第3話

 諏佐警部にラインを飛ばしてみたのはほんの気まぐれからだった。文化祭があるんだけど来ませんか。何を企んでいる、なんて言われちゃったけど、別に企んでいることはない。強いて言うなら出し物の売り上げを少しでもキープしていたいと言う邪悪な心からだ。でも返事は可愛らしいうさぎのスタンプで、『良いよ』と返してくれた。こう言うの使う人だったんだ、とちょっと驚く。警察内のラインでもスタンプが乱れ飛んでいたら、それはそれは可愛いことになるだろう。何か想像できないな。否、したくないのかもしれない。町のおまわりさんには夢を持ちたいお年頃なのだ。まあ、夏の事件の時には思いっきり爪はじきにされてるから、そうこう言ってもちょっとの失望は持っているけれど。

 希望と絶望を両立させているのだから良いだろう。爆弾騒ぎの時だって、最後の最後のブービートラップまで慧天を導いてくれたのは諏佐警部のお陰だ。そこが解らないとどうにもならない状況だったけれど、彼は信頼できる刑事さんだと思う。信頼出来ない刑事さんって言うのもいないけど。


 朝はちょっと弱い慧天が、はふ、と欠伸をする。学校へ向かう道の途中だった。文化祭は一週間後、教室の飾り付け案は出来上がって、ハンドミキサー部隊と接客部隊と調理部隊が分けられ、休み時間の割り振りも行われた。昼休みを徹しての事なので、結構ギリギリだったと思う。

 畔上さんの生地裁きは見事なもので、熱いだろう鉄板にくるりと生地を伸ばし、ぺろんっとひっくり返して三十秒も立たないうちに一枚が焼ける。彼女は志願して休み時間なしで生地焼きをしてくれることになった。なんてお人好しだろう、ほへーっとそれを見ながら、あたし達調理部隊はそこにイチゴジャムやバナナを添えてチョコスプレッドを走らせ、くるりと巻いて毒見役の保志先生に食べさせる。ん、と口の端にチョコを付けながら、先生は笑った。

「素人ものにしちゃ上手く出来てるんじゃないかね。ジャムも悪くない。生地もしっかり火が通ってるし、大丈夫だろ」

 昼休みの調理室、きゃあっと女子ははしゃぎ、畔上さんもホッとしたように胸を撫で下ろす。ちなみにカスタードクリームを作ったのは慧天だ。相変わらず適当に切ってある左右非対称の髪をピンで留めて、ボウルに入らないようにしている。こっちも練習を兼ねていたので、先生のお墨付きは安心できるものだった。甘いもの大好きな人だからこそ妥協はないだろう。そう言えば夏の事件で入院した時に持って来てくれたシュークリームも美味しかった。調べたら一個五百円でたまげたけど。中学生の金銭感覚ではちょっとお高すぎるものだった。三個買ったら千円札が助走つけて飛んでいくとか、信じられない。映画だって見られる。自分で薄給の教師だって言ってた割に、使うところでは使うタイプなのだろう。危ない人だ。一足間違えたらギャンブラーになる。

 慧天はハンドミキサーを洗って拭いて箱に入れ、はい、と私に返して来る。ん、と受け取ってみると、ちょっと視線が刺さって来るのが分かった。慧天はあたしが大人っぽくなったと言ったけど、慧天だっていつまでも子供じゃない。女子の一部がそれを見抜き始めている。そしていつも隣にいるあたしに嫉妬の視線が向けられる。やでやで、厄介な奴に育ったもんだ。時々除く焦げ茶色の眼は、いつも通りおっとりしている。が、ヘッドホンは外さない。あたしと保志先生だけだったら、少しは外せるんだろうけど。学校の中でも。

「そういや本条、諏佐警部も招待したんだって?」

「え。何で知って」

 教室に戻る途中、並んで歩いていた慧天との間に入って来た保志先生があたしを見下ろして、そう聞いて来た。保志先生の言葉が聞こえない慧天は。きょとん、として首を傾げている。諏佐警部も文化祭呼んだんだ、と声に出すと、咽喉マイクの音が飛び、ああ、と納得した顔になってから髪に付けていたピンを外す。ちなみにあたしの物なので、はい、と返された。前を歩いている女子たちからは死角で、良かったと思う。慧天に女子の秋波は解らない。嬉しくも、悲しくも。

「あの事件以来俺達ライン友達なのよ。学校って閉鎖空間だからね、何かあった時のために外部に繋がりは持っておいた方が良いでしょ。何企んでる、って可愛いスタンプ付きで聞かれちゃったわ」

「四十路近い先生とのラインでもスタンプ使うんだ……デジタルネイティブ世代って怖い」

「お前らの方がそうだろ。刑事とライン繋がってるってのもよっぽどだぞ、本条」

 少しヘッドホンをずらした慧天が、くすくす笑う。笑ってんじゃないわよ。こっちだってまた何かあった時の為の物だよ。実際何かがあったじゃない、爆弾騒ぎとか。

「僕も繋がってるよ」

 細い声で内緒話のように呟く慧天に。目を丸くしたのはあたしと保志先生だ。あのラインなら流暢な慧天のことだから、きっと相手を困らせている。

「どんなのか見て良い?」

「駄目。プライバシーです」

「ちぇー慧天ったらあたしに言えない話してるんだ。静紅ちゃんさびしー」

「静紅の話が殆どだよ。僕にも確認きたもん、文化祭に誘われたんだが、って」

「意外と意気地のない人ね。二人に確認取るなんて。独断専行でも良いでしょうに、休日の事なんだから」

「本当に何事もなくバーッと終わったら、俺も楽なんだけどねえ」

 便所サンダルをずりずり引きずって歩く保志先生の言葉に、あたしと慧天は目を合わせて彼を見上げた。何か起きそうな言い方するな、なんて思うと、ま、っと白衣を伸ばして腕を振り上げ、背伸びの運動をする。引っ掛かるなあと感じたのはあたしの勘だけなので。何も言えない。慧天を見ようとすると、がっし、と首に腕を回された。もう片方の腕には慧天も。ちょっと顔が近づいて、照れて仕舞わないようポーカーフェイスを作る。慧天のヘッドホンからはフレディの声が聞こえるぐらい。そのぐらい、近い。ぐりぐり顎を頭のてっぺんに近付けられると、あわわ、と伸びて来ていた髭の痛みに声が出た。意外と体毛が濃いのかもしれない。そう言えば職員室の席にも、ペン立てに毛抜きが入っていたような。

 慧天もいつか生えるのかな。もう生えてるかもしれないか。うわ、何かやだな。理由は解らないけど、おっさん臭くてそれはヤダ。まだ暫くは、あたしの可愛い慧天であって欲しい。そう言うのが大人っぽさだとしても。

「先生、苦しい。あと髭痛い」

「えーもう生えてる? 昨日風呂で剃ったんだけどな」

「半日も立てば生えるでしょうよ。良いからはーなーしーてー」

「大して力入れてないのにお前ら顔真っ赤なのな」

 へ、と慧天の顔を見ようとしたら、ばっと顔を伏せられ、首をぐっと先生の腕から抜き、最後にはその便所サンダルを踏み付けるに至った。普通の上履きでもサンダルに比べたらその攻撃力は高い。ぎぇっと呻いた先生を見ることなく、自然と緩んだ腕からあたしの手を取り、慧天は歩き出す。

 手を取り。

 思わず手を離してしまうと、慧天が怪訝そうにあたしを振り向いた。また首を傾げて、どうしたの、と聞いて来るから、ふるふるっとあたしは首を振る。何でもない。ちょっと気になっちゃっただけ。何でも、ない。慧天が掴んでくれるのならば。

 あたしには全然、何でもない事のはずなのに。

「何でもないよ。そろそろ教室行こ。昼休み終わっちゃう」

「うん……」

 ヘッドホンを直した慧天と並んで歩く。手を繋ぐのはちょっと怖かった、なんて言えない。だって繋いだ手は離さなきゃならない時が来るんだから。その為にも今から手を繋がないことは覚えていなきゃならない。突然の別れが来るかもしれないんだから。進学とかで。引っ越しは、お互い持ち家だからないだろうけれど。でも寮とかは覚悟しないと。そうでないと、ただ傷付き傷付けられるだけの世界に堪えられないだろう。

 お互いの為なのだ、これは。少し離れることに慣れて行かないと、あたし達は無理やり引き剥がされたらあのカーテンの掛かった暗い部屋の中の二人だけのお茶会をしていた頃に戻ってしまうかもしれない。それは駄目だ。だから手は、繋がない。取り合わない。でないと、でないと。

 慧天がそうなったように、あたしも壊れるだろうから。


「慧天、真野君たちとは何話してるの?」

「勉強の事が多いよ、意外と。部活と学食に命かけてる人たちだから、授業時間起きていられないんだって」

「本末転倒ね」

「でもその分今年の中体連では結構上手く行けそうだってさ。コーチがかなり厳しい人らしいけど」

「あはは、一芸入試狙いかしらね」

「静紅は? 空手、一芸入試予定?」

「一応ね。慧天は……囲碁の一芸は聞いた事ないなあ」

「僕もない。でも僕の成績と通学距離から考えると、隣町の十波ヶ丘かなあって」

「ほんと!?」

「静紅、耳痛い……」

「あ、ごめん、つい」

「つい、何?」

 へへっと笑って、あたしは足を速める。本当、遅刻しそうだ、教室まで。

「あたしも行くならあそこかなって思ってたから」

「ほんと? また同じクラスになれると良いね!」

 パッと笑う慧天にあたしも笑う。それからお互いちょっと速足になって、教室に急いだ。高校も同じなら良いな。でも慧天は普通科だろう。あの学校は科が色々と分かれていて、あたしは行くなら多分体育科だ。同じクラスにはなれないかもしれない。否、十中八九はそうだろう。登校は一緒のままだろうけれど、下校はどうかな。慧天が適当に時間を潰せる部活があれば良いのだけれど。今の囲碁・将棋部だって、あたしの部活が長引くから仕方なくその時間を潰すために入っているようなものだし。普通科か進学科として、進学科ならあたしと同じぐらいの時間に終われるのかなあ。でも慧天、どこに進学するんだろう。その辺りはあたしのうちでもまだ話し合われていない事だ。それまでに慧天のヘッドホンをどうにか取って行く方向で行かないと、と、あたしは首に付けた咽喉マイクを触る。まだ買って半年も経ってないおニューだ。でもノイズキャンセリングは前使ってたのより性能が高い。いい買い物だったからなるべく長くは使いたいけど、慧天の病状が長くなることは望んでいない。

 複雑な気分だよな、と苦笑いしながら、あたし達は教室で各々の席に着き、ノートと教科書と辞書を出して国語の準備を始めた。

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