何にも出来ないってことがつらくてさ。医者でもないし、自分の無力さを嫌でも思い知ったよ」


 そう言ってビールを飲み干す彼に「とりあえず、少しのんびり過ごしてじっくり考えてみるのがいいよ」と気休めにもならないことしか言えなかった。


 あまり飲ませるのは危ないと思い、21時になる前にお開きにした。「なんかあったら、また飲もうな」と駅の改札で見送る。いつも前向きだった彼の気落ちした後ろ姿に、やはり悪魔の心は弱いものだと実感する。



 人工光が闇夜を照らす。酔い覚ましに買ったミネラルウォーターを駅前のベンチに座り行儀悪く口に運ぶ。街並みには、悪魔たちが家路に着くため行進していく。悪い酔いのせいか、外川道雄のせいか、生と死が頭をまわる。

 

『ありがとう』


 そう他者に感謝をしながら死ねるのはどんな気持ちなのだろう……


 他者に感謝もできずに生きるのは本能なのだろうか……


 自己の利益を優先する生き方は悪だろうか……


 誰かの為にと行動することは正しいのだろうか……


 生と死。正と悪。生き方と在り方。夢と現実。それらは表裏であり対をなす。「正しい」という叫び声が、他者を切り裂く悪となる。


 では、悪魔と表裏一体で対となるものは何だろう?



 極彩色のいびつな光は、現実を微睡まどろに変えている。夢を見ることに疲れた。グググッと引き止める見えない手に争い、立ち上がり、世界をにらみながら歩き出した。


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