英雄の幻想

それは春の終わり頃――。

 小さな船が放った一発の弾が世界大戦の火蓋を切った。

 北方諸国と南方マケルタ諸国の間には確かに因縁がある。

 民族的な感情というものが。

 それは腫れ上がった風船の破裂のように爆発した。

 そうしてこの日を境に小さな戦闘が繰り返された。

 はじめは誰しも思っていた。

 数ヶ月程度の争いで終わる。

 一日の負傷者は数人程度だ。

 いちいちにさわぐ事もない。

 時おり何人かの兵士や小型の戦闘艦が争った。

 報道を耳にしても大衆はさほどさわがなかった。

 政治家のやっている事など自分達に関係ないと。

 確かに戦場は遠くの海だったので他人事だった。

 やがて戦いは陸上戦になった。

 そろそろ皆は嫌な気がしてきた。

 戦死者の数は日ごとに増えている。

 そして先週はあの軍事基地が戦闘となった。

 戦死した人々の家族は大いに悲しんでいた。

 だが勝ちたいという意志のほうがまだ強い。

 とうとう昨日はあの工場地帯が落ちた。

 砲撃の音がついに隣町から聞こえてきた。

 ここで皆は泣き言を言った。

 政治家にだまされた!

 しかしもうどうしようもない。

 美しい石畳の道。

 あふれる人々と共に逃げ惑わう姿が見える。

 いくつもの家裁道具を荷台に積みながら思う。

 まだ平和だった頃は――。

 人が殺されるだけで犯人は憎まれた。

 犯人は人殺しだと恐がられた。

 もし目の前に殺人鬼が現れたらそれはおそろしい。

 武道の心得がある者なら立ち向かうかも知れないが。

 刃物など持っていようものならどうなるだろう。

 戦争では刃物では済まされない。

 銃や爆弾など殺す為の兵器には事欠かない。

 兵士という名の殺人鬼は無数に迫ってくる。

 それが戦争である。

 ともかく戦争では殺すのが当たり前になる。

 いつ殺されるか分からない。

 そんな重圧がずっと続く。

 本当に精神的にこたえるだろう。

 それを勝つまで戦い続けなければならない。

 大勢の殺し合いは一年を過ぎても終わらなかった。

 何年も何年も続き、出口が見えなくなった。

 既に何億人もの人命が奪われていた。

 それがこの惑星文明の人々が選んだ答えだった。

 そして三百年が経た今――。

 ラルフェモという山間部にある小さな村の小さな家。

 そこに住む一人の子の頭の中。

 そこでその光景が再現されようとしていた。

 ラマフェロナの脳裏に浮かぶのは英雄の祈る姿。

 「天よ、この怒りと悲しみを知るや」

 英雄の年頃はラマフェロナと同じくらい。

 そのほうがラマフェロナにはいいのだろう。

 あくまでもラマフェロナが聞いた話でしかない。

 それはいい。

 英雄は静かに微笑んでいる。

 優しげで何かを悟ったような笑み。

 美しい褐色の髪を風になびかせている。

 英雄が天に呼び掛ける。

 ラマフェロナもそれを共に祈った。

 ベッドの中でぎゅっと手を握って。

 爆炎ゆえ大地は炉のように熱い。

 そして無数の弾丸が彼の横をかすめてゆく。

 戦場の前線の中で、祈りなど意味をなすだろうか。

 一発の流れ弾も死を意味する世界。

 だが英雄の心は水を打ったように静かだ。

「天にあまねく優しき意志よ」

 この時、信じられない事が起きた。

 突然、晩春の陽気は消え猛吹雪が襲った。

 あまりの吹雪に一歩先も見えない。

 空軍はたちまち飛べなくなった。

 海をも埋める無数の艦隊も荒れ狂う波に色を失った。

 どころか、波さえもみるみる凍りついてゆく。

 兵達は冷気にやられ凍傷にかかった。

 北部から攻めて来た機械の軍は凍りついて動かない。

 氷軍とでも呼ぶべきだろうか。

 とにかく人類の争いに裁きの鉄槌が下された。

 一度自然が猛ると人間には歯が立たなかった。

 氷点下五十度の雪神は容赦なく攻めた。

 人類は凍りついた。

 戦争は意味をなさなくなった。

 それであっという間に戦争は終わった。

 後から考えればあの戦争は何だったのだろう。

 もはや一切の兵器はなくなっていた。

 何もかもが消え去ったけがれなき一面の銀世界。

 その中で英雄が優しく天に感謝の微笑みを投げた。

 おやすみ。

 そう告げるようにラマフェロナの意識も真っ白に溶けた。

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