第7話
自分でもどっちが正しいのか分からなくなっていた。あたしの所為なのかあたしの所為じゃなかったのか。事件はあたしの所為じゃなかった。でも慧天が喋れなく、聞けなくなったのは、あたしの所為だった。あたしが悪い。あたしがあそこまで追い詰めさせた。『先生』を。だからあの人は死んだ。やっぱりあたしの所為なのかな。あたしは黙って蹲っていれば良かったのだろうか。あたしは救われた。慧天は救われなかった。口の中には血の味、頬が歯で切れたのが解る。ざわっとする教室内。幸いお客さんはいない。あたしの所為で。あたしが悪いのか。やっぱりあたしの所為なのか。慧天のお母さんはそう思ってる。あたしだってそう思ってる。
だけどあたしの前に出てお母さんの手を掴んでいる慧天は、優しいからそう思っていないのだろう。まだちょっと出てる蕁麻疹。けふっと咳を逃す声。違うと言ってくれる慧天は優しい。じゃあ誰が悪いの、と訊いたら、きっと誰も悪くなかったと答えるだろう。不幸な事故だったと。そんな訳ない。あれは事故じゃなくて事件だった。誰にとっても、そうだった。この人殺し。違う。人殺しは慧天じゃない。あたしが慧天に相談したりしなければ。フラッシュ・ゴードンになって、なんて言わなければ。
「お母さん、何するの。僕は食べてない。付き合いでここに居るだけ。蕎麦なら四組だってうどんと蕎麦作ってる。なんでここが駄目なのか、教えて」
言って慧天はヘッドホンをずらす。耳を塞ぐのはLet me live。どうしてもっと僕の心のかけらをもっていかないの。どうしてもっとこの魂のかけらを持って行ってくれないの。それは、誰に向けて? 好きに織り交ぜて。誰に?
「あなたはどうしていつもその子を庇うの、慧天! 教室の外までアレルゲンが漂っているような場所で、なんでわざわざその子に付き合ってあげる必要があるの? 下手をしたら貴方だってアレルギーの発作を起こすかもしれない、それをその子も知っているはずなのに呑気に一人で食べてるなんて、信じられない! どうしてあなたはそうなの、どうしてっ」
「ご、ごめんなさい!」
不意に響いた声はまだ涙の残っている長篠委員長だ。そっちに目を向ける慧天のお母さんの視線はきついままだ。怖いな、とぼんやり思った。あの時もそうだった。慧天が『先生』の言葉で閉じこもりきりになった時。その部屋にポットとパイとクッキー缶を持って行こうとした時、彼女はこんな眼であたしを睨み付けた。
二年前から彼女の憎悪はあたしの物だ。あたしよりずっと、慧天の心配をしているんだろう。進学も進路も、全部。当然だ。彼女は慧天の、母親なんだから。いくらいつも近くに居たって、あたしは他人なのだ。いざとなったら離れてしまえる、距離なのだ。
――だから心のかけらを持って行って欲しい。魂のかけらを持って行って欲しい。好きにして良いからそうして欲しい。勝手に受け止めるよ? そんなこと言ったら。
「蕎麦粉を持ち込んだのは私なんです、西園君のアレルギーを知らなくて、だからごめんなさい!」
「アレルギーの危険も解らずに食事を供するお店をやっていたの?」
「ごめんなさい」
「謝れば良いって事じゃないのよ、どこに溶けだしているか分からないんだから! 慧天、さっさとこっちへ来なさい。図書室辺りなら食事処もないでしょう。その子も食べ終わったみたいだし」
じろっと睨まれる。やっぱり怖い。あの委員長が委縮するレベルなのだ、子供には怖いのも当然だろう。
「僕は静紅と回る予定なんだ」
「慧天!」
「静紅と喧嘩しないって言うなら母さんとも一緒で良い。でもその前に謝って」
めずらしく強い声が出たことに、慧天のお母さんはちょっと狼狽えているみたいだった。家の中でも流暢に喋らない息子の反応に驚いているんだろう。慧天は親ともろくに話が出来ない。ひゅ、と喉の鳴る音がした。慧天のこめかみに汗が走っている。あたしは慌ててヘッドホンを直させた。また睨まれるけれど、発作を起こすかもしれない種は摘まなくてはならない。
「慧天、あたしは良いからお母さんと学校周って来て。あたしも自分の両親呼ぶから。だったら良いでしょ? ね?」
「駄目だよ、約束だもん。優先順位。いくらお母さんでも、それは譲れない」
「慧天ッ!」
お母さんが怒鳴る声は流石に聞こえているのだろう、慧天はぼつりと呟いた。Let me live。Leave me alone。生きさせて。放っておいて。それは誰に、向けている言葉なのだろう。あたし? 慧天のお母さん? 解らない。でもどっちでも辛い。両方に向けているのかも。一人にしておいて。そう言う意味だから。
「お母さんは僕の言葉を殺す」
ぜぇっと喉を鳴らし、汗を搔きながら絞り出すように慧天は言う。
「静紅の言葉も。それじゃ僕たちやり直せない」
Baby why don’t you give me a brand new start。どうか新しいスタートを切らせて。
慧天はもう、二年前の事を乗り越えようとしているんだ。ずっとずっと、そうしようとしているんだ。夏の事件の時も。爆弾騒ぎの時ですら。僕はこの世を憎む。慧天もそんな気持ちがあったのだろうか。バントラインは慧天とあたしによく懐いている。ホーイサボテン。緑の光に死と再生を夢見た少年。死んじゃったって良いんです。良くないよ。あなたも慧天も。そして多分、あたしも。
紅茶とパイを囲んでいる時が一番幸せなあたしと違って、慧天は他の人とも話していく。メールやラインや筆談や、たまには声も使う。色んな方法で。ちょっと遠回りになっても。そこにあたしはいらない。あたしという『通訳』も『ヒーロー』もいらない。頬がジンジン熱い。
ふるふる震えている慧天のお母さんも、顔が真っ赤になっていた。慧天の汗ばんだ手を振り払い、今度は慧天を殴ろうとしてくる。慧天は避けない。だからあたしがその腕を掴んで引き寄せた。座っているあたしにそうされて、慧天はぺたんっと床に尻もちをつく。きょとんとされた。ぽろっと涙が零れた。あたしにはこんなことしか出来ないんだなあと思うと、涙しか出なかった。慧天のお母さんはあたしを睨む。教室のざわめきは最高潮に。あたしは待つしか出来ないと思っていた。でも違う。少しなら手を引いても許される。
許してください。あたしも新しいスタートを切りたいから。慧天が一人で立っていられるための、支えにも杖にもならないように。
「My life has been saved」
ふはっ、と笑った慧天がそう呟く。
「お母さん。僕はお母さんもお父さんも好きだよ」
「え、慧天?」
「静紅ちゃんも好き。それじゃ駄目なの?」
「だって、だってその子は」
「静紅ちゃんがいなかったら今の僕はずっとあの暗い部屋で引きこもっていたと思う。でも静紅ちゃんが重いポットとパイとクッキーを持って部屋に一歩踏み込んでくれた瞬間から、そうじゃなくなった。分からない事ばっかりだったけれど、今はあの時の『先生』の気持ちだって理解は出来なくても飲み込むことは出来る。静紅ちゃんがいたからだ。僕は静紅ちゃんが必要だ。だから出来る限りは傍に居たいと思ってる。それがどんなにお母さんにとっては気に入らない事だとしても」
泣きながら飲んだ紅茶。あの日を思い出す。
泣きながら伸ばしたパイの形は今だって覚えてる。
何度も畳んで。何度も伸ばして、無心に作ったパイだった。
無心に食べながら、傷の舐め合いをした時間が、あたし達にはあった。
傷を舐め合えるのがお互いだけでしかなかったのを、あたしは覚えている。
あの日、あの時、あの場所で、すり合わせた傷だったから。
げほっと慧天がちょっと噎せる。さすがにこれ以上ここに居るとアレルギーの発作が起きるかもしれない。あたしは立ち上がり、慧天の手を掴む。よいしょ、っと起き上がった身体、いつの間にかその背は慧天のお母さんより大きい。慧天はお母さんを真っ直ぐに見降ろしながら、手を伸ばした。上げていた手をゆるゆる落とし、ぽん、とその手に手を重ねて、戸惑った眼が慧天を見る。慧天は笑う。そして繰り返す。My life has been saved。僕はもう救われていました。誰に? 慧天自身に?
あたしは慧天に救われた。お母さんを救うのも慧天だろう。慧天自身は誰に、救われる? あの少年のようになってしまわないって、誰がそれを証明できる? 死んじゃったって良いんです。そんな慧天を、誰が、誰が助けてくれるの?
「静紅ちゃんは先に保健室だね。湿布貰って来よう。お母さんはどうする?」
「……展示を見て回るわ。ここのクレープを食べられないのは残念だけれど、他にもあるんでしょう? 見どころは」
「僕たちは後で図書室に行くつもり。もし一緒に歩きたいなら、待ってて」
「ええ、解ったわ。……ごめんなさい、静紅ちゃん」
どこか不承不承なその言葉を、慧天はヘッドホンの片耳を離して聞いていた。ぽん、と直して、慧天はお母さんの手を離し、あたしの手を引っ張って行く。手を取り合って。このまま行ける? 救われていた魂は。あたしは二年前と、違う場所に立っているのだろうか。それは慧天に手を引かれて? それとも自分で歩いて?
あたしは慧天の手を離す。慧天はきょとんと振り向く。
「Let me live、だよ」
「静紅?」
「一人で歩けるから、大丈夫」
「手を取り合って、だよ」
「愛する人じゃないでしょ」
「愛する人だよ。僕は静紅のことが、一番大事で愛してる」
ぼっと頬に違う熱が入るのに、慧天は笑っている。こいつめ、と思いながらあたしは並んで歩く。手を引かれもせず、引きもせず、同じ歩幅で。ちょっと急ぎ足になっちゃうけれど、慧天の背はまだ伸びるんだろうか。大学に入ってにょっきり伸びる人もいるらしいんだけど、慧天がいきなり遠くなったら嫌だなあ。ちっくりちっくり、少しずつ離れていくなら。それが良い。いつの間にかあたしもお母さんも見下ろして、穏やかに笑っていることが出来れば良い。あたしはそんな慧天から何かを奪うのか渡すのか分からない。でも、一人で生きることを望むのなら。望んでいるのならば、それは、とても、安心できることだった。Leave me alone。それが慧天の願いならば。
いつか道が分かれても、二人で生きていける。二年前まで戻って、塗り替えて、違う方向に行ってしまえる。
だけどやっぱり、お茶会はしたいな。思いながらあたしはしれっとした慧天の告白を噛み締める。いつかまた静紅ちゃん、と笑ってもらえたら良いな。今はつい出ちゃう程度だけれど、また静紅ちゃんに戻って、慧天と二人で洋楽をあれこれ聞いては笑い合う、そんな仲になりたい。なんなら日本語のロックだって聞き合いたい。勧めあって、悩みあって、なんてったって慧天ヘッドホンは容量が大きいからなんでも入れられるだろう。
サボテンを神様にしていた少年を思い出す。結局あたし達は彼の何にもなれなかった。ならばせめてあたし達はお互いを守ろう。何にでも、なれるように。求められるすべてに。それこそ『ヒーロー』にでも、『通訳』にでも。
いつかきっと外れるヘッドホン。そうと願って、あたし達は保健室に向かった。
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