第6話

「すみません、一時休店になりまーす」

 保志先生が言って、丁度内食客もいなかった教室は閉ざされた。なんだなんだと集まって来たのは休憩中じゃないクラスメートたち。あたしは両手にクレープを持って、慧天は一度深呼吸してからヘッドホンを首に向けて下ろす。視線が集まるのに汗ばみながら、慧天はきょろっと教室を見渡した。短いレースのカーテンに休業札をぶら下げて、奥でメレンゲを作っていた男子達もやって来る。ボウルを持っている子もいたけれど、流石にハンドミキサーでぶいんぶいん言わせている人はいなかった。何かあったのか。何が起こるのか。好奇心は猫をも殺す。慧天の肌の蕁麻疹だって、死に損なった証明のようなものだ。死に損ない。ぞぞぞっと悪寒が走る。

「何だよ西園、なんかあったのか?」

 背の高い池谷君の声に、慧天はこくんと頷いてから調理場を見る。メレンゲ、イチゴジャム、キウイ、パイナップル缶、バナナ。チョコスプレッドは最後。それから不意に見るのは畔上さんが焼いていたクレープの生地だ。何枚かストックがあるそれの、一番下を引き抜くと、あ、と彼女が声を漏らす。その手はどうしてだか震えていた。慧天はその一枚を保志先生に渡して、こくん、と頷く。

「うちのクレープ食ったお客さんがアナフィラキシーショック――アレルギー起こして倒れたんだよ。しかも階段でね。んだから一時閉店。何が原因か分からない内は再発防止のためにね」

 保志先生が全員に聞こえるようにちょっと大きめな声で喋る。慧天は深呼吸を繰り返していた。

「食べたのはメレンゲの全部乗せ。具体的には本条が持ってる食い掛けのクレープだ」

 視線があたしに集まる。ちょっと怖い。あたしだって目立ちたがりなわけじゃないんだ。でも『ヒーロー』としては胸を張っていなくちゃならない。慧天が『名探偵』になった以上は。慧天だって目立ちたがりじゃない。でも次の犠牲者を出さないためには、何に蕎麦粉が関係していたのか考えなければならない。そして慧天は人が傷付くのを嫌がる。自分が傷付きたくないくせに、他人が傷付くことはもっと嫌がる。二年前のように。夏の事件のように。たとえ見ず知らずの人だとしても。

 けふっと咳を漏らした慧天は、みんなを見渡す。顔と名前は一致しているらしい、あたしと違って。あたしはほぼ女子だけだ。例外は慧天を通して知り合った人たちぐらい。先生だって自分の教科担任しか言えない。一年半通っていながら随分なもんだと自分でも思う。

「被害者は蕎麦粉アレルギーだった。アレルゲンの発生物質は一見この教室にはない。ように見える」

「ように、って」

「隠れてその人に渡るクレープが蕎麦粉入りに出来るよう手をまわした人物がいる、ってこと」

「お、俺らのクラスにそんな犯人がいるってのかよ、西園!」

 池谷君に声を荒げられて、ぎゅっとヘッドホンに触れた慧天は、それでも音に逃げなかった。強くなったんだと思う。こんな学級裁判の真ん中に放り出されても、大丈夫なぐらいには。けふっ、けふっと何度か咳をして、こくんっと顎を引いた。ざわざわする。怖い。あたしの方が怖がってるのだろうか。慧天は『名探偵』のままだ。あたしは『ヒーロー』になり切れていない。あの夏の事件と同じように。

 ひゅうっと深呼吸をする慧天に釣られて、あたしも肺腑の奥に新しい空気を求めた。甘い匂いが漂ってる。クレープに蕎麦粉は使わない。

 本当に?

「低カロリーなおかずクレープがあるのは知ってる?」

 唐突な慧天の言葉に、ぽかん、と口を開けたのはクラスメートたちだった。あたしは知っている。ハムチーズ美味しい。女子も男子も半分ぐらいは知ってるらしくて、でもそれがどーしたと言いたげな眼差しを慧天に向けていた。

「おかずにするにはあんまりあんまり甘くちゃいけないんだ。トッピングだって野菜やチーズになるし、クレープの生地自体も砂糖は入れない。そうだよね? 畔上さん」

「ッ」

 畔上さんがギンガムチェックのエプロンを揺らして震えあがった。

「あ、あの、」


「トッピングじゃあないんだ。もっと根源的なもの。クレープ生地に、蕎麦粉が含まされていたんだ。クレープに入ってても目立ちにくい、アレルゲンとして」


「そ、んな証拠っどこに!」

 畔上さんは声を上げて慧天に叫んだ。教室に籠る音が響いて頭がちょっとだけキンとする。

「あるよ。僕はクレープの生地の皮だけ持ってたけど、それで蕁麻疹が出てる。僕も蕎麦粉アレルギーだからね、多分生地に反応したんだろう。保志先生に病院へとそのクレープ生地を持って行ってもらえば、もっと簡単に証明できる。一枚でも焼いてしまえば鉄板に痕跡は残って次以降のクレープ生地がアレルゲンを含むことになる。君は一人で今日のクレープ生地製作を一手に引き受けてるそうだね。逆に、君にしか出来ない事なんだよ」

 慧天はあたしの手からさっき買った新しいクレープを取る。ひそひそ、声が聞こえた。聞きたくない声だ。誰かを糾弾する声なんて、あたしだって聞きたくない。魔女裁判。弾劾裁判。口の中にすっぱいものが込み上げて来て、吐き出してしまいたくなる。でも慧天が汗だくになりながらそれを堪えているんだから、あたしが、『ヒーロー』がそこから逃げるわけには行かない。

 けふっと慧天はまた咳を漏らす。

「事実この教室にはもう蕎麦粉が蔓延してる。僕の咳がさっきから止まらないのも、アレルギーで喘息の発作が起こされそうになってるからだ。なんなら証明にそのクレープを食べても良いよ。僕の場合はエピペン持ってるからすぐに治まると思うけれどね。そうでしょ静紅」

 一瞬返事が出来なくて。こくこく頷くしか出来なくなる。でも本当ならやめて欲しい。そんな危なっかしいことして欲しくない。慧天は口を開ける。いやだ、駄目だ、また慧天が傷付くなんて――嫌だ!

「えでん、」

「駄目ぇえぇ!」

 叫び声をあげたのは、表とやり取りしていた委員長だった。


「え……?」

 きょとん、としてしまったのはクラス全員だ。

 委員長はハッとして両手で口を塞ぐけれど、悲しいかなそれは手遅れである。慧天は口からクレープを離し、委員長を見た。すると彼女は眼からぼろぼろと涙を流し、しゃくり上げながらふるふるとその短い髪を乱す。三角巾が落ちた。結構癖っ毛な頭は、くしゃくしゃになっている。

「あ、あの男、うちのお客さんだったんです」

「うち?」

長篠ながしのの家は喫茶店だ。俺も行ったことある」

 先生の言葉に長篠あずさ学級委員長はこくこくと頷く。

「彼女と来たことがあって、おかず系のクレープ頼んでたんだけど、その時蕎麦粉は駄目だからって言ってたから……だからきっと、この文化祭にも来るだろうからその時にって」

「あー……お前んちにも文化祭のポスター貼ってもらってたもんな」

「あいつ、痴漢だったんです。あたしがバス通学なの良い事に、いつもおしり触って来てたッ……畔上さんに相談したのは、あたしなんですッ。あいつをどうにかして、やろうと思って、殺すほどじゃなくても、痛い目見せてやろうって」

 わあああ、と泣きながらしゃがみこんだのは、いつもの利発な委員長じゃなく、年ごろの潔癖な女の子の姿だった。

 慧天はそれを見てちょっと同情的な眼を見せたけれど、次に畔上さんを見た目はもうそれを纏っていなかった。

「アレルギーでは死亡することもあるよ。蕎麦粉のクレープを提案したのは君だね、畔上さん」

「……あいつの前のターゲットは、私だったんです」

 ぽそ、と言って畔上さんはポケットから小さな袋――灰色の粉がまだいくらか見えているそれを取り出して、ぷらぷら振って見せた。

「死んじゃったって良かったんです。あんな奴」

 死んじゃったって良いんです。言った少年が頭にフラッシュバックする。諦めと覚悟を含んだそれに頭に血が上るのが分かった。殴り付けようと身体を出したところで、慧天の空いてる手に手を取られて動けなくなる。そうして死んじゃった少年は幸せだったのだろうか。そうして苦しんでいる男性は後悔しているのだろうか。きっとあたし達がそれをこの教室から漏らさなければ、あの男の人は『運が悪かった』と言う事にされるんだろう。反省なんてしないに決まってる。そしてまた委員長や畔上さんの身体をもてあそぶのだろう。女子としては、怒りが沸く。でも慧天を巻き込もうとした彼女達には、もっと怒りが沸く。巻き込まれに行ったのは慧天だけど、それでも、だ。あたしには彼女たちを許すことが出来ない。

「――取り敢えず俺は諏佐警部に連絡取って、病院にこの生地持ってくわ。ついでに本条、お前が持ってる食べ掛けもな」

「……はい」

 ぼりぼり頭を掻いた先生にクレープを渡し、泣き崩れている委員長といっそ怖いぐらいのポーカーフェイスでいる畔上さんたちを見る。もしもあの男が助かったら、次は何をするつもりなんだろう、彼女たちは。自分たちがやったと名乗り出て、牽制でもするのだろうか。一寸の虫にも五分の魂。虫ではない彼女達には、いくらだって彼を断罪する手段がある。

 彼女達についてのことは諏佐警部がよく調べてくれると良いのだけれど。でなければバス通学から自転車通学に切り替えて逃げるしか。何で被害者の方が逃げなきゃいけないんだろう、こういう時って。ストーカーなんかもそうだ。諏佐警部と保志先生にギリギリ締め上げられてもらわないと、ここは。

「――と言うわけで、再開店する場合は蕎麦粉の表記をお願いします。委員長」

「ふぇ……?」

「メレンゲも生クリームも、まだまだ残ってますよ」

 言った慧天にまた委員長の顔が歪む。畔上さんは驚いた顔をしてから、やっと一粒涙を零す。悔しかっただろう。悲しかっただろう。辛かっただろう。でも殺してしまうのは駄目だ。ホーイサボテン。バントラインは家で無事にお留守番できているだろうか。慧天も猫アレルギーがある性質じゃなくて良かった。そう言えば慧天の蕎麦粉アレルギーはお母さんの遺伝だと聞いた事が――


「慧天!」

「え。お母さん、」

 店を再開してすぐに怒鳴り込んで来たのは、慧天のお母さんだった。彼女はげほげほげほっと咳で噎せながらも、あたしがクレープを食べてる間座って待っててくれた慧天の方に向かう。きっちりお化粧しているのは見慣れないけれど、浮いてはいない。ひそっと厨房に噂話が走った。慧天のお母さん。一体どんな。

「ここのクレープ、蕎麦粉を使っているんじゃない! いつまでもいたらあなただって喘息の発作を起こすわよ、さっさと出なさい!」

「待って、いま静紅が食べ終わるの待ってるだけだから」

 充血した赤い目を向けられて、最後のひと切れがごくんっと喉を通って行く。

 そしてその瞬間。

 あたしは彼女の手に、思いっきり引っ叩かれた。

「あなたって子はまだ懲りないの!? どれだけ慧天を傷付けるつもり!? この子の声だって、あなたが、あなたの所為でっ」

 ざわめきが広がって行く。みんながあたしを責める。ウサギの死体。違う。あたしの所為じゃない。言ってくれた慧天はヘッドホンを外せなくなった。あたしの所為だから。知ってるから。分かってるから。

 だからもう許してくださいと、神様に祈る振りをしながら涙を零す。

 それでも神様の決めたことからは、逃れられない。

 あたしは、慧天にとって、害悪だった。

 神様が決めたメイド・イン・ヘヴンように。

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