第4話 悪魔の瞳は虚ろな空



 カチャカチャ、ガチャァ。ギィィー……


 壁から背を離し、首と瞳が瞬時に音の発信源に向く。初めてのことだ。聖域をけがす悪魔の来訪に鼓動がドクンッと高鳴る。開かれるドアの死角から現れる気配を、スローモーション再生される景色の中、目で追う。


 うつむく頭部、丸めた背筋、のそのそと運ばれる脚部。長い髪が垂れ下がり顔が見えないが、羽織った薄紅色の上着に緊張の糸がスッと緩んだ。見覚えがある。


 しかし、侵入してきた2日酔いが残っていた悪魔はこちらに気づかず、5歩6歩と進み立ち止まる。糸が切れたように、座り込む。


「うぅ……うううぅ……うぅぅぅ……」


 初めてのことが続く。女性の泣いている姿。悪魔の心は弱い。ただ見つめることしかできない。気づいたら額の汗すら、ぬぐうのを躊躇ためらい流れ落ちる。雫がこぼれ落ちた雨晒あまざらしの床を見て、自分の額の汗の量に気づき、ただただ拭おうと右腕を動かす。


カランッ。


 指に触れた感触と共に缶コーヒーが倒れて、無遠慮な金属音を響かせた。泣き崩れていた悪魔がこちらに顔を向ける。


「! ……え、なんで! ここにどうして? 阿久津先生?」


 しまった。遅かれ早かれ気づかれることになったとはいえ、不意のことに言葉が詰まる。赤くなった目元には湿ったつやが内包し、瞳には驚嘆と羞恥の奥にやり場のない闇が垣間見える。何もせずに立ち去ることを許さない見えない鎖が身体に巻きつく。


 心で「うん」とうなずき、半強制的に立ち上がる。歩み寄りながらポケットの中にハンカチを見つけ出す。


「はい。天崎先生。とりあえず、これ、使ってください」


「ありがとうございます。うぅぅ……、すいません。みっともないところをお見せして」


 差し出されたハンカチを遠慮がちに受け取ると、思い出したように涙がまた流れ始めていた。


 悪魔は感情が容量を超すと、涙があふれるらしい。無自覚に他人を、他の種を、世界を蹂躙じゅうりんしているのに。



【○○、キモイんだけどw】


【○○の家って、貧乏なんだって】


【○○に触るとなんか感染しそー】


【○○って絶対結婚できないっしょ】

【てか、恋人もできないって】


【お前、○○とエッチしてみろよ】

【死んだ方がましー、マジキモい】


………………………………


【○○なんて、死ねばいいのに】



 手渡されたスマートフォンの画面には、一方的な罵詈雑言が無数に陳列していた。最新の投稿は、今日の2限の授業中の時間が表示されている。『2のニ』と名付けられた匿名掲示板には、毎日毎日何度も何度も、悪魔たちは偽名・匿名で、実名の1人を言葉の刃物で滅多刺す。右にならえと一斉に、何も考えずに他者を傷つけることを楽しむ饗宴きょうえん。悪魔の性……。


 うつろな表情で焦点を定めない蒼への視線。スマートフォンを返されると、天崎天恩は悪魔の掲示板の画面を閉じる。


「はぁ……どうしたらいいんでしょうかね……」


「……」


 彼女が担任になってから半年。担任を初めて任されたクラス。桜が咲いていた頃には考えられない瞳のかげり。このクラスの今に至るまでの状況を考えれば、当然の変化だろう。


 GW頃には、俗にいう【裏サイト】は稼働していた。これは最初のターゲットにされ、今も学校に出て来れずにいる生徒の母親の怒声からもたらされた。学年主任を務める鬼原きはら畜郎ちくろうは即座に事態の調査に乗り出した。問題となった裏サイトの特定、各クラスへのアンケートの実施、関係者とおぼしき生徒への聴き取り。ここまでは迅速だった。

 そして、事態が発覚して1週間後。緊急職員会議で伝えられたのは箝口かんこう令だった。教育委員会や保護者には『いじめの事実はなかった』と報告された。

 裏サイトも、サイト管理者に連絡をとったのか、いつの間にか掲示板は無くなっていた。しかし、しばらくすると他のサイトに掲示板が作られ、ターゲットを変えて同じことが繰り返される。

 そんなことが、このクラスでは他に2回起きていた。1人はまた不登校になり、1人は転校。そして今、4人目の生贄が見えないところで心を壊している。



  ◆   ◆   ◆   ◆



「鬼原先生に相談しても『何かあったらすぐに報告してください』『余計な行動は慎むように』と肩を叩かれるだけでして……」


「そんなことないですよ。天崎先生は、よくやっていますよ。HR《ホームルーム》で注意したり、家庭訪問したり、やれることはやっているじゃないですか」


「はは……鬼原先生の言うことをやってはいるんですが、言い訳づくりをしているみたいで……いじめにあった生徒や親御さん、クラスのみんなには、な、何も響いてないんですよね……が、頑張ってみても、何一つ上手くいかなくて……はぁ……」


 その口調は徐々に詰まり、涙声が混じりだす。弱気になってる姿も、愚痴を言っているのも今まで記憶にないことだった。


「どうしたら……いいんでしょうかね?」


 どうしたら? その言葉が胸にささる。次第に大きく感情を揺さぶる。そんなことを尋ねられたのは初めてだった。諦めた傍観者は、この世界に試された。


「え……っと、あの……」


 答えになり得る言葉が浮かばない。迷子の子犬のように、記憶の森をあてどなく彷徨さまよう。懸命に走り回るが、森の中には目印も道標どうひょうもない。

 それでも、それでも何か力になりたかった。自責の念もある。期待に応えたい想いもある。だが、それ以上に切実なものがあった。


 でありたい。


 何もしてこなかった。何もできないかもしれない。姿形は悪魔、無常な世界。しかし、心の引き出しの奥にしまった『人間でありたい』という情動がうずきだす。

 蒼ではなく、世界に目を移す。自分の生きる世界にピントが合う。心で「うん」と頷く。それは、自己実現欲求への意志のちぎりを交わした証。


「あの、えっと、よければ少し時間を貰っていいですか?」


「え?」


 彼女の虚ろな瞳そのままに、反射での受け答え。


「力になれるかわかりませんが、何かできる事がないか考えてみますので」


 ありがとうございます。そう小さく応えた彼女の目は、真っ青な蒼に視線を置いたまま、一筋の涙をこぼした。


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