第9話 19歳──①

「……へえ、おまえがそれ言う? じゃあどうやったら春、俺のこと見んの」


 そんな、痛みを堪えるような顔でまた同じ台詞をぶつけられることになるなんて。


 この一件があってから、琉笑夢は逃げるように父親の元へ行ってしまった。しかも3年という長い間だ。

 2年前こっちに戻って来た時は、琉笑夢はすっかり青年の体付きになっていた。そして海外にいた頃からじわじわと始めていたらしい芸能活動を日本に移し、そこからとんとん拍子にモデル、タレント、歌手とキャリアを積み重ね──そして今は俳優の道へと。


「別に……大根演技だって叩かれようが炎上しようがどうでもいいんだよ。ファンが減るのも別に関係ない、『俳優』って肩書きが付くことが目的だから」


 久しぶりに再会した時、立派な青年へと成長していた琉笑夢に驚いた。


 けれども琉笑夢は芸能界という華々しい世界に飛び込んで有名となりせっせと稼いでいるくせに、以前と変わらぬ態度で一人暮らしをしている春人の元へ足繁く通った。

 そして以前と同じように春人にべたべたくっつき、時々キレた。

 図体ばかり大きくなっても中身はまだまだ子どもだなと、春人の方も彼を変わらぬ態度で迎え入れた。


 変わったことと言えば、ふいに唇を奪われるようになったことだ。拒めなくて好きにさせている。

 そして、これまでは華奢な琉笑夢を足の間に座らせていたけれども、今では後ろから抱き締められるのは春人の方だった。


 それに海外から帰って来てから、琉笑夢は春人のことを「春にい」とは呼ばなくなっていた。


「本当は18歳になったら言うつもりだった。19に、なっちまったけど」


 18歳という年齢にこだわっている理由は直ぐにわかった。

 この国で男性が結婚できる年齢は、琉笑夢が迎えにくるといった18歳だ。


「おまえの提示した条件全部満たした。だから」


 あんなもの何も考えずに適当に発した台詞だ。子どもの戯言を躱すために口にしただけに過ぎず、深い意味なんてない。

 それを琉笑夢は、春人が提示した条件だと言う。

 その条件を満たせば春人と一緒になれると、本気で考えていたのだろうか。

 フォロワーが500万人を超えた瞬間、仕事で疲れているのにもかかわらず春人の元に駆け付けた琉笑夢。

 そんなの一言メッセージを送ってくれればすむことだというのに、それでも彼はこんな夜中にわざわざ春人に会いに来た。


 琉笑夢との仲は不可思議だった。

 琉笑夢が海外に行っている間も頻繁に連絡は取っていたのだけれども、5年前の出来事を話題に出そうとすれば躱されて、現在に至るまで話し合えていない。

 彼にとってあの日のことは忘れたいほど嫌な思い出なのかもしれないと思い、春人もいつのまにかその件を持ち出すことはしなくなっていた。


 彼と家族になりたいと思った、愛に飢えたこの子の、兄になりたいと思った。

 琉笑夢は結婚できなくなるから弟にはなりたくないと言っていたらしいが、それは家族愛をはき違えているのだと強引に結論づけていた。

 成長して視野が広くなれば彼の世界も変わり、春人のような年上の男などではなく年の近い綺麗な誰かと恋におちるのだと、そう思い込もうとしていた。


 春人は無意識の内に、琉笑夢と兄弟以外の別の名前が付く関係にならないように避けていたのかもしれない。

 だから執拗なまでに、弟に手を焼かされる兄のような態度を取ってしまっていたのだろう。


 自覚した途端、とんでもない羞恥に見舞われた。

 春人は鈍感な天然野郎なんかじゃない。ただ琉笑夢から逃げていただけだ。


 5年前のことがあっても何も変わらない曖昧な関係を求めていたのは、きっと春人の方だ。

 そんな春人の気持ちを十二分に理解していたからこそ、琉笑夢も春人の望むどっちつかずの関係を維持してきたのだろう。

 全部全部、春人の都合に合わせるために。

 春人に拒まれないように──嫌われないように。


「俺と結婚しろ。約束したからな、言っとくけど拒否権ねえから」


 射抜くようなまっすぐな視線は、小さい頃から何も変わっていない。

 凪いだ海のような琉笑夢の瞳はいつだって春人だけを映していた。


「だ、から。日本では結婚はできねえって……」

「知るかよ。約束は守れ」


 それなのに5年前のあの日は、春人の方から目を逸らしてしまった。自分を求める琉笑夢を見ていられなくて。


 あの日の拒絶は、琉笑夢の心に一体どれほどの傷を残してしまったのだろう。


「知るかじゃなくて、無理なんだって」

「まだ、だろ。だから今は形だけでいい」

「形って、どういう」

「おまえと一緒に暮らす。新しい部屋の目星もつけてる」


 芸能人、モデル、俳優、歌手、SNSでフォロワー500万人越えの有名人になること。春人より背が高くて手足が長くてかっこいい人になること。

 琉笑夢が目指し確立した今の姿が全て、他でもない春人に捧げるために形作られたものだなんて。


「おまえ……そんなことの、ために」

「そんなこと、ね」


 口に出してから後悔した。また傷つけた。


「春にいにとっちゃ、いつまで経っても『そんなこと』なんだろうな」


 どんな意味で、今彼に「春にい」と呼ばれたのかがわかってしまって心が痛くなった。


「なんでおまえ、そんなに……」


 オレのことを。

 どうして琉笑夢が春人にここまでの好意を抱いてくれるのかがわからない。

 だって8つも年が離れているのだ。それに春人には何の特技もないし、春人よりも可愛い子もかっこいい子も世の中にはたくさんいる。

 6歳だった琉笑夢の名前と髪を褒めたことが理由の一つだと言うのなら、彼がこれまで生きて来た中で対象となる人物はごろごろといたはずだ。

 琉笑夢はその美しい容姿から校内でも有名で、男子女子問わず毎日のように告白されていた。

 全てのことにおいて興味が薄い琉笑夢になんとか好意を持ってもらおうと、彼の名を褒める人間なんて星の数ほどいたはずだ。

 それに今じゃあ琉笑夢の髪を褒めるどころか、崇め奉る人間だって世の中にたくさん溢れているはずなのに。


「好きかって? 知るかよ……でもまあ強いて上げるなら、お人よしなとこ」

「オレ別にお人よしでもねえと思うんだけど……」

「どの口が。俺がポスターとか雑誌とか破いてもCDぶっ壊しても馬鹿みてえに許すじゃん」

「馬鹿っておまえな、いつもめちゃくちゃ怒ってるぞ」


 母親直伝の締め技もしたぐらいだ。あれは結構本気でやった。


「それでも俺のこと構ってくれる」

「構わねえとおまえ機嫌悪くなるだろ」

「今みたいに、夜中に突撃してきたのに追い返さないで部屋に上げてくれるし」

「……ドアぶち壊すって脅してきたのはどこのどいつだ」


 それにどんなに見た目が大人っぽくなったって。

 例え春人よりも稼いでいたって煙草を吸っていたって、琉笑夢はまだ20歳前なのだ。

 未成年をこんな深夜に放り出すわけにはいかない。


「ゲーム機、水没させたし」

「……ああ、あったなあ」

「あれは酷かっただろ」


 琉笑夢がふと遠い目をした。

 ゲーム機は高かったので、構えと喚く琉笑夢と徹底的に無視をする春人の攻防戦が二か月続いた後に、琉笑夢がお年玉や小遣いを叩いて新しいものを買ってきた。

 相変わらず琉笑夢は絶対に謝ることはしなかったけど、バツの悪そうな顔に怒りが削がれた。


「酷かったじゃん。俺いつも酷えこと、春にしてる」


 琉笑夢との付き合いももう13年だ。

 いつもいつも些細なことで嫉妬の感情が振り切れてしまう琉笑夢が春人の私物をめちゃくちゃにしても、叱り飛ばして怒ってげんこつの一つくらいで許してしまうのは。

 懲りずに同じことを繰り返す琉笑夢のことをどうしても春人が嫌いになれないのは。


「周りが……見えなくなんだよ、春のことになると」


 ──知っているからだ。


「感情の抑えが効かない。俺にもわかんねえんだよ、なんでこんなに、春に……なんで」


 苦しそうに、噛みしめた唇の隙間から唸る琉笑夢。

 琉笑夢は他のことでは絶対に感情を爆発させない。基本的に誰に何を言われても鼻で笑い飛ばすだけで相手にもしない。

 春人を筆頭に、春人の家族、琉笑夢の肉親や数人の友人などを除いた人間に心を開くこともなければ、冷えた態度を崩すこともしない。


 昔から春人に関することだけだなのだ。どうしても感情が抑えきれず情緒が不安定になってしまうのは。


「琉笑夢……あのな、オレは」


 そんな琉笑夢の心に渦巻く矛盾を、春人はやっぱり抱き締めてやりたいと思うのだ。


「──まあ別に嫌がられても別にいいけど。監禁すればいいだけの話だし」

「……ん?」


 琉笑夢に向かって伸ばした手ががっちりと掴まれる。

 ゆるやかに細められていく琉笑夢の瞳を見ながら、あ、来るなと悟る。この顔はスイッチが切り替わる直前の顔だ。


「だいぶ金もたまったし俺もう春のこと養えるから。一生家の中にいろ、仕事も止めろ──つーか止めさせる」

「まてこら、勝手なこと言ってんな」

「ふうん、嫌なの?」

「嫌に決まってんだろが、監禁とか犯罪だからな」

「おまえの意見なんざ知るか、俺が法律」


 こうなった琉笑夢は何が何でも人の話を聞かない。

 とりあえず落ち着かせなければ。


「なあ琉笑夢、聞いてほしいことあんだけど」

「煩え。なあおまえ知ってるか? 足の腱は一度切ったら戻らないって」

「……治療しなかったらだろ」

「は、治療? させるかよ……二度と歩けなくさせてベッドに縛り付ける。外にも出させねえし俺以外にも会わせねえからな、絶対」

「おわっ」


 掴まれた手ごと、再びベッドに組み敷かれた。

 両手をひとまとめにされ片手で押さえ付けられる。


「──るえむ!」

「どうせ何しても許すんだろ、放り出さねえんだろ。俺は子どもで春お兄ちゃんの大事な大事な弟だもんな」


 青い瞳に底知れぬ昏さがのぞく。

 完全に弓なりに反った瞳から白目の部分が消えかける。逃げたらだめだからなと春人の首を絞めて歪に笑う、出会ったばかりの頃の琉笑夢がそこにはいた。

 この場合逃れようと躍起になればなるほど逆効果だ。


「まあ別に、弟としか見れてなくても俺のこと好きじゃなくてもいいけど。何であれ約束は約束だ。おまえは俺のものなんだよ」

「だ、から暴走すんなって……あのな、ルゥ。まずは人の話を聞けって。オレはお前の──」

「おまえは絶対、誰にもやらねえ。いいか──俺から逃げたら殺すぞ」


 地を這うようなおどろおどろしい声に、息をのむ。


「犯罪だろうがなんだろうがどうでもいいんだよ……俺以外をみたら目をつぶす、泣き叫んだら喉もつぶす、逃げようとしたら脚を切る抵抗したら腕を切る噛み付いて来たら舌を抜く、だるまにして犯し殺してやる」


 乾いた琉笑夢の目が血走り始める。それでも彼は瞬きをしない。

 春人の一挙一動を決して見逃さないようにするためだ。


「──春、どこ見てんの」


 伸びてきた右の手のひらが首に添えられ、そのままくっと絞め上げられた。

 力は強くないが弱くもない。息が堰き止められるほどでもないが、顎の下辺りに食い込んだ親指と人差し指のせいでじんわりと血管が圧迫され、血がどくどくと頭の中にたまっていき視界が歪む。


「ル、……」


 癇癪持ちで口も悪く、我儘を言ったり甘えたり病んだりと忙しない琉笑夢だが、彼の口から「殺す」という言葉が飛び出したのは今日が初めてだ。

 もう、限界なのだと思う。琉笑夢が彼自身の気持ちを抑え込むことが。

 じわじわと喉を圧迫する力が強まってくる。気道が狭まり息苦しくなってきた。このまま長時間絞め続けられれば頭に血がたまって意識が飛んでしまうだろう。


「誰のこと考えてんの。俺のこと見てよ、なあ」


 ──たぶん、追いつめていた。

 ならば春人自身も、どっちつかずだった自分の気持ちといい加減向き合わなければならない。


「考えてる、よ……」


 弟として可愛がってきたから琉笑夢を許してきたわけじゃない。首を絞められているから嘘を並べ立てているわけでもない。

 琉笑夢が春人にとって大事な人間だから、放り出さないのだと。


「オレ……ずっと、考えてる」


 狭まった気道で、できる限り息を吸い込み、声と共に吐き出す。

 うまく飲み込めなかった唾液が気管に入り、けほりと咳き込んだが構わなかった。

 伝えなければならない最後の一言を、琉笑夢にきちんと伝わるように静かに言い切る。


「毎日毎日……おまえのことばっか考えてるよ、オレは」



 琉笑夢の瞳がほんの少しだけ見開かれた。厚い唇が微かに震える。

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