第10話 19歳──②

 偽りのない想いを口にしていることが伝わったのだろう。ようやく手のひらの力が緩み、琉笑夢の目が二、三回だけ瞬いた。

 頭に堰き止められていた血が、すうっと下に下がり始める。


「もうずっと、おまえのことばっか、だよ。昨日だってさ、駅でおまえのポスター見かけて一歩も足動かなくなったんだぞ……いい大人のくせに」

「……はる?」

「周りに変な目でじろじろ見られたけど、そんなのどうでもよくなるぐらい、おまえがかっこよくて綺麗で……だいぶ、見惚れた」



 ぱちぱちと、琉笑夢が何度か瞬きを繰り返す。

 一気にあどけなくなった表情に、ちょっと笑ってしまった。



「なあ、琉笑夢……おまえずっとオレのために我慢してくれてたんだよな。オレが自分の気持ちとちゃんと向き合えてなかったから、オレが昔言った条件に縋り付いちゃったんだよな」



 春人が言葉を紡ぐ度に、徐々に首を押さえ付けていた手が離れていく。

 


「ごめんな、おまえの気持ちから目え逸らすばっかで、おまえのこと不安にさせて苦しめて……だから」

「春──……」



 しかし、両手首はさすがにまだ抜き取れそうにない。

 というわけで、力が完全に緩んだ瞬間を見計らいそのまま目の前の額に向かって頭を突き出し、重い一撃をお見舞いしてやった。



「だからって、脚の腱切るとか監禁するとか殺すとか物騒なこと言うな!」



 ありったけの想いを込めて、がぁんと頭をぶつける。

 結構な衝撃に頭蓋骨がじいんと響いたが、春人よりも琉笑夢の方が被害はでかかった。

 こういった攻撃を食らうことは完全に予想外だったのだろう、珍しく「いッ」と痛みに呻いた琉笑夢が額を押さえ、下に沈む。

 次いで手首も解放されたので、ぶんと振り払って抜き取る。


「……てェ」

「一人で自己完結すんなって昔から言ってんだろ! 人の話を聞けよ!」

「なに、しやがんだこの石頭っ……」

「は? おまえ今オレに仕出かしたこと胸に手当てて考えてみろよ、頭突きくらいするわ!」


 取っ組み合いでは敵わないが頭の硬さなら誰にも負けない自信があったし、実際琉笑夢には何度か勝っている。


「ふ、ざけんな、いまの流れで頭突きとか……商売道具だぞこの顔は!」

「知るかバカ、おまえだってオレの首絞めてきただろうが。あのな、オレはおまえより年上なんだよ」

「ぽくねえし……フルチンで怒鳴んな、うざ」

「やかましい本当のこと言うな! パンツはおまえがずり降ろしたんだろうが!」


 モデルの顔だとかそんなのはもうどうでもいい。

 ついでに下げられているパンツも今はどうでもいい。


「わかるか? オレはおまえより年上なんだよ。8つもだぞ。だからおまえを世間一般から見てよろしくない道に引きずり込むとかしたくねえんだよ」

「よろしくない道? は、そんな赤の他人の価値観なんぞ俺の知ったことじゃ……」

「いいから、聞ーけ」


 ばちん、と両手で琉笑夢の頬を挟んで黙らせる。

 琉笑夢の顔が痛みに歪められたが、その瞳の色は先ほどに比べると雲泥の差だ。

 琉笑夢から発せられていた澱んだ圧迫感もいつのまにか消えている──よかった。



「……落ち着いたな? 琉笑夢」



 顔がよく見えるように下から覗き込む。たんこぶなどはできていないようだがしっかりと額も赤くなっていた。白い肌に赤色は酷く目立った。

 ちょっとやり過ぎてしまったかもしれないが、どうせ春人の首にだって薄っすらと赤い圧迫痕がついているはずなので喧嘩両成敗だ。

 少しでも痛みがやわらぐように、親指で赤らんだ額を撫でてやる。


「あのな、琉笑夢。おまえがどうでもいいのはわかってる。オレだってそういうのは個人で好きにすりゃいいじゃんって思ってるよ」


 けれども世の中はそうもいかない。様々な価値観を持った人間がごろごろいるのだ。


「でもさ、スポンサーとか支えてくれてる事務所とかそういうのに否が応でも迷惑かかっちゃったりするだろ。誰かに見られる仕事してんだから、好感度も大事だろ?」


 春人や琉笑夢のように好きにすればいいと思っている人もいれば好きにしてほしくないと望んでいる輩も一定数いる。つまり、自分にとって身近な存在である芸能人を、まるで自身の所有物であるかのように勘違いしてしまう人間のことだ。

 前者だけを相手にすればいいのだろうが、様々な価値観を持った人間の前に出ていかなければならない芸能人である以上、後者を蔑ろにするわけにもいかない。

 けれども、相手にすればするだけ自分が傷付くことになる。琉笑夢にそんな思いはさせたくない。


「だからおまえだって、色々隠してるわけだしさ」


 周囲の目を考えおちおち外食もしていられない琉笑夢のために、こっそりケーキを買ってきてやったこともある。琉笑夢は頬を緩めながらそれを美味しそうに食べていた。その顔を見るだけで仕事の疲れが癒されたものだ。

 本当は甘い物だって堂々と外で食べてほしいけど、琉笑夢が演じる「diDi」の設定上そうもいかない。

 そんな琉笑夢が、春人はいつももどかしくて仕方がなかった。


「それにオレとどうにかなったら……ゲイだのなんだのって世間様から厳しい目で見られるぞ、おまえ」

「──で?」

「週刊誌にすっぱ抜かれるに決まってる。ニュースになって……ネットのおもちゃだぞ」

「だから? 誰にも相手にされねえぼっちのガキがおもちゃで遊んでたところで何なんだ」

「そういうこと言うなよ……裏切られたって、ファンだって離れてくかもしんねえじゃん」

「だからなんだよ。離れたきゃ離れればいい」


 きっぱりと言い切られる。大方予想していた通りの返答に口の中が苦くなる。


「勝手に夢見て自分の意思で散財してたくせに、思い通りになんねえからって裏切られたとか馬鹿じゃねえの。尻ぐらい自分で拭け。別に俺はファンになってくれなんて誰にも頼んでねえし強制したこともねえよ。俺のしったことか」

「……応援して下さるファンの皆さんのおかげで頑張れていますとか答えてたくせに」

「だぁから、本音隠して活動してやってんだろ」


 琉笑夢の瞳は、これ以上ないほどに冷え冷えとしていた。


「歌って踊ってポーズ決めて、そういう俺の顔と体と声に興奮して感動して盛って抜いてんだろ世間様は。求められてる好感度わざわざ作って売ってやってんだ、私生活ぐらい好きにさせろ」

「さ、盛るとか抜くとか言うなよなぁ……」

「はっ、赤の他人に自分の尻拭い押し付けんなって話」


 通っていた学校で、他者から向けられる熱い視線を面倒臭そうに黙殺していた琉笑夢を思い出す。

 基本的に彼は派手な見た目に反して、他人から何かしらの感情を向けられることを酷く嫌がる。琉笑夢とそれなりに仲がいい夏人曰く、「琉笑夢くんは結構根暗」だそうだ。

 また一部からは珍しい名前のことでからかわれることもあったようだが、それすらも完全に無視し、相手にもしていなかった。

 だからなのだろう、インタビューでの受け答えやファンへの返信が普段の彼からは想像もつかないくらい丁寧なのは。

 彼にとっては、世間の反応も好感度も本当にどうでもいいものなのだろう。

 だから何を言われても感心がないし、簡単に当たり障りのないことも口にできるし本音を発言する気にもならないのかもしれない。


「赤の他人に、俺が誰を好きになるか強制する権利なんかねえよ」


 ここまで他人に無関心な性格なのに、他人の視線を一身に浴びる芸能界へと脚を踏み入れた理由は。

 フォロワーが500万人を超えるまで毎日こつこつと写真などを投稿していた理由は。

 時折送られてくる誹謗中傷を、態度を崩すことなくやんわりと躱している理由は。


「けどおまえは、駄目だ……」


 しっかりとしていた琉笑夢の声が、途端に小さくなった。


「春は、俺以外好きになっちゃ駄目だ、俺から離れんな。誰が何と言おうと、春は俺のものだ」

「……言ってること、矛盾しまくってねえ?」

「煩え、春のせいだ。よろしくない道とかわけわかんねえこと言うから……」


 俯いた琉笑夢の柔らかな前髪が、ふわりと胸元にかかった。


「周りの目とか死ぬほどどうでもいいんだよ。さっさと俺のこと受け入れろ、じゃなきゃ何するかわかんねえぞ……」


 言っていることはまごうことなき脅迫なのに、そんな掠れ切った切ない声でささやかれてしまったら。

 命令なのかはたまた懇願なのか、わからなくなるではないか。


 反射的に頭を撫でてやりたくなって、その前に言うべきことがあると手を引っ込める。


「オレ……な。おまえのオレに対する気持ちは、家族愛とかを勘違いしたものなんじゃないかって、ずっと思ってたんだ」

「なにそれ、そこまでガキじゃねえし」

「ばぁか、ガキだったよ」


 目を細める。ぎゅっと春人の袖を握りしめてきた小さな手を思い浮かべる。



「……子どもだったよ、おまえは」



 小さかった。

 春人もまだ子どもではあったが琉笑夢はもっと幼い子どもだった。


 短い脚で必死に春人の後を追いかけて、細い腕を伸ばしてきた。まるで親鳥を慕い続ける雛鳥のように。

 一人にしないで、一緒にいて、寂しい悲しいと、華奢な体いっぱいで訴えて来た。


「おまえ年下だろ。だから成長してオレなんかよりもっとキレイな子と出会ったら、目が覚めちまうかと思ってたんだよ」


 それこそ、彼は今モデルという仕事をしている。

 琉笑夢が載っている雑誌を読んだが、絡み合うように密着している華やかな美女や美男の姿に自分との違いを見せつけられた。

 春人は特別容姿が優れているわけでもスタイルがいいわけでもない、ただの平々凡々とした男だ。

 琉笑夢に執着されているという事実は痛いほどに自覚している。しかし春人が彼を受け入れたその後で、琉笑夢が春人に対して抱いている感情が恋心などではなかったことに気付いてしまったら。

 そんなの、互いに痛いだけだ。


「いつかもっと世界を知ったら、オレの存在が邪魔になるのかなって。今はこうでも、その内オレなんかどうでもよくなって……どっか、いっちまうのかなってさ」

「……本気? それ。誰を捕まえるためにこんなクソ面倒臭い世界に飛び込んだと思ってんの」


 ゆらりと顔を上げた琉笑夢に睨まれた。かなり憤慨しているが、ふつふつと煮えたぎる怒りを向けられてもこればかりは本音だ。

 今思えば、琉笑夢に嫉妬され暴れられるから恋人を作ることができなかっただなんて、ただの言い訳に過ぎなかった気がする。

 その証拠に、琉笑夢が海外に行っていたあの3年間ですら恋人を作る気にもなれなかったのだから。

 それどころか、どんなに可愛いと評判の人に話し掛けられても、琉笑夢の方が可愛いし綺麗だなぁなんて失礼な感想を抱きもした。芸能人や一般人問わず、誰を見ても同じだった。

 新作のシュークリームを見かければ、真っ先に思い浮かぶのは琉笑夢の顔だ。

 買っていってあげれば喜ぶかな、なんて。そんなことばかり。


 いつもいつも、琉笑夢のことだけを考えていた。


「怒んなよ。だって怖かったんだ……言っただろ、オレは年上なんだって」


 いくら琉笑夢にお人よしだと称される春人だって、好きじゃない相手からのキスなんて受け入れられるはずがない。突き離せなかったのは相手が琉笑夢だったからだ。

 自覚する前から、心の底ではとっくに琉笑夢に対する情が弟へのそれから琉笑夢という青年への愛情に変化していたのだ。

 けれども自覚してしまった後で、琉笑夢に想いを育んだ誰かと結婚すると報告されたら。

 琉笑夢の兄であるならば笑顔で祝福しなければいけないのに、もしもそれができなくなってしまったら。

 そう考えると恐ろしくて前に進めなかった。


 琉笑夢に言われた通りだ、春人はずるい。


「──おまえがいなくなったら自分が傷つくから、オレ、逃げてたんだよ」


 歳が離れているからだとか琉笑夢の将来のためを思ってだとか、そんな曖昧な言葉で濁して自分の心が傷つかないように本当の想いに蓋をしていた。


「別に監禁したり、足の腱切らなくてもいいよ」


 幼い頃に、父親に約束をすっぽかされたことがある。けれどもそんな出来事なんて、10年以上経った今では薄っすらと思い出せる程度だ。

 それなのに、琉笑夢は春人が適当に口にした言葉を一字一句覚えていた。


 幼い頃にした春人との「約束」を、決して忘れなかった。

 そして、春人に好かれるためだけに人目に晒される世界に飛び込んでくれた。


「目つぶされんのは、おまえが見えなくなるから嫌だ。腕と脚も切られたくねえよ、だっておまえと一緒に歩けなくなるし、おまえのこと抱きしめらんなくなるじゃん。舌抜かれんのも……嫌だ。おまえとキス、できなくなるし」


 ここまで一途に、13年間も想ってくれていたのだ。

 春人だって、そろそろ新しい一歩を踏み出さなければならない。


「そんなことされなくとも、オレ琉笑夢の傍から離れねえから。ずっと」


 顔を覗きこめば、琉笑夢は目を見開いたまま春人を凝視していた。

 何を言われたのかわかっていないようだ。


 手を伸ばし、さらりと綺麗な前髪を梳いてやる。撫でられるがままになっているのをいいことに、柔らかな髪の質感を堪能した。

 そういえば琉笑夢と一緒に風呂に入ると必ず頭を洗ってほしいとせがまれたっけ。琉笑夢の頭を乾かすのは春人だけの役目だった。

 春人が乾かしてやらないといつまで経っても髪を濡らしたままで、しかもべちょべちょの頭で一緒に寝ようとベッドに侵入してくるのだ。

 冷たいから乾かせと注意しても、返ってくるのはお決まりの「乾かしてくれない春にいが悪い」だ。


 わかっているのだ。

 琉笑夢の言う「春にいが悪い」は、結局のところ「春にいじゃなきゃやだ」という彼なりの切実な想いに他ならなくて。

 春人以外の誰にも甘えることができない彼にとっての、唯一の懇願だった。

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