第5話
昼の混み合いをなんとかさばき切ってやっとあたしの休憩になったのは三時だった。慧天、とバックヤードに声を掛けて行くと、もう髪からピンを外している慧天があたしを待っている。いこっか、と言われてそうだねと頷くと、大分落ち着いた校内を見学できる状態になっていた。とりあえずは図書室かな、その前にお腹減ったし何か食べ物だろうか。いっそあたし達もクレープに、と言ったところで、慧天にふるふると首を振られ苦笑いをされる。
「どうせ食べるんだったら喫茶店でケーキとかの方が良いな。食事系があれば良いんだけど。僕もうお腹ぺこぺこだよ、しっかりしたものが食べたい」
「四組がカレーうどんやってたと思ったけど」
「うーんでもお蕎麦もあるでしょう? 同じ鍋でゆでてたら、僕の場合アレルギー出ちゃうから」
「そっか、ごめん」
「謝る事じゃないよ。他に何か食物系ある?」
「一年の喫茶店かなあ。パウンドケーキ出してたと思う。空手部の後輩にどうぞって言われた覚えがある」
「じゃあそこで」
「結局甘いものじゃない」
「えへへ」
はにかんで笑うのがやっぱりまだ可愛いよなあ、なんて感想を持ちながら、階段のある方に向かう。すると行き合ったのは保志先生だった。口元にクリームを付けている。そう言えばさっきクレープ食べてたな、と、ハンカチで拭いた。むお、と仰け反られても追い掛ける。しっかりしなさい、大人。
慧天がヘッドホンをずらす。がやがやした場所では個人の声が特定されないし、教室よりマシであるらしい。そしてあたしからハンカチを奪い、さらに先生にぐいぐいしていた。もう取れてるのに。むをを、と腰を逸らせているのは、リンボーダンスみたいでもある。
「なんだ、なんかついてたか?」
「クレープのクリームが。生クリーム選んだんですね、カスタード好評だったのに」
「カスタードもうなくなっちゃってるぞ。代替案としてメレンゲで今はクリーム代わりに回してる。生クリームは丁度良いぐらいだったかね」
「あ、ちゃんと調査してるんだ」
「お陰で俺、クレープ三個食ってるからね。生クリームとカスタードクリームとメレンゲと。甘いもので腹がっぽがっぽだから、今から蕎麦食いに行く予定。お前らも行く? 奢ってやるよ?」
「慧天が蕎麦粉アレルギーなので結構です」
「そうか、そただったな。さっきまでは諏佐警部とお茶してたんだけどねー。案外甘党なんだな、あの人。パウンドケーキに生クリームたっぷり絞り掛けてた」
「じゃあ今度お茶会する時に呼んでみようか、慧天」
「紅茶を無限に甘くしそうで嫌だなあ……」
「あはは、それはあるかもなあ。スティックシュガー二本入れてたし、コーヒーに」
「コーヒーは良いんですよ。エスプレッソとかあるし。紅茶は駄目です」
ぷぅ、と拗ねる慧天に、はてなとあたしは首を傾げる。
「なんでコーヒーは良いの?」
ああ、と慧天はあたしを見下ろす。
いつの間にか見降ろされている立場にちょっと驚く。
いつもと違って背を伸ばしてる時は、案外、身長差を感じる。
「エスプレッソは砂糖しこたま入れて溶け残った砂糖をスプーンで頂く、って言う飲み方なんだ。砂糖とは相性良いんだよ。でも紅茶は駄目。パイやスコーンで甘いものは別に食べるのが良いの」
「慧天のこだわりの問題じゃなく?」
「う。それは」
「はっはっは、仲良いねえ全く」
けらけら笑った保志先生は、んじゃね、と四組の方に向かう。あたし達は階段の方に向かった。って言うかおじさん二人で喫茶店行ってたのかあ。そして諏佐警部甘党なのかあ。色々ギャップを感じながらきりっとした顔を思い出すと、ちょっと笑えて来た。似合わないよねえと慧天が言う。あたしも頷く。案外クレープも、食べたかったのかもしれない。加熱してても駄目なのかなあ。ジャムみたいに。まあ蕎麦粉も加熱には強いから、そこは関係ないのかもしれない。あたしの魚卵アレルギーと違って。
さて階段が見えてきた、と思うと。がやがやしているのが分かった。そしてゲホゲホと咳の音。どうしたのかと下を覗き込んでみると、
そこには階段から落ちたのか倒れている男の人がいて、
カッターシャツの下の腕は蕁麻疹まみれだった。
手にしているのは食べ掛けの、うちのクラスのクレープ。
「静紅、エピペン!」
「へっ?」
「アナフィラキシーショックだよ!」
生徒やお客さんが見守る中、慧天はひょいっと階段を飛び降りて男の人の身体を横にし、おそらく起こしているのであろう喘息の発作を少しでも楽になるような体勢にする。顔も蕁麻疹が出ていた。慌ててあたしは自分用に携帯しているエピペン――アナフィラキシー、アレルギーによるショック症状を和らげるための注射器を取り出して慧天に放る。
キャッチした慧天はやっぱりぶつぶつと蕁麻疹が出ている彼の腕にそれを刺した。小さい頃にあたしもこうやって慧天に刺してもらったことがあったし、あたしも慧天に打ったことがあるからそこは心配していない。急いでポケットから携帯端末を出し、救急車を呼ぶ。ざわざわする声はより強くなって、慧天は男の人の背中をさすりながらヘッドホンを掛けた。
しかしアナフィラキシー? 一体なんで? 混乱の中あたしは男の人の上体を起こさせて、階段の手すりに寄せかける。喘息の発作ならこっちの方が良いだろう。と、階段を上って来たのは諏佐警部だ。すっかり仕事の顔になっているのが、柔い休日スタイルに似合わなくてちょっとおかしい。もっとも笑っている場合じゃないけれど。
「どうした、何があった?」
「どれかは解らないけれどクレープの具材か何かにアレルギーがあったみたいで、アナフィラキシーショックを起こして倒れていたんです。今はエピペン注射して救急車を呼んだところです」
「保志先生を呼んでおく。保健体育の教師ならば何か見つけられるかもしれない」
「お願いします」
ラインではなく電話を使って諏佐警部は保志先生を呼び出す。幸い蕎麦は食べ終わったばかりらしく、慌てて階段まで戻って来てくれた。その間にピーポーと言う救急車の音が聞こえて、誘導して来る、と諏佐警部が走って行く。男の人は薄目は開いているけれど喘息でとても話せるような状態じゃなかった。ヒューヒュー言っている。先生は脈を取り、喉に触れ、難しい顔をした。
「喉も腫れてる可能性があるな。下手すると呼吸困難だ。間に合えば良いが」
「こっちです! そこの、座り込んでいる男性です!」
案外早い諏佐警部の帰りに、救急隊員さん達が一人、男の人の背中側から脇の下に手を突っ込む。もう一人は両膝の下から手を突っ込んだ。一、二の、で担架にその細い身体を乗せる。げほげほげほと咳き込む音に、肩がひゅんっとなった。怖い。何が起こってしまったのか分からないことが怖い。警部は救急車と一緒に学校を離れたらしい。野次馬も、どんどん薄れて行っている。
慧天は残されたクレープを拾って、難しい顔をした。静紅、と呼ばれて、何、とあたしは返事をする。クリームではなくメレンゲになっている。三口ぐらい食べられているそれの、どれに反応したのだろうか。卵やキウイなんかは自己管理できるだろう。バナナもパイナップルも、ちゃんとお品書きに載せてある。イチゴはメインとも言えるから、もちろんだ。一体何にそんな反応をしたのか。少なくとも慧天やあたしじゃなくて良かったと、思ってしまうのは薄情だろうか。男の人。見たことはないから、多分お客さんだろう。学校関係者だったら保志先生が解るはずだ。でもそう言ったアクションは無かったから、やっぱり外部の人間と見て間違いはない。
「教室に帰ろう。次の犠牲者が出る前に、なるべく早く」
「次? 慧天、何が原因か分かってるの? それは次も出る可能性があるの?」
「ある。現実に僕がそうだ」
「え」
慧天の手には蕁麻疹が出ていた。
慌ててクレープを奪い取り、齧った跡の生々しく付いているそれを見る。触ったのは何処だったんだろう。蕁麻疹。慧天のアレルギーは蕎麦粉。でもクレープにはそんなもの使っていない。クリームにもメレンゲにも、ましてやトッピングになんて。それは流れ作業でフルーツを乗せて行っていたあたしが、責任をもって証明できることだ。慧天だってバックヤードでそんな不穏な動きを見せた人なんて見ていないだろう。人一倍周りを機にする慧天の眼を掻い潜って、なんて、出来るはずもない。
じゃあ何にどうしてどうやって? 混乱がくるくる回って、頭の中がぐるぐるする。
「西園。お前のエピペンはあるのか?」
「ありますけど、まだ慌てるような症状じゃないですから大丈夫です。いざと言う時は静紅に頼めば問題ない」
「一応保健の免許を持ってる俺の前でそれを言うか」
「慣れてる方が安心なんですよ。静紅、持ってて」
ぽいっと投げ渡されたそれをぎゅっと握りしめて、あたしはこくんと頷いた。そういやなんで自分の使わなかったんだろう、聞いてみると、間抜けな答えが返って来た。
「いつも静紅の使ってた所為かな。他人に自分の使うって発想がなかった」
ある意味とってもジャイアニズムだった。
「慧天はあの男の人のこと、事故じゃないって思ってるんだよね」
「解り易い具材ばかり並べているのにわざわざ食べる人もいないだろうと思うからね。ジャムはちょっと奥に隠れていたけれど分からない程じゃないし、パイナップルは口に入れた途端刺激が走るだろう。キウイも。バナナも同じ。メレンゲになったことは明記されていただろうから卵も解らないはずはなかった」
「そんでもって西園にも症状が出ている。蕎麦粉アレルギーだったか、確か」
「そうです。でもそんなの入るタイミングはないはずで……そもそも持っている訳もないです。使わない食材だから。……だから、故意の、事故じゃなくて事件になる?」
「そう」
慧天とあたしと保志先生、三人揃って階段を上って自分たちのクラスに戻って行くと、さっきまでとは違う喧騒ががやがやと響いていた。慧天は一瞬息を呑んでぎゅっとヘッドホンを耳に当て、ふーっと息を吐く。さっきの騒ぎで目立った所為か、慧天に視線が集まっていた。
悪い傾向だ。でも慧天はそれらを無視してずんずんとクラスに向かう。その後ろをついて行く自分は、やっぱり手を引かれているのと同じだと思った。やっぱり何にも、変わってない。何かが起こっても何も出来ないのがあたしなんだな、とちょっと暗い方向に考えながら、蕁麻疹のうっすら出ている慧天の手を見詰めた。痒いだろうな。でもそこだけで良かった。さっきの男の人みたいになったとしたら、あたしはパニックになってエピペンの存在なんて思い出さないだろうから。
「静紅、ちょっと頼まれてくれる?」
「解った。何すれば良い?」
「クレープ買って来て。クリームなんかはなんでも良いから」
「? 解った……」
慧天の言うとおりに、あたしはメレンゲのクレープを買った。
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