第2話

 玄関の前で慧天と別れ、あたしは取り敢えず家に入る。ただいま、と言えばおかえり、と台所の方からお母さんの返事が返って来た。慧天にはこんな些細なことも出来ないんだよな、と思うと罪悪感が沸くけれど、そんなことはあたしが何か言っても変わらないんだろう。慧天のうちの問題。あたしの家は、ちょっと過保護に戻った気がする。あの事件から。二年前から、夏の事件から、どんどんと。女の子なんだから身体に傷が残るようなことはして欲しくない、とは空手部に入った頃に言われたことだ。大丈夫だよ、と言ったあたしは実際大丈夫である。やっぱり一芸入試しかないよな。でもそうなると空手の強い高校が必須条件になる。慧天の進路とそれが変わらないでいるかは、まだ分からない。

 咽喉マイクを部屋の充電器にセットしたら、さっさとお風呂に入って、今日の夕飯はカニクリームコロッケだった。お父さんの好物。うきうきしながらソースを掛けて食べてる口は大きい。慧天もいつかこのぐらい大口で物を食べられるようになるのかなあ。今のところ一番大きいのはあたしが作ったアップルパイの時だけど、どうなんだろ。喋らないから口唇が委縮して常に半開きになってる場面もあるし。シュークリーム食べる時もあぷあぷしてたけど、と、あたしは大事なことを思い出した。お母さん、と呼べば、なーに、と肉じゃがコロッケを食べていたお母さんが笑う。

「文化祭で使うからハンドミキサー貸して欲しいんだけど、良いかな?」

「良いわよーどうせ殆どあなたしか使ってないようなものなんだから。何に使うの?」

「カスタードクリーム作り。クレープ屋さんになったんだ」

「あら、良いわねえ。でもカスタードクリームって珍しくなあい? ちゃんと生地焼ける?」

「プレート持ってる子がいて、その子が作れるって言ってる。他の女子は盛り付けとか紙で巻くのとか。殆ど雑用だよ」

「じゃあお母さんがフリマで使ってるミニレジも持っていくと良いわ! 小銭数えるのに楽なのよー、トラブルが起きる前に対処しておかないとね」

「トラブルが起きるのを前提にしてはいけないよ、お母さん……。ところで文化祭っていつだい? 静紅」

「二週間後の日曜日。二人は来れそう?」

「行けなくてもお仕事休みにするわよ。お母さん子供の行事に出ずに堪るかって精神でいるんだからね。保育園からずっとそうして来たじゃない」

「違いない」

 くふくふ笑ってお父さんが箸でコロッケを切る。多分普通はナイフとフォークで食べるのが正式なんだろうけれど、家の中でまでそんなルールは要らないだろう。ちょっと大きく切り過ぎたのを口の中でもぐもぐして、ごっくんと音が出る飲み込み方をする。料理好きなお母さんと結婚してお父さんは幸せなんだろうなあ、と思った。普通の料理もお菓子作りも、お母さんは得意だ。小さい頃はよく慧天と一緒にクッキーを作っていた覚えがある。あたしが受け継いだパイは、慧天の評価も上々だ。今度はキドニーパイとか色物も作ってみようかな。駄目だ、慧天はモツ系苦手。お子様舌なんだからなあ。

 くすっと笑うと、なあに、とお母さんに覗き込まれる。なんでもない、と言って、あたしもカニクリームコロッケを食べる。ふわふわでまだ中から湯気が立っていた。火傷しないようにしなくちゃな。と真剣に口に運ぶ。

 はふはふ水をちょっと含んでしまいながら、喉元を熱さが過ぎて行った。


 寝る時は音楽がある方が眠りやすい、って言うのは別に慧天の影響じゃなく昔からの癖だそうだ。お母さんいわく歌うとすぐ眠ってくれる楽な子だったらしい、赤ちゃん時代のあたしの言うのは。お父さんのお下がりのCDプレイヤーにちゃんとイヤホンが刺さってるか確かめてから、すでにすやすやと眠りに入っている子猫――バントラインを起こさないようにCDを入れる。今日の気分はメイド・イン・ヘヴンだから、それを入れて。ランダムにはしない、隠しトラックがあるから。それにCDは歌の手紙みたいなものだから、ごちゃごちゃに聞くんじゃなく並べられた通りに訊く方が気持ち良いこともある。とは慧天の言である。素直にその通りにしているあたしは、ちょっとどうかと思うけれど。

 あたしが帰って来るとちょこまか足に上ってきたりするバントラインと、同じような関係であるような気がする。親鳥の後ろを歩き回るカルガモみたいな。あたしはいつも慧天の後ろにいる。夏の事件だってそうだった。校長先生の死体を最初に見たのは慧天だった。あたしはその顔を見ていない。鈍い凶器で突かれた目を、見ていない。バントラインと出会った時の事件だって爆弾はあたしのお尻の下だったのに、主導権を握っていたのは慧天だった。心中するつもりであたしと一緒にそこにいた。心中。死んでも良いわ、とは、どこの文人の言葉だっただろうか。覚えてない。慧天の行動がその時どういう意味を持っていたのかも、あたしには分からない。少年を思い出す。三度目の正直で逝ってしまった少年を。死んじゃったって良いんです。僕はこの世を憎む。

 自分が憎んでいるものを明示できるのは意志の強い事だと思う。あたしには分からない事ばっかりだ。例えば慧天のお母さんはあたしのことを嫌って、憎んでいる。それは本当だと思う。態度には出さないけれど慧天に怒鳴り付けているのを見たことはあるから。

 あんな子の所為であなたは家族とも会話できなくなったのよ。ヘッドホンを外しなさい。私の話を聞きなさい。ぎゅっとヘッドホンを握り締めて、いやいやとしていた慧天。慧天は傷付きたくない。あたしだって同じだ。でも慧天は自分から傷付くのならそれをいとわない。少年の事も、校長先生の事も、そして、『先生』の事も。泣きながら持ち込んだ、パイと紅茶とクッキー缶。今も週末には欠かせないそれ。二年。二年経っても、あたし達はあたし達のままだった。後ろをついて、手を引かれて歩いている。慧天の手を引っ張っているようで、引っ張られているのはあたしの方だ。本当の所。どうにかしなくちゃと思っていても慧天は先に先に行ってしまう。あたしはそれを追い掛けるので精いっぱい。クラスメートにも友達はいる。ちょっとフリョーな所のある毛色の変わった友人も出来た。ラインで喋ってるって事は、あたしの通訳なんて本当はもう要らないのかもしれない。でも一緒に居たい。こういう時ってどうしたら良いんだろう。どういったらそれが叶うんだろう。解らない。It’s hopeless, so hopeless to even try。望みなんか何にもないと、ハイトーンの音でフレディが伸びやかに絶望を伝える明るい一曲目。何をしたって望みなんか無い。あたしもそうなんだろうか。足を引っ張るだけなんだろうか。

 ちょっと悲しいな、それは。傍にいる事さえ出来なくなるなんて。いつかあたしも慧天を必要としなくなる日が来るのだろうか。立って歩いて好きな方向に一人で行ってしまえる日が、いつか来てしまうのだろうか。


 それは空しいな。

 慧天を無視してしまえる日が来るなんて。考えられない。

 でも互いに互いを無視できるようになるとしたら、それは一種の進歩なんだろうな。

 手を取り合って。いなくても良い日が、いつかは必ず来る。

 十四歳のあたし達には、遠い未来の事みたいに。

 ごろん、と寝返りを打つとベッドが軋む音がした。

 抗議のようにバントラインが小さく鳴く。

 あたしもちょっとだけ泣いて、CDプレイヤーの音量を高くした。

 寝相が悪くてイヤホンが外れてしまったら家中にフレディの告白が響いてしまうな、なんて。


 もっとあたしの心のかけらを持って行ってくれないかな。

 もう十分渡されてる、なんて言われたら泣いちゃうかな、あたし。

 返さなくて良いから、持ってて欲しい。それがあたしのいる理由になるから。

 我が侭は駄目だ。あたしの暮らしは救われている。慧天の犠牲によって。でも慧天が幸せになる一歩を踏み出したと言うのなら、あたしはそれを受け入れなくてはならない。あたしの『ヒーロー』だった彼を、見送らねばならない。

 それがあたしに唯一残された課題であり、絶対の約束なのだ。寂しくても苦しくても、慧天が幸せになるためなら。今度こそあたしは踏みとどまらなければ。あの時引いた一歩のように、なることがないように。後悔しないために。一人でどこへでも歩いて行けるように。二人とも、繋いだ手を離して。

 それだけで心と心が離れて行く訳ではないのだろうけれど。


 あたし達はちょっと、依存しすぎているとは、自覚がある。それが男女の感情なのかは、自信がない。慧天は好きだけど、それが付き合いたいとか結婚したいとかの感情なのかまでは解らないのだ。あたしに関して言えば多分出来ると思うけれど、慧天はそう言うところちっとも見せないから、やっぱり幼馴染で止まる気がする。慧天には友達もいる。あたしにだって、同性の友達も異性の友達もいる。でも慧天だけの気持ちもある。

 これは恋なのかなあ。それとも罪悪感なのかなあ。人殺し。慧天が言われた言葉。あたしが聞かなかった言葉。もしもあの時一緒に踏み出していたら、あたしだってダメージは強かっただろう。あの事件の真ん中にいたのはあたしなんだから。そんなあたしの場所に取って代わって傷付いたのが慧天なんだから。この人殺し。違う。僕はこの世を憎む。違う違う。真ん中にいるのはあたしで、慧天はいつもあたしを助けようとしてくれていた。それは何故? 自惚れても良い感情なの、それは。

 あたしには分かんないよ、まだ。ねえあたしだけの『ヒーロー』。あたしに対してだけ、いつも『ヒーロー』でいてくれようとする『名探偵』。どっちも慧天ならあたしなんて要らないのかな。今度こそ静紅ちゃんのヒーローになるんだ。ねえそんな願いはとっくの昔に叶ってるからさあ。今のあたしだって、見てよ慧天。

 いつも肝心な所を見てくれない。もしかしたら見たくない? あたしの心なんてあたしだって見えない。どっちなんだろうなんて、解らない。幼馴染? 恋人? ちっとも、解らないよ。慧天。いつも一緒に居るだけのあたしなんか、本当は邪魔者? アップルパイの付属物?

 ぎゅぅっと目を閉じる。

 今夜はあんまり、眠れる気がしない。

 考え込んでしまうなんて、それこそ『名探偵』みたいだ、なんて。

 笑えないジョークを涙と零して、あたしは今度こそフレディの歌声に身体を任せることにした。

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