雪の精霊
世は混沌としていた。
東部ではアガシ。
西部ではグーリコが乱を起こしていた。
道徳も人心もまるで乱れに乱れている。
ただ帝都デルチアだけはやはり華の都。
大理石の石畳は白亜と輝く。
あちこちの料亭から聞こえる楽曲の音色も美しい。
道行く人も皆、錦の衣に銀の馬車。
髪やら首やら耳元に宝石を輝かせている。
それははたまた銀河の星々のよう。
夜は更けゆくとも街の灯りは消える事もない。
あちこちの宮殿から聞こえる談笑も止まない。
東西に立ち上る反乱などここには無縁。
まるでよその出来事のようである。
今宵もまた中央通りに明かりがともる。
いくつもの馬車が静かに揺れて夜会へおもむく。
もっとも馬車とは名ばかり。
馬車をひくものは馬ではなく今や電動の自動車。
いいや、自動車とも呼べない車に似たものだ。
その外観は実に様々だった。
一角獣の動物に似せたもの。
真っ白な羽も美しい白鳥にひかせているもの。
それぞれに工夫をこらしてそれを楽しんでいる。
馬車だけでもその有り様。
ひとたび馬車の扉が開けばはたしてどうなるか。
中から出てくる人々の服装はそれは豪華だった。
その上にいちいち馬車から降りる度に、
青やら桜色の煙などをたくので
まるで神々か妖精が舞い降りるかのようだった。
中央の国会議事堂より直線的に延びた帝都中央通り。
そこから少しほど北にある歌劇場がある。
歌劇が始まる前から美の競演ははじまっている。
金銀様々な馬車が停まってそれを競っているのだ。
お互いにぜいたくの限りを尽くして
やれあちらの方が豪勢だのと悔しがる者もいる。
ただ見とれてはため息つく者もいる。
無粋、無粋と冷ややかに見る者もある。
もっともこの歌劇。
何も金持ちばかりの娯楽でもない。
質素な礼服に身を包んだ者達もちらほら見える。
その男の着ている服もそれであった。
しかしその男はひときわに人目を引いた。
美しく深い堀の顔立ち――。
その気概を示すような直線の鼻。
きりりとしまった表情に鷹のような眼光。
類まれなる美男子である事は間違いない。
何よりも背の高さは山のようである。
二メートルはゆうに超えるだろう。
胸板もとにかく厚い。
いかなる衣装すらその前に色あせてしまうほど。
彼は質素な礼服だったがむしろ上品に見えた。
派手な飾りの人がかえって軟弱に見えた。
今はこの男が何者なのか誰も知らない。
ただそのうちに誰かれとなく顔をよせ合う。
「あのお方はどちらのご出身かしら?」
「聞けばブルトリウス大学の学生とか」
「名はヴァルトール・レイモンとおっしゃるそうな」
「おお、何と凛々しきお名前である事!」
彼は貴婦人達のささやきなど気にも留めない。
級友と歌劇の内容を話し合っている。
級友の隣、よく見れば――。
パロラが美しい礼服に身を包んでいる。
気恥ずかしそうにパロラが言う。
「礼服を着るのは久しぶりだわ」
兄があきれた顔でたしなめた。
「普段からあんなに短いスカートのくせに」
パロラはふくれた。
「そういうのとは違うのよ、兄さん!」
レイモンが二人の会話に笑みももらした。
「そろそろ開演だね」
「うん」
ひときわ愛らしい声で返す少女の姿。
普段学校などで見せているそれとは大違いだ。
何故、いつもそうなのか。
レイモンの級友ジョーゼルにはそれがわからない。
* * *
かかる民の誇らしき武勇よ
ああ血潮は流れ
屍が幾重に横たわるとも
我がマケルタの誇り
サールドの魂ぞ 永久に
朗々たる歌声が響き渡りレイモンはうなった。
素晴らしい!
やはり音楽はいいものだ。
もちろん人には好みの違いがあるが
彼がこの歌劇を好む理由は他でもない。
題材がかつての大戦争なのだ。
そしてサールドの誇りが主題でもあった。
レイモンは、ただ歌劇を見ている訳ではない。
彼も世の中の事で悩んでいた。
どうしてあちこちで反乱が起きるのだろう。
悪い犯罪がたえないのだろうかと。
他にもいろいろあった。
貧富の差や汚職にまみれた世の中について。
それらに自分はどう向き合えばいいのか。
世間にはいろんなものが出回っている。
彼にとってはあまり気に入らないものもある。
だがそれなりに流行っていたりもする。
文化が低俗になるのは嫌なものだ。
そういうものにおぼれてはならない。
そんな気持ちが彼を歌劇場に通わせていた。
今忘れ去られようとしている美徳がある。
サールドの精神とは何だろうか。
今目の前ではそれが演じられている。
当然にして心は満たされていた。
もちろん彼を理解出来ない人もいる。
彼を慕っている級友の妹がそうだ。
歌劇なんてパロラにはつまらない。
もっと軽快なのがいい。
ゆるやかな交響楽の流れなんて退屈だ。
でもレイモンとは一緒にいたい。
仕方ないのでレイモンの肩にもたれた。
そしてすやすやと寝た。
やがて歌劇は第二幕を終え幕が降りた。
幕間の拍手が鳴り響いた。
場内では時折、咳払いが聞こえる。
第三幕――。
歌劇はいよいよ中盤にさしかかった。
雪の精たちが現れた。
幾人かの雪の精がくるりと踊っている。
そして舞台の中央で口々に歌いはじめる。
おお、この業深き 諸人よ
おお、この業深き 諸人よ
ふと一人の精が舞台の中央に踊り出た。
りんとした視線で天を射抜くと
彼女は朗々たる声で歌い始めた。
おお、この業深き諸人よ
汝らの殺りくの浅ましさよ
今 我が天の怒り
大地の怒りを告げん
汝らよ あまねく天然に従え
彼女の声が場内をゆさぶった。
レイモンはおおと心の中でうなった。
その歌声は人間の肉声のはずだ。
だがなんという神々しさだろう。
音律も実に美しい。
天空より勅命を受けた人のようだ。
あるいは雪の精なのかも知れない。
そこまで思わせるほどにすさまじい。
「さすがは帝国劇場」
溢れ出る感動を抑えきれるものではない。
美しき我が大地 デルトゥスよ
ああ 美しき我が大地
永久に
聞けば聞くほどに――。
肝も揺さぶられ鳥肌も立つ。
ふと演目に目を通した。
雪の精イマーヌ・ミリャーナとあった。
イマーヌ・ミリャーナ?
聞いた事はない。
が妙に懐かしい名である。
文明とならば音楽もかならずある。
レイモンはもう一度音楽を考えた。
デルトゥスにもいろんな音楽があった。
古今東西のあらゆる音楽を愛好してきた。
昔は音楽家のもとで修行した事がある。
今、彼が耳にする音は他とは違うようだ。
天空に流れる小川のせせらぎのようだ。
獣王が吼えるようなたくましさもある。
やさしい母が子を愛でるようにも聴こえる。
それらいずれをも持ち合わせている。
そんな事が出来る人はどこにいただろうか。
たぶん並みたいていの努力ではないだろう。
しかし一番強烈だったのは心の力だった。
ともかくこの歌姫はただものではない。
そんな事を思っていると――。
雪の精霊はひらりとその身を翻らせた。
役目を終えて舞台の袖へと消えてしまった。
レイモンはやや混乱した。
もう終わりなのか。
それは演目の進行上、わかっていた。
だが終わると大きな損失感だけが残った。
第三幕が開かれた。
がさっきの歌姫ほど上手い歌手はいなかった。
一応ながらもそれなりに楽しめたが。
そして最終幕となった。
袖から雪の精霊が出てきて一礼した。
レイモンはすっかり興味を抱いていた。
その心の力のすさまじさにだが。
外に出ると夜は更けていた。
級友とその妹は何やら言い争っている。
レイモンは二人に笑みをくべた。
しかし心の中はあの歌声の事でいっぱいだった。
あの歌手の事はまだよく知らない。
ただあの歌手はやがてすごい人になるだろう。
そこで改めてレイモンは自分に聞いた。
心の力とは大事なものではないかと。
ふと彼方に小さく手を振るパロラの姿が見えた。
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